紀行エピローグ・写真随筆 14

紀行エピローグ3=敦煌・哈密地区=

エピローグⅢー5-1

  敦煌 莫高窟、民族資料館、月牙泉を見て回った。

莫高窟の案内書によれば 作られ始めたのは五胡十六国時代に敦煌が前秦の支配下にあった時期の355年あるいは366年とされている。

仏教僧・楽僔が 夕陽を浴びて黄金色に輝く対岸の三危山を拝し 千仏の威厳を感受し、山腹に石窟を掘り 修行の場としたのが始まり と記されている。  空海の話と同じなのだ。

その次に法良が修業の場とし、その後の元代に至るまで1000年に渡って 1000以上の石窟が彫り続けられました。 現存する最古の窟には5世紀前半にここを支配した北涼の時代の弥勒菩薩像が安置されている窟です。

この弥勒菩薩像は両脚を交差させているのは中央アジアからの影響を示している と解説されています。

それ以前のものは後世に新たに掘った際に潰してしまったようであす。 窟のうち、北部は工人の住居となっており、ここには仏像や壁画は在りません。

現在 壁画等のある492窟が発掘されています。 時代別には 隋代以前108窟、隋代97窟、唐代225窟、五代7窟、西夏代20窟 宋・元代35窟 です。 隋(589-619年)は文帝・煬帝の2代の29年間ですから、すごい勢いです。 聖徳太子摂政時代から法隆寺建立の時期ですね。

ちなみに、達磨大師没(528年) 日本への仏教伝来の時期ですね。 前漢・武帝は約500年前の独裁・独尊・独行な不世出の皇帝、そして 隋の後に 華やかな唐の時代が開かれるのです。

エピローグⅢー5-2

莫高窟内の写真撮影は禁止ですが 写真集・文献を調べますと 壁画の様式としては五胡十六国北涼の莫高窟初期には民間神話が多く、後漢時代に伝えられた仏教が中華古来の神仏思想と結合したものと考えられます。 【敦煌莫高窟・開明時代】

また 印度のクシャン・カニシカ王朝時代(当時 西域はインド文明圏)に伝わった仏教芸術の影響が強いといえます。

続く北魏時代には クチャからの仏師の流入(前記載済) また 5世紀に鳩摩羅什(クララジュ、父は印度人 母はクチャの皇女)がサンスクリット語仏典の翻訳事業により 西方の影響が増々 色濃く、仏伝・本生譚・千仏などが描かれるようになりました。 【敦煌莫高窟・初期時代】

北周・隋唐時代になると中国からの影響が強くなり、『釈迦説法図』などが描かれるようになっています。 唐時代の壁画が莫高窟の黄金時代と言えるでしょう。 西方極楽浄土を描き、豊満な肉体の菩薩、写実的な顔の表現 都“長安”の文化ですね。

その背景には吐蕃(チベット)勢力の拡大と支配があり、絵画技法に画一化・形式化・様式化が進んだと考えられます。 【敦煌莫高窟・中期時代】

北宋から西夏支配期に入ると、敦煌の価値が下落したことで数も少なくなり西夏代のものは20、次の元代の物は7と推定されているます。

五代から宋にかけて 支配者の曹氏一族が大型の石窟を造営(現代の正面中央部)します。 また 旧窟の補修・修復を行いますが、壁画は類型化の一途をたどって 魅力を失って行きます。 更に 西夏時代は 殆どが旧窟の改修したもので、重ね画きされた壁画は単調です。

元の時代は 漢画技法とチベット密画技法が競合して 共に 漢画系統とチベット密画系統は洗練された幻想的な空間に誘ってくれます。

しかし この頃になると敦煌はまったくの寂れた都市となっており、以後は長い間、莫高窟は忘れられた存在となったのです。 【敦煌莫高窟・後記期時代】

この莫高窟が再び注目を浴びたのが、莫高窟の北の端 第17窟(唐の後期作)での 1900年の敦煌文書の発見(前記載の項 参照)です。 がしかし、西欧の学者はともかく その後も莫高窟自体にはあまり注目が集まらなかった。

その価値が認められ、保護が行き届くようになるのは中華人民共和国成立以後のことなのです。

これには 一人の若き知識人(西洋絵画の研究にパリに留学)の生涯を賭けた情熱があったのですが・・・・・

エピローグⅢー5-3

市内から莫高窟を眺めると 背面の砂丘が鳴沙山です。 月牙泉は この鳴沙山砂丘の一角にあり、不思議なことに清水が湧き出る泉でした。

莫高窟正門の橋を市内に向けて歩くこと約2キロ 市内バス莫高窟バス停前に 予期せぬ民族資料館が在りました。

エピローグⅢー5-4

莫高窟では 公開されている窟は極わずかです。 南北約1.6キロ 三層・四層の石窟を単純に 492窟を並べると30キロ相当に成るのですから。 全部を注意深く鑑賞すれば 中国の仏教美術を一ヵ所で学べるのです。

特に破壊・略奪があったとはいえ、壁画は仏教美術の精粋と言って良いでしょ。 新疆ウイグル自治区の石窟群がイスラムの破壊や近代の略奪を受けての大きな損傷とは対照的です。

しかし、仏像は石質が脆いためか、石像は無く 泥塑であり、また 木彫のイメージを持つ私には肉感的で インドのアジャンターやエローラ的で親しめませんでした。

シルクロードと言えば“月の砂漠”を進む隊商のイメージが固定されているでしょう。 莫高窟の裏 敦煌市内南5キロに 東西約40キロ南北50キロの砂丘地帯があります。

ある条件下 砂山を滑り降りると地響きのような音を立てるそうです。 鳥取大学の教授グループが研究したそうですが原因解明には至らなかったと聞きますが、鳴沙山がこの砂丘地帯の命名の由来です。

観光客用のラグダが数百頭待機していました。 この地帯の砂は赤、黄、緑、しろ、黒の五色であり ゴビ砂漠の黒色 タクラマカン砂漠の黄色が勝った色より優しく思えます。

鳴沙山の谷合 沙漠の谷合に 清水が湧き出る三日月型の泉が“月牙泉”です。 不思議な泉ですね。 家内と二人でラクダに乗って訪れました。 まさしく“月の砂漠”です。

昼間でしたがゆえに ムードは半減 しかし 泉の傍にある楼閣に登れば 漢時代の皇族に成れたと自悦にひたった と報告しておきましょう。

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《 次回は ハミ市に移動します 宜しく 》

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