天山・激動の草原地帯(5)

天山・激動の草原地帯

天山山脈 北部の旅 その二

 激動の天山5-1

 翌朝 カルマイ市を離れ 公道217号線は油田地帯を抜け、一路南下する。

 周囲は穀倉地帯だ。 屯田兵の兵農集落が続く。 河川の水は豊富だ。 ポプラが茂り、豊かな田園風景 オッと スピード違反で呼び止められた。

 袖の下で事なきをえる。 いや、紅白の帯(外国人の車上)が利いたのか

 前方に 天山山脈の枝 ポロホロ山脈が見え出した。 180キロも走れば鳥蘇市である。

 鳥蘇市に入れば、高速道路312号線にのれる。

 鳥蘇は敬愛する友・バトワール教授の故郷(今年の夏 孫三人と愛妻とで4日間滞在)です。

 マイナス25度の寒冷下、この町で彼と落ち合うために 四時間も待ったことを思い出した。

 彼からは 父祖が辿った苦難の歴史を聞いている。 彼はオイラートの家系。

 ジュンガル盆地のオイラート・モンゴルは 17世紀初頭 清皇帝・乾隆に根ざやしの殺略で消滅していたのです。

 現在 この地で遊牧する 彼の種族・オイラート・モンゴル族は 19世紀初頭に ロシアの圧政に耐え兼ね ボルガ河からの逃避した蒙古族なのです。

 その避難行で40数余万の蒙古族が息絶えたと言います。 バトワール教授の弟(東北大学卒業)は 先祖の避難ルートを追従したいが夢 私も賛同しているが・・・・

 鳥蘇市に入り、早めの昼食にした。 回族のレストランである。 店先には羊の頭だけを切り離した胴体が 内臓を処理されてぶら下がっている。 頭が三つ で 胴体二つ 一つは誰かの胃の腑に納まったのであろう。

 注文すると 麺を捏ねだした。 ぶら下がる胴体の片足を削ぎ、串に刺しだしている。

激動の天山5-2

 オイラトは、モンゴル帝国以前の12世紀にバイカル湖西部のアンガラ川からイェニセイ川に掛けての地域、現在のモンゴル国西部のフブスグルからトゥヴァ共和国の地にかけて居住していた部族集団です。

 元来はテュルク系(突厥⇒トルコ⇒現代のトルコ共和国)であったと視られています。

 1208年夏にクチュルクおよびメルキト部族連合の盟主トクトア・ベキらの追撃にイルティシュ川周辺に親征してきたチンギスカンに、自ら赴いて帰順した。

 この時、オイラト部族集団の首長のひとり・クドカ・ベキはチンギスよりオイラト部族4個万戸隊の長に任命され自治権を安堵された と 『元朝秘史』に記述しています。

 併せてこの時の帰順によって、クドカ・ベキの一門はチンギス家の皇女の降嫁を受けて駙馬(キュレゲン)家、つまりチンギス家の婿・姻族となり、モンゴル帝国の有力部族集団となっていったのです。

 クドカ・ベキはジョチ(ジンギスカンの長男)に従って「森の民」と呼ばれるブリヤト、キルギズ、コリ・トマトなどシベリア南部の狩猟民の征服に協力し、さらにクチュルク(ジンギスカンが少年時代の“アンダ(ヤクザ社会の義兄弟)”、トクトア・ベキの連合軍を撃破してトクトアを戦死させている。

 その後もチンギスの諸子や孫たちと皇女の降嫁や婿などを交換し、各地の遠征には子息たちも従軍するなどモンゴル帝国の中枢で活躍して行くのですが、ジンギス家の権力闘争に乗じて王国を築いていく。

       《後年 クチュルクはジンギスカンに嫉妬し 袂をを分ける。 クチュルクは名門の王子

       彼の策謀でジンギスは幾倍もの反ジンギス連合と対峙し、圧勝の内に全蒙古

       の皇帝に推戴されます。 クチュルクが反面教師 なのですね、 友情とは? 》

 14世紀の末から15世紀の前半にかけて、モンゴル高原では西部の諸部族、中でも権勢者・アリクブケ 一門支持派の基幹部族であったオイラトの力が高まって行きました。

 15世紀初頭には、オイラト部族長マフムードは高原でもっとも有力な勢力となっていた。 アスト部族のアルクタイを明の永楽帝が攻撃するのに協力、一躍高原最大の勢力に拡大した。

 明の永楽帝の20数回(親征は12回)に及ぶ 蒙古諸族への遠征で 蒙古高原は騒乱に陥った。

また、明時代に長城を 一番 北側に築いています。 北方騎馬遊牧民はいつの時代も中華の脅威でした。 中華は 女真族に攻め込まれ 清王朝に変わられるのは ご存知でしょう。

 その混乱で、モンゴルはハーンが次々に改廃され、部族集団が陣営を作り、また 集合離散する大混乱が起こり、部族の再編が進んで行ったのです。

 混乱の中で形成されたのが 四十モンゴル(中国史料では韃靼)と 四オイラト(瓦剌)と呼ばれる二大部族連合です。

 オイラト集団はケレイト,ナイマン,バルグト、ホシュート部などを含む部族連合集団に変容していったのです。

 16世紀のオイラトは、モンゴル高原の西部からアルタイ山脈を経て東トルキスタン北部のジュンガリアにかけての草原地帯に割拠し、ホシュート部族が有力となって行きます。

 各地で部族間の抗争は絶えません。 蒙古高原・ジュンガール盆地は戦国時代です。

 1630年頃の部族内紛の後、ホシュート部の首長となっていたグーシ・ハーンは、

 帰依していたダライ・ラマの宗派 ゲルク派がチベットにおいて政治的に危機に陥っているのを救うという名目で、1636年にオイラト軍を率いて出動、遠征します。

 1637年初頭、チベット東北部のアムド(現青海省)を制圧、その後ラサに上ってダライ・ラマ5世より「シャジンパリクチ・ノミン・ハン、テンジン・チューキ・ギャルボ」の称号を授かったのです。

    《 チンギス統原理 ;

    騎馬遊牧民の首長たちで 成吉思汗の子孫ではない者はハーン(帝王・皇帝)に成る       ことは出来ません。

   従来 全オイラトを統べる実力者であってもタイシ(中国語の太師)などの称号を名乗っていたが、グーシ・ハーン以後、時代ごとに、オイラトの有力指導者の一人にダライ・ラマがハーン号と印章を授けるという手続きを経て、ハーンを名乗ることができる慣例がありました。

  ダライ・ラマの地位は 元朝・クビライがラマ教を国教に定めた以降 不可侵のようです》

 グーシ・ハーンはバートル・ホンタイジに政権を委ねます。 バートル・ホンタイジ一族は 再び 内紛で殺害され、 前記載のバートル・ホンタイジの弟でダライ・ラマに師事する“僧・ガルダン”が

 チベット仏教の守護者として、イスラム教勢力やゲルク派に反抗する勢力との戦いに明け暮れ、東トルキスタン全域からモンゴル高原の西部にいたる大遊牧帝国を築きあげたのです。

 さらにガルダンは、モンゴルのハルハ部族(現在のゴビ砂漠南域に定住、この王家の“徳王”からジンギスカンの血が日本人に入って行く 後日記載) ハルハ部族の内紛に介入します。

 モンゴル高原中部に攻め入ったガルダンの結果は、反ガルダン勢力を 雪崩を打って内モンゴル・ゴビ砂漠南方域に逃れさせ、清の康熙帝に服属させたのです。

 モンゴル高原の支配権をめぐって オイラトと清朝の全面戦争となって行ったのです。

 ガルダンは遊牧兵力の機動力を生かし 蒙古高原を制圧して行く、が、偶発的に康熙帝の親征軍に遭遇して敗れ、オイラト軍団は敗走 ガルダンは逃走しますが・・・・

 清朝は、ジュンガルに対する不信感を強め 1723年-1724年にチベット、1754年-1755年にジュンガリアに二十数余万の将兵で出兵して ジェノサイト的破壊を敢行するのです。

激動の天山5-3

 天山山脈は地勢学上 誠に重要な地域です。

 産業革命に伴う欧州列強は植民地獲得に動き出している。 大英帝国はインド大陸を支配した後、新たな市場拡大 殖民領土を中央アジアに志向する。 ロシア帝国は不凍港を求め、南下・東征を繰り返していました。

 海のシルクロード(海上交易)が技術革新で安全・確実に成ったとは言え、交易の富は旧来の草原の道に集まっています。

 天山山脈に いかに覇権を確立するか 清朝・ロシア・大英帝国が競い合いだしたのです。

 18世紀中頃 清王朝・乾隆帝はジュンガール王国の激しい抵抗に 王国内の住民を抹殺する勢いでジュンガール地方を征圧します。

 人口は半減したと言います。 乾隆帝はこの地を新疆(新しく征服した地域)となずけ、未だ抵抗やまぬ領民を弾圧・殺戮でオイラートを壊滅して行きます。

 また 興安嶺山脈の遊牧・猟集民 シボ族5000名余 アムール川のソロン族 満州北部のダグール族を強制移住させて、清朝は権勢維持・新疆支配に努めます。

 万余の異種民族がこの地に流入、支配者側に立ったのです。

 ロシア帝国はキルギス族を配下に納め、イリ渓谷を混乱に紛れて略取したのです。

 ヤコブ・ペグ(蒙古系ジンギスカン第二子系列)を傀儡政権に仕立てたイギリスは、パミールより西進しウルムチ・イリから清朝勢力を撃退します。

 10余万の援軍を清朝はウルムチに送り、ヤコブ・ペグを撃退し 後 4万余の兵士でイリ渓谷からロシア勢力を追い払うのです。

 世界の覇権・帝国主義が 血みどろの戦いを この地で演じたのは 18世紀初頭の頃でした。

 18世紀の中央アジアは このジュンガール・イリ地方は 上記勢力図の如き 巨大な3勢力がこの地で 角を付き合わせたのです。

 強制移動を強いられたツングース系遊牧民・旧勢力の蒙古系遊牧民・土着のウイグル系住民・新来の漢族系農民の苛酷・熾烈・終わることが無い殺し合い。

 そして イスラム教・ラマ教・ギリシャ正教がこの地をますます混迷に陥れて行くのです。

 我々が進む道を 悠々自適で旅した哲人がいます。

 儒学の泰斗”王重陽”の高弟No.1“丘長春”その人です。 時の金帝国をも袖にする胆力・知力の御仁 “耶律楚材”を高く評価しています。

、高齢にもかかわらずジンギスカーンの要請に応じて山東半島から旅してきたのです。

 天地で遊び、サリム湖畔(我々が宿泊した)を楽しんでいます。

 旅を続け、遠征中のジンギスカンに会います(前記載済)。 タシケントにて一月ほど待たされた後、

 身内の戦死でいきり立つ大帝王・ジンギスカンは 馬上から下問する。

 『遠路はるばる来られたには、朕に約立つ長生の薬を 何かを お持ちに成られたのであろうな』

 長春真人は答えた『養生に道在り、されど 長生の薬なし』 と “喝”しているのです。

 始皇帝の妙薬切望に詐欺して 日本まで逃亡した福寿何某とはちがうようですね。

 天山山脈まで強壮剤を探しに来た登山の先輩(自家用ジェット機を自ら操縦 74歳)がいる。

 彼は 始皇帝の故事には詳しいが、この話は知らないようだ。 “冬虫夏草”は効き目なしと大帝王・ジンギスカーンは 800年前 すでに 喝破していたのですから・・・・・・・

_中国の少数民族問題とは何か? の一助になればと長舌しました。 あしからず。

ジュチ一党2-13ー2

エピローグⅢー9-4

*当該地図・地形図を参照下さい

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