紀行エピローグ・写真随筆 22

紀行エピローグ4 =シルクロード・鄯善=

エピローグⅢー13-1

 紀元前92年 楼蘭王(鄯善国) が死去したため、楼蘭は漢に人質として出していた王子の帰国を要請したが、彼は漢で法律に触れて宮刑に処せられていたために漢は帰国を許可しなかった。

 このため別の人物が王となり、彼も漢の下に王子尉屠耆を人質として出し、匈奴にも王子安帰を人質として送った。

 しかし、この新王も間もなく死去すると、匈奴に人質として出されていた王子安帰が帰国して王座を得た。 これに対し漢は入朝を要求して使者を送ったが、安帰王の後妻らは漢が人質として出した王子を帰国させないことを理由として反対し、結局入朝しなかった。

 そして相変わらず続く漢使とのトラブルもあり、楼蘭では次第に漢の使節を殺害するという事件も起きるようになった。

 漢は紀元前77年に大将軍霍光の指示によって平楽監傅介子に親匈奴派の安帰王を暗殺させ、人質として長安にいた王弟尉屠耆を新たな国王とした。 また国名を「鄯善」と改称させ、漢軍が楼蘭に駐屯することになった。

 そして尉屠耆に対し宮女を妻として与え、印章を与えた。

 ここでわざわざ「鄯」という新字を作って楼蘭の名を改称させ、印章と妻の授与は楼蘭王国が漢の傀儡となったことを如実に示すものでしょう。 この地は 間もなく西域南道における漢の拠点の1つとなったのです。

 楼蘭が漢の支配下に入って間もなく、匈奴の日逐王が漢に降るという事件が発生した(紀元前60年)。

 この結果漢は西域南道に加えて西域北道の全域を支配するに至り、以後漢の西域支配は王莽によって前漢が終焉するまで継続し、鄯善と名を改めた楼蘭も傀儡王国としてその支配下にあり続けるのです。

 漢の繁栄による東西貿易の発展は西域の経済を大いに潤した。 26ないし36国といわれた西域諸国は前漢末には55国に増加しています。 これは既存の王国が細分化したのではなく、交易の活況に伴って新たなオアシス都市国家が形成されたのです。

 漢の力による政治状況の安定もこういった経済の活況に拍車をかけた。 が・・・・・

 漢では王莽のクーデターによって新たに新が成立した。 王莽は 中華思想が強く、西域政策は重要視しなかった。 楼蘭を含む西域諸国の大半は再び匈奴(北匈奴)に帰順した。

 しかし、北匈奴は西域諸国が漢の支配下にあって貢納がなかった事を責め、「未納」となっていた貢納品を取り立てたために西域諸国は再度漢に服属することを求める強硬策をとります。

 西域諸国の中でも最も強勢を誇った莎車国の王賢は、鄯善王安などと共に後漢に朝貢を行い、北匈奴に対抗します。 西域戦国時代が始まったのです。

 敦煌太守裴遵が「夷狄に大権を与えるべからず」として 漢が莎車国王・王賢に与えた印綬(自治独立認定)を奪った。

 このため賢は漢と敵対するようになり、独自に大都護を称し、北匈奴の影響力を排除して西域諸国を服属させたが、重税を課したために西域の18国が漢への帰順を求めるのです。

 再び 西域諸国は 漢の支援を求め、交易による国の経営を計るべき機運が高まっていきます。

 漢の光武帝は国内の不安定を理由に積極的な介入に出る事はなかった。

 賢は漢の介入の無いのを確信して、漢に近い鄯善国に対し漢との国境の交通路を封鎖するように命令した。

 しかし中継貿易で国を成す鄯善国にとってこれは従える命令ではなく、鄯善王安は莎車国の使者を惨殺して命令を拒否したのです。

 これに対し賢は鄯善を攻撃して1000人あまりを虐殺したと伝えられる。 鄯善国王安は南の山岳へと逃れ、重ねて漢の支援を要請した。

 しかし光武帝が再び兵を送ることは出来ないという返信を送ったため、鄯善国は他のいくつかの諸国と共に匈奴との同盟を再開するしかなかった。

エピローグⅢー12-4

 勢力を拡大した鄯善国はロプノール湖畔から西は精絶国(チャドータ)まで、西域南道沿いの領域を東西900km余りに渡って支配するまでになり、1世紀末頃から全盛期を迎えていたのです。

 交易も活発になり、発見された遺物はこの時期の経済的繁栄を明らかにしています。

 この鄯善国の繁栄は長く3世紀まで続くことになりますが、必ずしも順風満帆の時代であったわけではなかった。 その国力の増大によって政治的地位は上昇ますが、 漢や匈奴に比して弱小であることには代わりはなかったのです。

 後漢開祖・光武帝の跡を継いだ明帝の時代になると、再び漢が西域に本格的に介入するようになった。

 西暦73年に漢は匈奴への攻勢に打って出たほか、ほぼ同じ時期に西域にも出兵して車師国が制圧された。 西方の見聞を残した甘英を派遣したことで名高い班超が活躍したのもこの時期です。

 班超纏わる逸話は鄯善国(楼蘭)がなおも複雑な立場に置かれていたことと、その立場の弱さを示しています。 後漢書班超伝によれば、73年に班超が36人の部下とともに鄯善国に派遣された際、鄯善王広は当初班超を丁重にもてなした。

 しかし匈奴の使者が鄯善国に訪れると、広は匈奴使の心証を悪くするのを恐れて班超の待遇を落とした。

 匈奴使のために待遇が悪化したのを聞いた班超は憤激し、ある日の夜、密かに匈奴使のパオを焼き討ちしてその使者33人と家来100人余りを虐殺したのです。

 この時の彼の言葉として知られているのが「虎穴に入らずんば虎子を得ず」です。 翌朝匈奴使の首を突きつけられた広は驚愕し、ひたすら漢に対する忠誠を約束して許しを請うことになった。

 この結果、鄯善国は再び漢に王子を人質として出すことになった。 更に班超は西域諸国の大半を支配下にいれ、この功績によって西域都護に任じられて31年余りにわたって西域経営に従事したのです。                           《 一部、記載済み 》

 鄯善国はその覇権下で王統をつないだ。 後漢の西域経営は班超の死後若干の断絶の後、123年には班超の息子班勇によって継続されています。

 班超にしても班勇にしても、投入した兵力は少なく、時折の本国からの援軍を除けば西域諸国の兵を用いて軍事活動に充てていたと言います。       《 イギリスの印度支配のモデルですね 》

 この時期以降、鄯善国は後漢の従属下にあって主だった反抗や事件も少なかったらしく、経済的な繁栄は後漢の影響下にあっても継続したと考えられます。

 エピローグⅢー12-2

 やがて、華中は三国時代の動乱も終結し、晋が中国を統一 3世紀後半には晋が漢と同じように西域へ影響力を拡大した。

 晋は間もなく華北の支配権を失い、いわゆる五胡十六国時代が到来した。

 この時代に涼州の支配者となった前涼は西域への勢力拡大を図っています。

 西暦335年、前涼の将軍楊宣の攻撃を受けた鄯善国は、亀茲国(クチャ)などと共に前涼に入朝し、時の鄯善国王元孟は女を献じたとい言います。

 前涼は西域長史を置いてこの地方への統制を強めた。 前涼は前秦によって滅ぼされたが、鄯善国王休密駄は自ら西域都護の設置を求めて382年に前秦に入朝していますし、前秦が北涼に覇権を奪われると北涼に入朝しています。 小国の保身外交策だすね。

 しかし 北涼は後に鄯善国の敵となった。 439年に北魏の北涼侵攻が始まると北涼は敗北し、北涼の支配者達は 敦煌を経由して高昌へ後退しようとしたのです。

 この結果、その途上の重要拠点である鄯善国(楼蘭)を 北魏は制圧しようと目論み、441年に北魏・安周が鄯善国を攻撃した。

 楼蘭は最初の攻撃を撃退したが、翌年には北涼・沮渠無諱も数万の軍勢を持って鄯善国に殺到します。

 敗北を悟った鄯善国王比竜は4000家余りとともに且末(チュルチェン)へと逃れて行くのです。 魏書によればこれは楼蘭の人口の約半数に上る数であったという。

 本国には公子真達が残り、北涼の下で一応王号を称したが、北涼の鄯善占領によって交易路が封鎖されるのを恐れた北魏は 445年に鄯善を占領し、鄯善国王真達は北魏に連れ去られます。

 448年に北魏の傀儡・交趾公韓牧が鄯善国王に封じられ、 独立王国としての鄯善国(楼蘭)の歴史は完全に終了したのです。

 楼蘭の都市は7世紀頃までは存続していたといわれているが、もはや往時のように複数の西域諸国を統治下に置くような覇権はありませんでした。

エピローグⅢー12-3

 楼蘭の領域各地からは夥しい数の仏教遺物が出土しています。 チャドータやミーランなどからはストゥーパや仏教壁画、仏像が発見されました。

 これらの中には若干のヘレニズムの影響が見られるものも存在し、また絵の製作者の名前と報酬額が記された文書も発見されています。

 その製作者の中にローマ風の名前であるティタサが発見されたことは、楼蘭に見られるヘレニズムの影響と相まって興味深いものですね。

 仏教以外の痕跡として、アテナやエロス、ヘラクレス像を刻印した封泥も発見されているのです。

 スタインらはこうした楼蘭に見られるグレコ・ローマン風やイラン風の美術品を見た感動を記し、「トルキスタンというよりはローマ領シリアや、他のローマ東方領の邸宅跡にいるようだった」と語っていいます。

 こういった西方の宗教がどの程度楼蘭で一般的であったのかは明らかではないのですが。

 また 400年に楼蘭を訪れた中国の僧侶法顕は、「鄯善国に4000人の僧侶がおり、悉く小乗を学んでいた」と記しています。

エピローグⅢー12-4

 では 次回は 河西回廊を歩きましょう

                         *当該地図・地形図を参照下さい

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