紀行エピローグ・写真随筆 28

紀行エピローグ4 =シルクロード・河西街道=

エピローグⅣー18-1

839年、回鶻の第11代彰信可汗が、ソグド系と思われる大臣安允合に暗殺され、さらに連年の天候不順による飢饉に加え、翌840年には雪害による家畜・遊牧民の大量斃死のためにキルギスの反乱に抗しきれず、ウイグル王国は遊牧政権として完全に崩壊してしまった。

このためウイグル人たちはゴビ砂漠以南の華北や甘粛方面、天山山脈方面のオアシス都市地域へ大量に流出することになったのです。

回鶻(ウイグル)可汗国の崩壊後

ウイグル族は いくつかの勢力に分裂する。 騎馬遊牧民族は果敢である。

逃げ延びた地域で力を持ち、甘州ウイグル王国や天山ウイグル王国,亀茲ウイグルなどの諸王国を創建して行きます。 キルギスに支配されたモンゴル高原はその後 分裂状態となり、モンゴル帝国による統一を待つこととなるのですが・・・

誠に不思議ですね。 バイカル湖の近隣から 次から次え と中央アジアに覇権を打ち立てた遊牧民族が現れてくるのですから。

ところで、最盛期の回鶻全体の人口は500万強、中核を構成した回鶻部のそれは50~60万人と推計されます。

勝兵は概ね人口の1/3で20万弱程度と考えられ、 戦時に於いて、一般牧民は馬匹を自弁で賄い武器と糧秣を支給されたのです。

黒民と呼ばれる上位身分は武器・糧秣ともに自弁で賄う代わりに戦利品・略奪品や戦争捕虜の優先的取得権を持っていた。

概ね、騎馬遊牧民の軍事組織はこのようでした。 後年に 成吉思汗が系統だった組織編制・戦利品の分配法・参戦の義務 等成文化しますが、領域内の牧民全てに参戦の義務があったようです。

草原ルートや河西回廊に 雪崩を打って移動・進出したウイグル族の勢力が いかに強力であったか想像できますね。

ウイグルは騎馬軍事集団です。 各地にコロニーを設けて経済活動を営むソグドと再び手を組みます。 各地で 共に補完できる関係は 直ちに成立したことでしょう。

エピローグⅣー18-2

回鶻(ウイグル)可汗国崩壊の混乱期に、九姓鉄勒(トクズ・オグズ)の一翼であった僕固(ボクトゥ)氏の首長僕固俊に率いられた一団が 当時、可汗浮図城と呼ばれていたビシュバリク地方へ進出し、これを拠点としておさえた。  これが西ウイグル王国の直接の基盤です。
《 記載済み“新疆 昌吉地区、阜康地区 参照 》

他方 河西回廊に進出したウイグル族は 中央アジアや西域諸国のソグド人と手を結び、唐の絹やその他の製品を運ぶシルクロードでの貿易を行って莫大な利益を得ていきます。

また、ウイグルは西方へと徐々に影響力を拡大し、シル川、アム川の近郊まで勢力を伸ばし 高昌をその支配下に置き、結果タリム盆地はじめ西域諸国がテュルク化していくことになったのです。

逆にウイグル族には中国や中央アジアから仏教やマニ教が伝来が激しくなり、皇族はマニ教の信奉者が多かったが 民衆はシャマニズムから仏教やマニ教に教化されていきます。

また、中国やソグド人の影響から、ウイグルは王庭や要地に城郭都市を持つようになったのです。

可汗や一族も年の一定期間を城内で過ごし、また商人や官僚、職人などを住まわせ武器や水、食料などを蓄えるようになります。 略奪の遊牧社会から定着のオアシス農耕社会に移行して行った。

このような城郭都市がバイ・バリクやオルド・バリクであり、各地の城内に墳墓が存在する可汗一族も現れています。

《 基本的には遊牧民族は墓を祭らない風習です。 埋葬する場所は決めているようですが墓標の類は在りません 》

エピローグⅣー18-3

天山ウイグル王国は 回鶻可汗国が崩壊した後、西に逃れた15部のうち、河西より西へ移動して天山山脈の北東麓に落ち着いた一部が興した王国です。
《 成立経緯等 前記載項 参照 》

別の一部は河西に入り甘州回鶻と呼ばれるようになり、甘州ウイグル王国を創建します。 更に一部は西へ移動してベラサグンに至り、カルルクと合流して後にカラ・ハン朝を作ったのです。 また、河西南路を突き進んだ一派はホータン・オアシスに定着し 勢力を張ります。 亀茲ウイグル王国です。

程なく9世紀中頃、草原ルートよりビシュバリク地方へ進出していた 回鶻可汗国の最後の可汗である馺可汗の外甥であった龐特勤(ホウテギン)が、天山山脈山中のユルドゥズ地方の広大な牧草地を確保してこれを本拠地としています。

ユルドゥズ地方は夏季の放牧地として豊潤であったが、同時に焉耆などがあったタリム盆地と東の高昌などがあったトルファン盆地とを結ぶ街道の要衝でもあったのです。

龐テギンは焉耆を獲得して可汗を名乗り、トルファン盆地に進出します。 河西回廊を西進してきたウイグル部族を吸収して、天山ウイグル王国は回鶻(ウイグル)可汗国の血統が統治して行きます。

エピローグⅣー18-4

他方、河西回廊に定住したウイグル族(ユグル族と呼ばれる)  回鶻(ウイグル)可汗国の崩壊後、モンゴリアから南下し甘粛地方に逃れてきたウイグル人の一団の末裔達は・・・・

甘粛の地に今日の河西回廊中部の張掖市を首都に甘粛王国(870-1036年)を築き、大いに栄えます。

甘粛王国の人口は30万人に達し、住民はマニ教や仏教を信仰し、国中が寺院で埋め尽くされたという記録があるのですが、しかし・・・・

タングートの西夏王国に征服されます。 激しい抵抗もむなしく、1028年から1036年まで続いた血を血で洗う戦い、この戦いでウイグルの血が流れる川のごとく 流れ 荒野に注がれた、 と史書が述べています。

西夏の起源は唐初にまでさかのぼる事ができます。 羌族《 前記載の「羌族と“河西回廊”」参照 》の中でタングート族がその勢力を拡大していった。

その中、拓跋赤辞は唐に降り、李姓(唐王朝開闢の“李淵”に連なる国姓)を下賜され、族人を引き連れて慶州(現在の寧夏回族自治区内)に移住し平西公に封じられた。

唐末に発生した黄巣の乱ではその子孫である拓跋思恭が反乱平定に大きな功績を残し、それ以降、夏国公・定難軍節度使として当地の有力な藩鎮勢力としての地位を確立した。

《 黄巣の乱; 黄巣(コウソウ)は唐代の反乱指導者。 唐に対し、反乱を起こし、事実上唐を滅亡させた。 曹州・冤句(山東省・河南省の境目)出身。 黄巣と王仙芝の黄巣軍は各地を転戦し、878年に広州を落とし、880年には洛陽・長安を相次いで陥落させ、 唐最後の皇帝・僖宗は蜀へと逃げた。

長安に入った黄巣は国号を斉として、皇帝と称号した。 黄巣は若い頃は官吏を目指していたが科挙に何度も落第し、諦めた後は私塩の密売に関っていた人物です 》

エピローグⅣー18-5

成吉思汗が西征した機会を狙ってモンゴルを攻撃しようとしたが、事前に情報がモンゴル側に漏れ、1224年にモンゴル軍により都・慶州(銀川市)が包囲されると モンゴル軍に投降、人質を送ることで滅亡することはわずかに免れることができた。

1226年、西夏王・李徳旺が病死し、李睍が皇帝に推挙され 成吉思汗に皇女を人質にさし出す。 たが、皇女が体内に秘めた劇薬で成吉思汗は 慶州(銀川市)近郊の六盤山にて死亡する。

成吉思汗の正嗣子 オコディとチャガタィが徹底的に西夏を破壊・蹂躙し 翌年(1227年) 西夏王・李睍はモンゴルに投降、その後 李睍は毒殺され西夏は名実共に滅亡したのです。

そして、 中央アジアは蒙古族が君臨します。 記載の済みですが 以後モンゴル帝国ではウイグル王家は「ウイグル駙馬王家」としてコンギラト駙馬家と並ぶ、駙馬王家筆頭と賞されモンゴル王族に準じる地位を得る事となります。

モンゴル帝国および大元朝ではウイグル出身官僚がモンゴル宮廷で多数活躍し、帝国の経済を担当するようになって行きます。 が、 西方からのイスラム勢力に飲み込まれて行くのです。

シャーマニズム、マニ教、仏教 そして イスラム教に改宗して行った民族ですが、果敢で知力に優れた民族であるウイグル族の 話はここで 筆を置きましょう。

エピローグⅣー18-6

次回は 西域人物伝を 話しましょう。 宜しく お付き合いください・・・・・・・・

                         *当該地図・地形図を参照下さい

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