天山南路・歴史紀行 (1)

天山南路・1-1

【左図;玄装の全旅程 右図;法顕の全旅程 なぜ、玄装三蔵は法顕のように安全な海路で帰唐しなかったか 膨大な仏典を携帯して困難極まる陸路を選択したのか 紀行中、考えていた・・・】

 唐王朝の時代 幾多の仏僧がインドを目指した。

 仏典を求め、真理を探求する目的だけで。 灼熱の砂漠・酷寒の高地を越えた。

砂漠に足を奪われ屍を晒す、氷河に足を滑らせ帰らぬ人となる。

 法顕・恵生・玄奘・慧超・悟空は歴史にその名を残すも、多くの仏僧が山野に臥した。

  ドイツのオッペンハイマーが名づけしシルクロードは歴史とロマンの街道である。

  前回まで “汗血馬の故郷”で カシュガールからキルギスタン シルクロードの一部を紹介した。

  今回は天山山脈は南山麓 天山南道の紀行である。 歴史と浪漫を赴くままに書き綴ります。 尚、この紀行随筆は 三年前の紀行文を転載したものです。 ご理解ください。

  ウルムチ発カシュガール行きの飛行機は満席であった。 足下の天山山脈は雲の下にあり 機体はその上空を飛ぶ、 高度1万m程度であろうか。 

 約二時間 1200kmの飛行であった。 時折 雪嶺が伺えるも全貌は見えぬ。 天山山脈は広大である。 眼下の広がる山々は 天山山脈の西部域 その一部分である。

  ウイグル族の友人・マリヤムも機上している。 機上者は 男性三名 平均年齢74歳(私がこの数値を若くしている)、女性三名 平均年齢不問 の旅立ちであった。

  マリヤムは旅行ガイド(国家試験)の資格を持ち、各所の拝観料は罷免 ホテルも特別料金で賄えるゆえ 同行を依頼した。 大学卒業したての教職員。

 母国語の他 日本語、英語、中国語、キリギス語を解する 倍・バイリンガル。

  タクラマカン砂漠最南方のホータン出身だ。

*彼女は この紀行・ブログに時々 登場しています*

天山南路・1-2

【開闢以来 和服でシルクロードを闊歩した女性は居まい、孫悟空もさぞビックリ。 才媛・マリヤム淑】

 カシュガール飛行場に着いたのは昼前であった。 小さな管制塔にポツネンと事務所棟 滑走路は砂漠の中にあった。

 ゲートを抜け、マリヤムがタクシーの値段交渉。 料金 折り合い 三台のタクシーにて市街に向かった。

 ポプラ並木の広い街道を南に走る。 対向車は無い。 小半時で市街に入る。

 前回同様 街全体も やたらに広いだけで活気が感じられない。 ただ、砂塵が時折舞っていた。 やはり この地は冬の訪問がいい と思った。

  タクシーは色満ホテルの裏門から進入、道に面した正門よりコートの樹木が優しいと感じる。

 この色満ホテルは 日本人・橘瑞超と縁が深い。 前作との重複は避けますが、この地・カシュガールの近代史で重要な場所です。

  過日 ロシア帝国の領事館であった。 パミール高原西部を支配したロシアは混乱に乗じて天山山脈北部の豊潤なイリ地方を武力制圧するも 清朝に奪い返され、天山山脈南部のシルクロードは この地”天山南路の拠点・カシュガール”に堡塁を構えた。

 大英帝国はアフガニスタンを制圧し、北上した。 この色満ホテルから遠からぬ南側に領事館を設けた。 清朝は新疆省の経営に勢力を注ぐ。 三つ巴の攻防を展開したのは100年前のことです。

  三つ巴の勢力争いの渦の中に、22歳の橘瑞超氏は仏跡を求めて放浪し、ヘディンは投獄の憂き目にあいっている。

 カシュガールと言えばシルクロードの要点、東西交易のかなめのオアシスと考え勝ちです  が、 上記 参考図で玄奘や法顕がなぜこの地を通過せずに遠回りの北方ルートでインドに向かったのでしょうか?

 玄宗三蔵は どうして 困難な山越えの陸路(帰路途上 貴重な仏典・備品を谷底に落としています)したのだろうか・・・・・

  マルコ・ポーロはアフガニスタン経由でこの地に入っています。 この地の賑わいを記しています。 しかし 現在 なぜ この地に歴史的な遺構が少ないのでしょうか? 天山南路の旅が この答えを出してくれと思います。

 さて、 日程の打ち合わせ後 私とマリヤムは クチャに向かう汽車の切符購入に向かい、二時前に遅い昼食を済ませ、市内観光に出て行った。

天山南路・1-3

【 ホテル近くのレストランにて 典型的なウイグル料理 通常は素手で食べるが習慣です 】

  カシュガール市は人口40万弱。 以前 厳冬期に パミールを越えてキルギスタンを彷徨った。 往路と復路をこの町で過ごした。 市街を離れると砂漠地帯だ。

  近郊の砂漠はやや 灰色が濃い。 大小の河川のせいだ。 市内の定住者は漢族が多い。 古来 この地は疏勒国の国都であった。 インド・ヨーロッパ系の人々が住んでいた。

 隣国の亀茲国(クチャ市)もそうであったが、ヤルカンド・ホータンを通じてインド文化圏であったと言える。

  この地と漢・長安の間(近代のシルクロード)は匈奴勢力が支配していた。 紀元前2世紀の頃である。

 当時 シルクロードは月氏の勢力圏にあった。 匈奴が月氏族をパミールの西に追い 以降 匈奴が陰山山脈から祁連山脈 ゴビ砂漠西部・青海湖から敦煌 地域を支配下に治め、東西への要路を管理し 交易の富を独占していた。

  A.C.138年 漢皇帝の武帝が張騫(シルクロードを開拓した 誠に爽快無双で愛情豊かな人物)をパミール西部に移住した大月氏に 匈奴対策(東西からの挟み撃ち)の為 派遣した。

  が、大月氏動かず。 張騫の報告が 漢王朝に西方の地誌を伝たえていく。 後 巨大な匈奴帝国は内紛と ウイグル族の勃興で敗退・四散する。

  班超の人格が大きく作用して シルクロードは後漢王朝の勢力支配が確立して行く。

  他方 後漢王朝に於ける幕僚として政治的地位を得たウイグル族に帯同したソグド族が経済官僚としてシルクロードの富を専従する。

 シルクロード沿いにソグド族のコロニーが作られていく。

 確かに シルクロードは張騫が切り開き、ソグドの民が整備した と言えます。  しかし、 これは中国側からの視点でしょう。

 シルクロードの重要性は匈奴の時代から変わらないのです。

  匈奴帝国の原資は交易にありました。 歴代の中国王朝も全てそうでしょう。

  シルクロードが確立したのは 唐時代(大化改新の折で 阿倍仲麻呂・吉備真備が入唐の頃 西方の文化・文物・碧眼の美女が長安に満ち溢れている)からだ と言えます。

  パミール高原西部地域まで勢力を伸ばした唐王朝は 紀元7世紀中葉 タラス河畔戦役=日本では大仏開眼の頃です=が起きます。

 この戦争の結果 漢族の製紙技術が欧州に伝わり、欧州の文物がシルクロードに雪崩れ込むできたのです。

 唐の勢力はタラス(キルギスタン北西部=“汗血馬の故郷へ”参照=)にて破れ、漢中へ後退して行く。

 以降 この道が 東西交易路の要路として重きを成せばなすほど 新興勢力の羨望の的となり、  北の遊牧民族勢力・南のインド・アフガニスタン系民族勢力・ラサの吐蕃勢力・東の漢民族勢力・西のアーリヤ系民族勢力が奪い合いを演じる地域に変貌して行ったのです。

=班超の遠征=天山南路・1-4

【歳終えた班超 望郷の念に堪えかね西域を去る、32年間の滞在であった。

西域諸王・住民彼の前に額ずき、我らを捨てるのか と懇願し慟哭て玉門まで送って行く。

 しかし、漢の朝廷は帰還を許さず。 二ヶ年間 班超は玉門関にて嘆願の許可を待った。

“虎穴に入らずんば、虎子を得ず”は彼の言葉。

 また 彼の部下・甘英をローマに送っているも史実です。 雄大夢想ですね・・・】

_参考資料_

天山南路・1-5

天山南路・1-6

・・・・・続く

                         *当該地図・地形図を参照下さい

 

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