天山・草原のシルクロード(4)

草原の道・4-1

【一直線 ただ ひた走りに鄯善へと驀進、タクラマカン砂漠縦断道(前記載)は起伏が在ったが・・・】

 昨年の夏、今 走っている公道 火焔山を横切る312号線は 敦煌からの帰りに使った道だ。

あの折は 家内と二人 天地にただ二人のみ 玉門関に立ちて 四方 ただ 茫漠の砂のみに驚愕した 翌日の夕刻に敦煌を離れ、ウルムチに帰る途上だった。

火焔山に差し掛かる前に 太陽が昇り始めたのだった。 夜明け 太陽の光に目覚めた山肌の美しさが新鮮だった ことを思い出した。

あの新鮮さは 今は ない。 しかし 赤く 時には 濃いピンクの山肌は偉観である。

振り向けば、山腹からトルファン市街に点々と蟻塚が見える。 カレーズの縦穴だ。 日中の温度が上がっていることが山肌(砂岩である) に感ぜられる。 一木一草すらない。

火焔山の背後に出て一時間後 灰色の褐色で覆われた高原地帯を東へ驀進する。 砂漠には艶・色気を感じるが この風景の殺伐不毛な様は いったいなんだ。 一直線の道。 ただ、ただ一直線、 確かに 全ての道はローマに通じる だが、こんな道なら わけはなかろう。

ふと、パリーダカ・レースを思い出した。

そして、この地で展開された自動車ラリーを思い浮かべた。

それは パリーダカール・ラリーより数倍の過酷さを要求した自動車ラリーだ。

一般の乗用車(四輪駆動もモータバイクも参加・改造車は不許可)で競うレースなのだが、

《パリー北京を走り抜ける耐久レース》なのです。

 パリからヨーロッパ・アルプスを越え、東欧平原を突っ切り、イスタンブールからシルクロードを駆け抜け、パミール高原を走行し、天山南路・この場所を走り抜け、タクラマカン砂漠を敦煌に抜け、西安から北京に至る4万キロのレース。

 奇想天外 まったく、途方もない。

草原の道・4-2

【 公道312号線 北側・東天山山脈の前哨山塊 】

 第一回の実施は 第二次世界大戦終了直後だったと記憶します。 フランス・シトローエン社が主催で実施された と思います。

当時 この地は東トルキスタン国でした。 中国共産軍が新疆地区制圧に戦車を配置して 東トルキスタン国軍(ソ連が支援)と激しく戦火を交えていた時代です(1949年 中国が併合)。

その戦火を潜って、驀進するシトローエン車とVMW車・単車の一群 背景にはこの地方山並みが遠くにあった 写真を思い出して(白水社の世界冒険全集、今は廃刊・絶本かな に記載) いた。

          * このレースは その後、1980年代に縮小(中近東問題)企画され実施。1900-2000に数回、パミール東部での実施。 ここ数年は中断しています。  ただ、モトクロス愛好家が砂漠横断(トルファンーハミー敦煌ー蘭州ー西安ー北京) をラリーしている情報を耳にしますが・・・ *

前回の復路は夢の中であったのは 正解だった。

昼寝でもするか

そう トルファン自慢のブドウ酒がある。 その名も“皇帝/コウテェー”(岡山弁で心配・危険)

鄯善はオアシスの街である。

シルクロードの町は総てそうだが、この街は小さかった。

鄯善は

紀元前100年頃 漢王朝は西域経営に本腰をいれ、皇帝・武帝は“李広利”に大軍を従わせ大宛(フェナガール・大月国)へ遠征(張騫の再度の西域探査の後)させた。

が、トルファン王国の抵抗や 当地鄯善の民の抵抗 病気の発生 予期せぬ洪水 で李広利将軍が後退した町である。

* 李広利と李陵と司馬遷;  ・・・私の拙文に関係しますので 一読下さい・・・

武帝は西域の名馬の中でも大宛の「汗血馬」を特に好んでいた。

若い頃の李広利は、元来無頼として定職に就かない勝手気ままな人物であった  紀元前104年 武帝は寵愛する 李夫人(広利の妹)の為に、広利を「弐師将軍」に封じ,兵数万を率いて汗血馬を手に入れるため弐師城攻略に向かわせた。

・・・弐師将軍・広利はこの遠征に失敗した。 撤兵して、敦煌に入り2年間を過ごす。

これに 武帝は激怒し、「玉門関より中に入るようなら斬る」と命令を下した。

かくして 李広利の率いる軍は敦煌塞(玉門関近くの漢の武帝時代に築かれた長城)まで戻った。

武帝はもう1度大宛を再び攻めることを命じて、精兵6万、さらに牛の10万頭に、馬は3万頭、ロバ、ラクダ1万余頭は糧秣の軍の物資を運ばせ、これに加えて18万の部隊が後方より回りこみ、大宛外城に攻め入った。

広利の大軍は、40日余り大宛城を包囲 攻撃して 無数の大宛兵を殺した。 これに対して恐れをなした大宛は、漢軍が撤兵することを条件に、国王を先頭に投降し、あわせて3000数頭の「汗血馬」を漢に捧げた と史書に、明記されている。

白髪三千丈でも すごい。

これにより漢軍は玉門関にまで引き返したが、過酷な道のりのために、1万人余の兵と1000匹になっていた。≪実に過酷な凱旋です≫ 広利は凱旋し、海西侯に封じられた。

紀元前99年、匈奴討伐に向かった李広利の支援として 李陵が5千の兵を与えられた。

だが、李陵は李広利と合流前に匈奴3万の軍勢と戦い、兵力の差と支援が無かったために    匈奴に降伏してしまう。

李陵の祖父・李広は 先皇帝時代の有力将軍だったが、李陵一族は このことで 武帝は李陵一族を処刑してしまう。

李陵の親友が 猛然と武帝批判を朝廷内で公言する。(後、一族の処刑を知った李陵は 漢族を捨て、匈奴皇帝の厚遇で妻帯しています。)

親友・李陵の弁護論陣を張ったのが 司馬遷なのです。

司馬遼は死刑断罪を布告されるが、李夫人・李広利の調停により 宮刑(男性能力を除去する刑罰)に処され 宦官にさせられる。

この鬱積が司馬遷をして“史記”を書かせる。 尚 武田泰淳《史記の世界》中島敦《李陵》の名作があります。 歴史小説の華でしょう *

以後 漢王朝は 制圧避け、屯田兵を用いる政策を取り始める転換に成ったところです。

ところで 漢の時代と言えば秦帝国の後 紀元200年頃から西暦200年の400年間(前漢・後漢を含め)です。

この時代にシルクロードの人口はどの位だったでしょうか  文献には資料がありません。が、インドとも関係が深かったクチャ(日本仏教に影響を与えたクマラジャバの生地・亀茲国)が最大規模で15万人を越さなかっただろうとの推論からしますと、トルファンは10万人規模、 この鄯善は2万人以下だったと考えられます。

ハミは要路ですゆえ7・8万程度と考えていいでしょう。 従って、バイカル湖南の草原から移動してきたウイグル族が天山王国を建設できたのも理解できます。

無論 200名足らずでパミール以西まで支配した耶律大石の営為は驚くべき快挙です。 ジンギスカンは60万人規模の遠征隊ですから、 無人の荒野を進軍する容易さだったでしょう。

さて、午後4時過ぎに鄯善のホテルに入ることができた。

小さい街ゆえに いにしえからの キャラバン・サライ(ラクダ隊商宿)の趣を残ている。

まじかに砂漠が迫り、ホテルの窓からも一望できる場所・宿でした。

砂漠の散歩を小一時間 路上の屋台でカバブー(羊の串焼き) ビール ≪どうして 冷えたビールが無いのか!!≫ に 旅の話の花が咲いた。

遠望した狼煙台・ブドウ乾燥室・天山の景観 そして 砂漠 明日も砂漠の旅が続く・・・・・

草原の道・4-3

当該地図・地形図を参照下さい

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