紀行エピローグ・写真随筆 27

紀行エピローグ4 =シルクロード・河西街道=

エピローグⅢー17-1

 河西回廊を彷徨と 色々なものに出会う。 ラクダに会えば オォー シルクロードだと感激、荒れ地に 羊を追う牧夫を見れば大変だなぁーと思い、遺構に出くわすと 強者どもの夢を考えてしまう。

祁連山脈(キレン・キンレイ・チュリェン)が育む オアシスの緑に憩いを見出し、山間の寒村に寂しさを覚える。 この地は自然と人文が豊かすぎる。 興味は尽きない。  が、ウイグル族の話で一度 ”紀行エピローグ”の幕を降ろそう。

エピローグⅢー17-2

我が愛しの 回鶻(カイコツ・ウイグル)は、モンゴル高原からタリム盆地東部などに勢力を誇った回紇(ウイグル)部をはじめとするトグス・オグス(九姓鉄勒)を中心としたテュルク系遊牧国家を四世紀初頭に建設していた。

ゆえに トグス・オグス国、ウイグル国、ウイグル帝国、遊牧ウイグル国、ウイグル国家とも呼ばれ、可汗(カガン・王)を奉じていたので 回鶻可汗国であり、中国の史書には 廻紇、回紇、廻鶻、回鶻などと記されています。

騎馬遊牧民国家は いずれも 複数部族の連合体です。 回鶻可汗国も 九姓鉄勒(トグス・オグス)とも呼ばれるのは、回紇部の首長氏族であるヤグラカル氏がこの部族集団の指導者となったため、九姓鉄勒全体がウイグルと呼ばれるようになったのです。

中国史書においてウイグルの名が初めて現れるのは4世紀の高車袁紇部としてです。 「高車」とは4~6世紀の中国(北朝時代)におけるテュルク系遊牧民の総称であり、彼らが高大な車輪のついた轀車(オンシャ:荷車)を用いたことに由来しています。

袁紇部は4世紀末から5世紀初頭に柔然の従属下にあって 北魏と数度戦ったが、いずれも大敗を喫し、壊滅的な被害を被ります。

429年に北魏が漠北へ遠征して柔然を打ち破ると、高車諸部族は北魏に服属し漠南へ移住させられた。

6世紀~7世紀の鉄勒時代には烏護,烏紇,韋紇などと記され、やがて迴紇,回紇と表記されるようになる。 当時、鉄勒諸部は中央ユーラシアを支配していた突厥可汗国に対し、その趨勢に応じて叛服を繰り返していたのです。

隋代に42部を数えた鉄勒諸部(アルタイ以西に31部・勝兵88.000、以東に11部・勝兵20.000)は、唐代に至ると徐々に東へ移動・集合(15部・勝兵200.000)、その中でも回紇部は特に強盛となってモンゴル高原の覇権を薛延陀部と争っている。

648年に部族長の吐迷度が、姪である突厥の車鼻可汗と 血縁にあった親突厥の烏紇とが 倶羅勃に謀殺される。 この動乱を唐が介入によって平定したため、唐の勢力下に入ります。 部族長は大俟利発(イルテベル)・瀚海都督・左驍衛大将軍を名乗って唐に従属している。

7世紀後半に後突厥が再興すると再び屈従を余儀なくされたものの、734年に毘伽可汗が貴族に毒殺されると、内戦に陥った東突厥第二可汗国へ度々攻撃を仕掛け、741年に骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)が 唐との挟撃により最後の東突厥可汗である白眉可汗を殺して突厥可汗国を滅ぼしたのです。

エピローグⅢー17-3

葛勒可汗の代になり、唐において安史の乱が勃発した(755年)。 これにより唐の皇帝であった玄宗(楊貴妃と共に蜀に逃げる、途中 楊貴妃は絞殺される)は退位し、粛宗が皇帝となった(756年)。

粛宗は回紇に援軍を求めるため、李承宷を燉煌王に封じ、李承宷は将軍の石定番を回紇への使者に任命して修好を結ばせるとともに、対安禄山の徴兵をさせた。

葛勒可汗はこれに承諾すると、娘の毘伽(ビルグ)公主を李承宷に娶らせた。 《 ウイグルが唐皇室の親族に列せられたのです。》

至徳2載(757年)9月、唐の元帥・広平王李俶(後の代宗皇帝)と回紇の太子・葉護(ヤブク)が回紇軍を指揮して 安禄山討伐にあたった。

唐・回紇連合軍は11月までに首都の西京(長安),副都の東京(洛陽)を奪還することに成功し、太子葉護は司空忠義王に封じられた。 翌年(758年)、粛宗は葛勒可汗を英武威遠毘伽可汗に冊立するとともに、寧国公主を葛勒可汗に嫁がせた。

英武威遠毘伽可汗は759年4月に死に、寧国公主は唐へと帰国する。 太子葉護は帰国後亡くなったため、その弟である牟羽可汗が立って即位した。

宝応元年(762年)4月、唐で粛宗が崩御したため太子の代宗が即位した。 代宗は安史の乱指導者・史朝義がなおも河洛の地にいるので、それを討伐するために劉清潭を回紇に派遣して徴兵させるとともに、旧好を修めさせようとした。

しかし8月、「粛宗崩御に乗じて唐へ侵攻すべし」と史朝義が牟羽可汗を誘ったため、回紇軍が大軍を擁して南下を始めた。 劉清潭はそれに遭遇したので、まず唐への侵攻を踏みとどまるよう牟羽可汗を説得したが聞き入れられなかった。

このとき回紇軍はすでに三城の北まで到達していた。 牟羽可汗は使者を派遣し、北方の単于都護府の兵馬と食糧を奪取するとともに、劉清潭をひどく侮辱した。

劉清潭が密かにこの状況を代宗に報告すると、朝廷内は震撼した。 この時、牟羽可汗の可敦(カトゥン:皇后、僕固懐恩の娘)が牟羽可汗を諫めたため、牟羽可汗は思いとどまり、そのまま唐側に付いて史朝義討伐に参加した。

牟羽可汗と翼下の有力部族長・僕固懐恩は史朝義軍を圧倒し、史朝義を自殺に追い込むと、河北を平定して8年に及ぶ安史の乱を終結させた(763年)。

広徳2年(764年)、安史の乱鎮圧の功労者である僕固懐恩が叛き、吐蕃の衆数万人を招き寄せて奉天県に至ったが、鎮圧される。

翌年(765年)秋、僕固懐恩は回紇,吐蕃,吐谷渾,党項,奴剌の衆20数万を招き寄せて、奉天,醴泉,鳳翔,同州に侵攻した。

しかし僕固懐恩が死んだため、吐蕃の馬重英らは10月の初めに撤退し、回紇首領の羅達干(ラ・タルカン)らも2千余騎を率いて渓陽の郭子儀もとへ請降しに来た。

これ以降、回紇と唐の和平が保たれたが、唐国内で安史の乱鎮圧の功を鼻にかけた回紇人の暴行事件が相次ぎ、大暦年間(766-779年)において社会問題と大きく政局を揺るがすのです。  ソグドが 水面下で策動していたのです。

エピローグⅢー17-4

大暦13年(778年)になると、遂に牟羽可汗自身も回紇軍を率いて唐に侵攻するようになり、今まで良好であった唐との関係が一気に崩れた。

翌年(779年)、代宗が崩御して徳宗が即位すると、ソグド人の官僚はその喪中を狙って唐に侵攻するよう牟羽可汗に促した。 それを聞いた牟羽可汗はふたたび唐に攻め込もうとしたが、それに反対だった宰相の頓莫賀達干(トン・バガ・タルカン)が牟羽可汗とソグド人官僚を殺害してしまった。

頓莫賀達干が立って合骨咄禄毘伽可汗(アルブ・クトゥルグ・ビルゲ・カガン)となり、合骨咄禄毘伽可汗はすぐに酋長の建達干を唐へ入朝させて関係を修復したので、唐より武義成功可汗の称号を賜った。 また、武義成功可汗は牟羽可汗が信仰していたマニ教を弾圧し、ソグド人たちにも圧力をかけた。

貞元3年(787年)8月、武義成功可汗は唐との関係を改善するために唐に求婚し、咸安公主を娶った。 その後も両国の平和が保たれ、武義成功可汗は国号を回紇から回鶻に変えるとともに、再び唐から長寿天親可汗の称号を賜っています。

貞元6年(790年)、吐蕃が回鶻に従属していた白眼突厥,三姓葛禄(ウチュ・カルルク),沙陀部などへ贈物を贈って共に鄯善・北庭大都護府を攻撃したが、 東方で奚,契丹の反乱が起きていたため、回鶻軍は勝てず、北庭大都護府が陥落し、河西回廊西部は吐蕃勢力下に落ちる。

一方で葛禄(カルルク)が勝ちに乗じて浮図川を奪ったので、回鶻は大いに恐れ、北西にある部落の羊馬を牙帳の南へ遷してこれを避けた。

791年、回鶻は北庭を奪還、また唐軍と共に塩,霊州へ攻撃を掛けて陥落させ 吐蕃の首領を捕えた。 この後の、タリム盆地~河西地域~隴右~漠南一帯を巡る戦争は50年に渡るのです。 カルルクとウイグルが覇権を競います。

カルルクは ウイグルにパミール高原西部に追い詰められ イスラム国家“カラハン朝”をウイグルは キルギスに追われて“天山ウイグル王国”それぞれ建設するのですが、この話は次回にしましょう。

エピローグⅢー17-5

回鶻王国・保義可汗(808-821年)の治世には、ジュンガル盆地を制圧してカルルクを服属させ、タリム盆地を制圧するが、南東の戦線では吐蕃が優勢を保持していた。

貞元11年(795年)2月、奉誠可汗が死去し、子がいなかったため、国人たちは宰相である阿跌(エディズ)氏の骨咄禄(クトゥルグ)を立てて可汗とした。

骨咄禄は6月に唐から懐信可汗に冊立され、 これによって 回鶻の薬羅葛(ヤグマラル)政権が終わり、阿跌政権が始まったことになる。
懐信可汗はマニ教を再び受容し、西方からの文化を受け入れていった。 この後、マニ教は回鶻可汗国の国教になっていくのです。

元和3年(808年)から元年(821年)の間、長寿天親可汗に嫁いできた咸安公主が 各代の可汗(4代の可汗)に嫁いでいます。

遊牧社会の風習(レビラト婚;夫の死後、夫の兄弟と婚姻関係を結ぶ制度)に従っていますが、咸安公主が亡くなったため、保義可汗(在位:808年-821年)は唐に新たな公主を求めた(808年)。

しかし、唐がそれに応じなかったため、保義可汗は3千騎を率いて鵜泉に至り、唐の辺境を脅かした。これによって唐の辺軍は戒厳令を敷き、両国に緊張が走った。 両国の関係は 対立関係に成って行くのです。

809年に吐蕃が 再度 霊州から豊州の一帯を制圧して、回鶻-唐間の直道を遮断。

813年、漠南で吐蕃軍を撃ち破ると勝ちに乗じて河西まで追撃したが、816年には吐蕃軍が牙帳から3日の距離まで進軍し周辺も制圧された。

821年、連合を図るため唐から公主が降嫁。 824年に吐蕃と唐が停戦に至って以降は、専ら西部で戦闘が行われ、840年に和睦するまでの間に、漠南を奪還し河西地域を征服しています。

当時のモンゴル高原では異常気象が相次ぎ多くの家畜が死に絶えていました。

現宰相・句録莫賀(キュリュグ・バグ)が、先王・彰信可汗を殺害した前宰相の掘羅勿(キュレビル)を恨み、 黠戛斯(キルギス)の10万騎を招き寄せて、可汗と掘羅勿を殺し、その牙帳を焼き払って しまうのです。 840年の政争事件です。

これによって回鶻可汗国は崩壊し、諸部は分散 ウイグル族の流弄が河西回路に雪崩れ込みます。 宰相の一人である馺職(ソウショク)は龐特勒の15部とともに葛邏禄(カルルク)に奔走し、残りは吐蕃(河西)と安西(タムリ盆地)に逃げ込んだのです。

エピローグⅢー17-6

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