紀行エピローグ・写真随筆 15

紀行エピローグ3=敦煌・哈密地区=

エピローグⅢー6-1

【ハミ市(クムル、ウイグル語)より天山西部(ボゴダ山脈)を望む、市街にて;民族楽器・礼拝】

エピローグⅢー6-2

 

総人口(2003)    40.4 万人のハミ市(クムル市)には数度訪れている。 シルクロードで重要な街である。 友人もいるし、訪れれば彼の自宅に世話になっている。

遠望する天山の眺めは 大町・安曇野から北アルプスを眺望する数倍のスケールで私を楽しませ、圧倒する。 周囲が砂漠地帯である故 この感慨はひとしおであり、私一人だけではないだろう。 そして オアシスの恵みにシルクロードの豊かさを思う。

《 前記載拙文“勇者達の足跡”の紀行記 をご参照 下さい 》

ハミ市(クムル市)は 紀元前2世紀初め匈奴の統治を受けていました。

紀元前60年前漢が西域都護府を設け、「伊吾盧」と称した。 後漢は宜禾都尉を置いたのです。

北魏は伊吾郡を置き、隋は伊吾郡と柔遠鎮を設け、 唐はこの地に伊州を設け その下に伊吾、納職、柔遠の三県を設けた。 また軍団・伊吾軍を常設しています。 三蔵玄装が死の旅から蘇生し、高昌国へ 再び 旅立ったのも この地ですね。

クムルは 耶律大石が西遷し、西遼の領土となった。

元朝時代には西域に阿力麻里(アクマリク・下図参照)行中書省が設けられ、哈密はこれに属した。

当時回鶻(ウイグル)は畏兀児、伊州は哈密力(Qamil)と呼ばれていた。

ポルトガル人J.B.ゴォエスとイタリア人マテオ・リッチの1605年に旅してきた。

後にチャガタイ汗国系の王侯による独立した哈密国となった。

1404年に明朝へ帰属し、哈密衛が設けられた。

1678年にはモンゴルのジュンガル部の占領を受け、その後清朝へ属ました。

清朝は1759年に哈密庁を設け、1884年直隸庁へ昇格、中華民国が1913年に庁から県へ改めています。

しかしながら チャガタイ系王侯は形式上1930年まで哈密で命脈を保っていました。 その王宮へ 私も足を運んでいます。 観光客が訪れる場所ですが、こじんまりと寂しかった。

エピローグⅢー6-3

アルマリクは イリ川渓谷の歴史的都市。 モンゴル帝国時代の13世紀から14世紀頃にイリ川渓谷を経て天山山脈北麓を通る交易路の拠点として栄えていた。

またイリ地方は 周辺に広がる草原地帯の遊牧民たちが拠点として利用しのです。

正確な位置は明らかではないが、現在の中国新疆ウイグル自治区北西部、カザフスタンとの国境に近い伊寧

(イーニン・グルジャ)からホルゴスのあたりにあったとされています。

アルマリクの名は13世紀にはじめて歴史にあらわれ、耶律楚材や長春真人の旅行記には「阿里馬里城」と記されている。

《 前記載拙文“イリ渓谷の悲劇”の紀行記 をご参照 下さい 》

アルマリクが歴史にあらわれた頃、イリ地方一帯の遊牧地には成吉思汗の次男チャガタイの所領(ウルス)が置かれ、14世紀初頭にいわゆるチャガタイ・ハン国が形成されるとその中心都市となったのです。

まもなく、 チャガタイ・ハン国が東西に分裂すると東チャガタイ・ハン国に入り、クルジャを中心にジュンガリアからバルハシ湖南岸に至る一帯はモグーリスタンと呼ばれるようになる。

ハミ市はチャガタイ・ハン国の商業の中核都市だったのです。

エピローグⅢー6-4

【 ハミ市(クムル、ウイグル語) 郊外にて ; 市内一角のブドウ園と旧街道 】

エピローグⅢー6-5

現在の民族構成は 68.4%の漢族と31.6%の少数民族(ウイグル族、回族、カザフ族など)の21の民族が居住しています。

歴史が深いオアシスの街として 五堡の魔鬼城、白石頭の草原、鳴沙山の万民嘶鳴、回王墳、蓋斯墓、五堡古墓群、天山廟、沁城岩画、廟爾溝、西路軍進疆紀念園、烈士陵園 等 魅力に溢れ、敦煌~ハミ 敦煌ー楼蘭ーホータンと敦煌・玉門関を出ればハミに 敦煌・揚門を潜ればホータンにいたったのですね。

天山北路・南路への 「大きな門」 を意味する古代ウイグル語のハミが、都市名の起源と も言われているのはうなずけます。

太古より 南には巨大なタクラマカン砂漠が横たわり、東側はクムターグ砂漠、北に天山山脈、南のチベット高原にも崑崙山脈と、居住に適さない地域が過半を占めていたのです。

ウイグルの都市は東部から西部にかけて鎖状 しかも 沙漠のオアシス(山脈からの伏流水)を連らねて 行くのは当然ですが、過酷な環境であることには違いがありません。 個々の都市は孤立していると言っても好いでしょう。

現代は 東端のハミから西端のカシュガルまで、かつてのシルクロードには鉄道が通り、道路もよく整備されているので、空路とあわせ、現在は交通に不便なき地域と成っていますが。

エピローグⅢー6-7

【 ハミ近郊 友人の故郷“五堡村”にて ウイグル人の村落 】

ハミは、甘粛省の敦煌から北山山脈(東西25キロ南北5キロの風化土堆群、 魔鬼城と呼ばれる一帯)を越えると現れるます。

ハミ盆地の中心都市で、かつては昆莫(クンモ)、次いで伊吾(イーウ) と呼ばれたました。 清朝の領土となった17世紀末 以後 中央アジアの文化と中国文化が混交し行ったのです。

清朝に服しながら、康煕 36年(1697年)から民国 19年(1930年)に至るまで 233年間にわたって ここを統治したイスラーム政権が、ハミ王国なのです。

イタリアのマチェラータ出身のリッチは、イエズス会に入会後インドでの宣教を志して1578年にゴアに派遣され、その後、マカオに滞在していた東インド管区巡察師の招きに応じて1582年に同地へ赴き、マカオで中国語と中国文化の研究を行っています。

布教活動で中国南部の都市を転々とします。 中国の儒者の服を着て中国式の生活をして中国文化の研究に励んだのです。

やがて彼の学識、特に科学知識が有名になるにしたがって、徐々に キリスト教への入門者 また 彼の支持者が増え 1598年についに北京に辿り着きますが、豊臣秀吉の朝鮮出兵のあおりを受けて南京へ移ります。

1601年に再び北京入りして高級官吏の紹介を受けて万暦帝の宮廷に入ることに成功しました。 リッチは東西文化の架け橋に成る事に専念します。

中国で、キリスト教の教えを説いた『天主実義』・世界地図である『坤輿万国全図』・ユークリッド幾何学の漢文訳である『幾何原本』等を刊行し、その文化に多大な影響を与えると同時に、中国文化を欧州社会へ好意的に紹介しつづけたのです。

『坤輿万国全図』が日本に伝わっていることからもわかるように、彼のもたらした新知識の多くは漢語に訳されたおかげで中国・日本へも影響を与えるているのです。

中国文化に精通し、人格者であったリッチは中国知識階級に影響を及ぼし、『農政全書』を著した徐光啓や李之藻といった多くの知識人がキリスト教徒となっていますし、彼が1610年に北京で死去した折、万暦帝は阜成門外に 彼の墓を作らせています。

この人格者のマテオ・リッチが 1605年にこの地を訪れた紀行文に 感銘した説話を書いています。

「ケイス墓・聖人墓とも言われ、預言者マホメットが唐に派遣した伝道者の一人にケイスがいた。 唐は太宗の熱烈な歓迎の後 帰国途上 この地で落命した。 当時(6世紀中葉)ウイグル族はマニ教徒であったが、ハミ王は 異郷の回教聖人墓を建立している。 今も 清純と墓が美しく保たれているのを私はみた。・・・・・」と ウイグル王家への敬愛を書きとめています。

彼も その亡骸を万暦帝に見守られたのですから、もって然るべきですね。

エピローグⅢー6-6

【 野営地を 移動するカザフ遊牧民、ハミ市(クムル)郊外にて】

                         *当該地図・地形図を参照下さい

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