紀行エピローグ・写真随筆 21

紀行エピローグ4 =シルクロード・嘉峪関=

エピローグⅢー12-1

  嘉峪関は万里の長城の一部 “万里の長城”は版築(一部日干し煉瓦)による城壁です。

 嘉峪関(カヨクカン)は甘粛省嘉峪関市に位置し、万里の長城の最西部に位置する関所です。

 山海関と共に万里の長城で要衝であったのです。 山海関から連綿と連なり(その一部は南北に二層、北京北方の“八達嶺”はご存知でしょう)その述べ延長距離 2800キロ以上です。

 嘉峪関は嘉峪関市の南西6kmに位置する河西回廊西寄りの最も狭隘な地に設けてあります。 そこは2つの丘に挟まれた土地で一つは嘉峪山と呼ばれている。

 城壁の一部はゴビ砂漠を横切っており、険要たる地形にその威容を誇っています。 歴史の舞台です。

エピローグⅢー12-2

  嘉峪関は周囲733mを高さ11mの城壁に囲まれ、内域は33,500平方メートル以上であす。 黄土を版築でつき固めた城壁であり、西側は煉瓦を積み重ねて出来ているのです。

 東西にそれぞれ楼閣(門楼)と甕城を持つ城門を備え、東を光化門、西を柔遠門とよばれている。 西門には「嘉峪関」の扁額がかかってた。

 関の南北は万里の長城とつながり、城壁の隅角部には櫓が設けられている。 2つの門の北側には関の最上部に上ることが出来る通路があった。 嘉峪関の防御設備は大別して内郭、外郭、堀の3つとなっているようだ。

 私は一人で訪れ、後日 家内は友人達と来て その日の夕刻遅く敦煌に投泊している。

 万里の長城につながる関の中で唯一建設当時のまま残される建造物であるのです。

 最東端にある山海関が「天下第一関」と称されるのに対し、嘉峪関は「天下第一雄関」といわれています。

 東西シルクロードの要衝の一つであり、周囲には敦煌莫高窟のような著名な史跡が存在し、多数の漆喰壁画が敦煌莫高窟以外で見つかっているのです。

エピローグⅢー12-3

 嘉峪関の設計者に建設に必要な煉瓦の数量を尋ね、予備の1枚を準備して建設に着手した結果、完成時に正確に1枚だけが余ったという伝承がのこされています。

 その煉瓦は現在門上に残されており、綿密な計画に基づいて建設されたかを示す逸話となっており 建築設計者として 興味をもって説明を聞きました。 現代のサンプル保管ですね。

 明代の初期 1372年(洪武5年)城塞は再建設された後、ティムール軍に対する防衛の必要性から関の防備は強化されました。 しかしティムールは東進着手前に老衰で死去し実際に攻撃されることはなかった。

      《 ティムール;(1336年4月8日-1405年2月18日)は、        中央アジアの蒙古系軍事指導者ティムール朝の建設  者(在1370年4月9日-1405年2月18日)・文化の創造者。

     魅力的な人物 度々記載済み、後日“中央アジア人物伝”にて連載予定です、宜しく・・》

 築城記録には 1495年(弘治8年) – 内城に光化楼と柔遠楼を造作。

 同時に官庁、倉庫等付属建造物を修築。 1539年(嘉靖18年) – 城壁上に敵楼、角楼を増築し、両翼の長城、烽火台等を修築した と記されていました。

エピローグⅢー12-4

 河西回廊(河西走廊、甘粛走廊)は、東は烏鞘嶺からはじまり、西は玉門関、南北は南山(祁連山脈と阿爾金山脈)と北山(馬鬃山、合黎山および龍首山)の間の長さ約900キロの街道です。

 幅数kmから近100kmと不規則な、西北-東南方向に走る狭く 長い平地です。

 回廊の形を為し、黄河の西にあるために河西回廊と呼ばれ、街道筋には 蘭州と、6,5000m級の祁連山脈を水源とする、砂漠河川に潤されるオアシス都市群が連なっています。

「河西四郡:武威(涼州)、張掖(甘州)、酒泉(粛州)、敦煌(瓜州)」を包括する地域です。

 民族では漢族、回族、モンゴル族、ユグル族、チベット族など多くの民族が居住し 漢の武帝が河西を開闢し、武威、張掖、酒泉、敦煌の四郡を列して以来、内陸の新疆に連なる重要な通路です。

 古代のシルクロードの一部分として、古代中国と西方世界の政治・経済・文化的交流を進めた重要な国際通路であっことは 再三 話しておりますね。

 この「河西四郡」からの西方への出口が“玉門関”と“嘉峪関”です。 “陽関”は河西南道の関所ですから 安全なオアシス都市を西に旅すれば嘉峪に辿り着くわけです。

 私は この河西街道をバスにて二度の旅を楽しんだ。 気に入ったオアシスの街の安宿に潜り込み、雑多な感情に 旅を楽しんだ。

エピローグⅢー12-5

 嘉峪関を西に進めば 楼蘭(クロライナ)です。 西域南道は 楼蘭を通り 陽関を潜って 南西に伸びている。 孔雀河下流のロプノール湖の西岸に位置し、シルクロード交易で栄えて来た。 《 前記載楼蘭“彷徨える湖”参照 》

 楼蘭(クロライナ)の北 天山山脈側のタクラマカン砂漠北限に大きなオアシス都市があった。 紀元前 この地に楼蘭王家の一派が勢力を拡大し 宗家をも飲み込む楼蘭王国を確立していた。

 紀元前77年に漢の影響下で 楼蘭(クロライナ)王国は 国名を鄯善と改称したが、楼蘭の名はその後も長く用いられ続け、何時しかこの都は沙漠の中に消滅した。

 《 楼蘭と呼ばれる都市、その名を持つ国家がいつ、どのようにして成立したのかは判らない。 古くは新石器時代から居住が始まったことが考古学的に確認されており、所謂「楼蘭美女」として 知られるミイラは、纏っていた衣服の炭素年代測定に因って 紀元前19世紀頃の人物であると 推定されている ※前記載ご参照下さい、“探検家の時代”他等々 》

 紀元前141年に漢で武帝が即位すると漢は対匈奴積極策に転じた。

 この時期に匈奴を攻撃するために西方に移動していた月氏(大月氏)と同盟を結ぶことを目的として張騫が派遣され、彼の往路の見聞の中で楼蘭にも触れられている。

 また張騫はその行き帰りで二度匈奴に捕えられており、当時西域に匈奴の支配が広く行き届いていたことが伺われます。 張騫 誠に魅力に富んだ人物 後日“中央アジア人物伝”にご期待を・・・・・

 漢は紀元前121年に衛青(姉の衛子夫が武帝の寵姫)と霍去病(衛青の姉、衛小児の子)の指揮で大規模な対匈奴の軍事行動を起こした。

 霍去病は匈奴を蹴散らし、河西回廊の西部で勝戦祝いをした。 泉の畔であった。  “養老乃瀧”ではないが 酒が満ち溢れた泉であった。 私にはその泉の水は汚くて飲めなかったが、 酒泉の由来であり、彼の銅像が立っていた。

 彼は紀元前119年には漠北の匈奴本拠地を攻撃して大きな戦果を上げた。 この結果、漢は本格的に西域経営に乗り出した。

 紀元前115年の河西四郡設置は漢の西域進出の端緒ともいえます。

 西域の交通路を抑えた漢は西域諸国や更に西方へと遣使や隊商を数多く派遣するようになった。 しかし、大挙増大した漢の人々(交易市場に活路を見出した貧民も多かったといわれている)

 と西域諸国との間ではトラブルが頻発し、西域諸国では反漢感情が増大して行った。

 特に楼蘭と姑師は、漢の進出を嫌い匈奴と接近して漢使の往来を妨害するなどの挙に出た。

 これを憂慮した漢の武帝は紀元前109年、従驃将軍趙破奴と、楼蘭に遣使として派遣された経験を持つ王恢に命じ、数万人を動員して楼蘭と姑師に軍事介入を行った。

 騎兵700騎とともに先行した趙破奴の攻撃を受けて楼蘭は占領され、国王が捕えられた。 このため楼蘭は王子の1人を漢に人質として出し漢に服属した。

 ところが西域の要衝楼蘭の漢への服属は匈奴にとっては座視できない事件であった。

 間もなく匈奴も楼蘭を攻撃したので、楼蘭は匈奴へも人質として王子を送り貢納を収めた。

 漢と匈奴の西域を巡る争いは長く続き、楼蘭の政治はその動きに激しく左右された。

 やがて 再び漢の軍事介入を招く事件が発生した。 武帝は大宛の汗血馬を入手することを望んで代価の財物を持たせて使者を大宛に送ったが、

 大宛は漢使の態度が無礼であるとしてこれを追い返し、その帰途に大宛の東方の郁成城でこれを襲撃して殺し財物を奪った。

 これは漢の大規模な報復を招き、漢は将軍李広利の指揮の下で2度にわたって大軍を派遣した(紀元前104年-紀元前101年)。

 この漢の大宛遠征の際に楼蘭王は再び漢に捕えられて武帝の詰問を受けることとなり、武帝は楼蘭が匈奴にも人質を送り服属している事を責めた。

 楼蘭王はそれに答えて「小国は大国の間にあり、両属せねば安んずることは出来ない」と答え、両属を認めないならば漢の領土に土地を与え移住させて欲しい旨を伝えたという。

 武帝はこれを聞いて納得し、楼蘭王は帰国を許された。 以後、漢は楼蘭方面の軍勢を強化し続けたため、匈奴の影響力は次第に後退していった。

エピローグⅢー12-6

                        *当該地図・地形図を参照下さい

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