紀行エピローグ・写真随筆 別冊

紀行エピローグ4 =シルクロード・河西街道=

エピローグⅢー1-2

   河西回廊の旅 上記載写真の公道312号線を走りますと 色々な民族と出会い、また 四散した民族の事を思います。

 唐時代が終焉し、チベット勢力が退潮・再来を繰り返す中でウイグル勢力がこの地を通過し、天山山脈山麓・トルファンを拠点にした王国を築きます。

 ウイグル王国は 既に 幾重にも書き綴っています。 が ウイグルと非常に関係の深いソグドを話しておかねばなりません。

 シリア文字(アラム文字)から派生した文字がソグド文字です。 ソグディアナのソグド語を表記するための文字ですあることは言うまでもないのですが。

 ウイグル文字やモンゴル文字の元となった後、 消滅してしまいました。

 同じように 中央アジアの中のオアシス的存在であったアラル海はが今世紀中に消滅します。 たった 150年程度の短い時間で 琵琶湖の約五倍の内陸湖(海)が無く成ろうとしている。

 さて、ソグドはシルクロードをシルクロードと足らしめた民族なのです。

エピローグⅣー18-1

  “ソグド”として中国史書・西域伝に 粟特国(ソグドクコク)と記されています。

  粟特国は漢代に奄蔡と呼ばれた地域にあたり、康居の西北、大沢(アラル海)沿いに在った。 北魏の時代(386-534年)、粟特国には商人が多く 河西回廊・涼州の姑臧にまで商売に来ていたという。

 この商人こそがソグド人だと思われています。 また、旧康居である康国(サマルカンド)をはじめとした国々、いわゆる昭武九姓においてもソグド人は健在で、深目,高鼻,多髯という外見と商業に長けていること言われてきた。

 中央アジアの国々は クシャーナ朝,エフタル,突厥と、たびたび遊牧国家の支配を受け、その都度支配者が変遷したが、その間もソグド人は独自の文化を維持し、農業と商業に従事して来ました。

 中国唐の時代、ソグド人は玄奘の『大唐西域記』において、窣利人として記され・・・・

 素葉(ヤスープ)より西に数十の孤城があり、城ごとに長を立てている。 命令をうけているのではないが、みな突厥に隷属している。

 素葉城から羯霜那国)(史国)に至るまで、土地は窣利と名付け、人も「窣利人」という。

  文字・言語もその名称に随って「窣利文字・窣利語」と称している。 字の成り立ちは簡略で、もと二十余文字であるが、それが組み合わさって語彙ができ、その方法が次第にひろがって文を記している。

  氈や褐を身につけ、皮や氎を着ている。 裳も服もせまく、身にぴったりとし、頭髪をととのえて頭頂を出しているか、或いはまったく剃り、絵彩を額に巻く。 体つきは大きいが、性格は臆病であり、風俗は軽薄で、詭詐がまかり通っている。

  おおむね欲張りで、父子ともに利殖をはかっている。 財産の多い者を貴とし、身分の優劣の区別が無い。 たとえ巨万の富を持った者でも、衣食は粗悪である。 力田(農民)と逐利(商人)が半ばしている。 と 玄奘三蔵は記しています。

  紀元前329年、マケドニア王アレクサンドロス(アレキサンダー)3世の軍隊が中央アジアに侵攻し、マラカンダ(サマルカンド)を攻め落とした時、抵抗したソグド人の死者は約3万人にのぼったと歴史書にあくらい、中央アジアの諸民族で この大王に抵抗した民族はソグドだけです。

  長期間のゲリラ戦に手を焼いた大王は、中心都市の占領のみで矛を収め将兵にソグド女性との婚姻を奨励するなど住民の鎮撫に努めるしか、抵抗を止める策は無かったのです。

 また 優秀なソグドの人材は東方へ パミール高原を越えて 新天地を目指したのです。

 大王の死後、マラカンダを中心とするソグディアナ一帯は周辺の諸民族の乱入による混乱が続くが、その間にソグド人はしだいに 西方(ギリシャ・マケドニヤ)の情報を武器にして、東西貿易に従事する商人として優れた才能を発揮するようになって行きます。

  前漢の武帝の時代から、中国が西域と通じるようになり、シルクロード交易が盛んになると徐々にバクトリア(大月氏)商人に取って代わり、 4世紀以降ソグド商人が東西交易の主役となったのです。

 ソグド人商人はシルクロードの各所にソグド人コロニーを形成し、ソグドネットワークともいえる情報網を張り巡らして シルクロード交易を主導的な地位を成して行く。

 エピローグⅣー17-2

 8世紀、中央ユーラシアにおいて突厥に代わり、回鶻(ウイグル)が北方草原の覇者となった。 ソグド人は引き続き貿易相手となったウイグルのもとへ入り込み、 植民集落(ソグド人コロニー)や植民都市をウイグル王国内に形成します。

 これらのソグド人たちはウイグルにソグド文化を持ち込み、なかには遊牧民化する者も現れたため、次第に混血が起こり、ソグド系突厥人やソグド系ウイグル人といった集団が生まれるようになった。

 ソグド人の宗教はゾロアスター教をはじめ、マニ教,ネトリウス派キリスト教,仏教を信仰していました。 指導層・貴族はマニ教の信奉者でした。

 こうしてウイグルのもとで貿易活動に従事したソグド人は唐国内の長安を筆頭とする大都市に多くのマニ教寺院 《 新勢力誇示のプロパガンダであっただろう?・・・》を建て、そこを拠点に商業活動に従事したのです。

 やがて ソグド人が商人として各地に散らばったため、ソグド語・ソグド文字は中央アジアのシルクロードにおいて国際共通語となった。 現代の英語のように

  他方 ソグド人の本国ソグディアナは8世紀中ごろにアッバース朝の直接支配下に入り、それ以後イスラム化が進行するにつれて、徐々にソグド人としての宗教的・文化的独自性は失われていきます。

 が、ソグド人は他の民族の中に溶け込んでいき、後世の文化へ多大な影響を与えること となります。

 《 ちなみに 白系ロシア貴族はソグド人系が多く 外国人タレント第一号 の ロイ・ジェームス氏は ソドムの末裔です 》

 駱駝に乗る西方人 ソグド人が売買する商品は シルクロードという名の通り、絹馬貿易【 絹と馬の等価交易・物々交換 】によって 中国領内からウイグルに備蓄された品物;

  絹織物や鉄製品,陶磁器,大黄,肉桂などの中国の産物と、西方からの金銀器,ガラス製品,瑪瑙,玉,琥珀,真珠,珊瑚などの宝石類と金塊,金貨、駿馬,香辛料,薬草,葡萄酒,香料,絨毯などの産物で、主に扱われたのは奢侈品であった。

 《 武力を有する勢力(騎馬遊牧民族)が富と権勢を維持できたのは 全て この交易の中間搾取なのです。》

  また、馬やラクダと並ぶほど高額商品として売買されたのが奴隷であった。 戦争や犯罪などによって国内外から生み出された奴隷は、

 付加価値を高めるため外国語や礼儀作法、歌舞音曲その他の技芸を教え込まれ、商品としての教育を施された上で売りさばかれたのです。

 翌養老元年(717年)に留学した 吉備真備・阿倍仲麻呂、玄坊(日編に方)ら幾多の仏僧達が碧眼の美女に驚き 憧れた長安の歓楽街は ソグド人がプロモートしていたのですね。

  中国に来住したソグド人は、漢文書による行政上の必要から漢字名を持たされたらしく、その際には出身都市名を示す漢語が姓として採用されました。 現代 中国人の遠祖は家名で

  サマルカンドより渡来→康、ブハラ→安・馬、マイームルグ→米、キッシュ→史・黄、クシャーニヤ→何、カブーダン→曹、タシケント→石、バイカンド→畢 等 これらを一括してソグド姓と呼びます。

 また、都市名を特定できないが、羅,穆,翟もソグド姓ですから 西方からの渡来者の末裔です。

 《 少数民族を差別する 中国人とは 何・・・・?》

エピローグⅣー17-3

 ところで、話は 全く変わりますが 上記の航空写真を見てください。 『アラル湖の悲劇』です。

 帝政ロシア時代より中央アジア地域に運河を張り巡らせる構想は存在した。 19世紀末 インドの綿花を輸送するための商業・貿易運河計画(アラルーカスピー黒海)案であったといわれる。

 また、南北戦争及奴隷制の廃止と共に、アメリカ産綿花の生産が落ち込み、綿花先物市場の世界的中心地であるリバプール市場で綿花の価格が高騰した。

 この時期、英国は印度・パンジャーブで灌漑を取り入れた綿花栽培をおこなった。

 一方、第一次産業革命の最中のロシアは、南北戦争時期の世界的な綿花供給の落ち込みに直面したばかりでなく、中央アジアへ北進しようとする大英帝国の活発な活動にも直面した。

 このような背景のもと、帝政ロシアは中央アジアのアミール諸国との貿易を通じた綿花調達ではなく、中央アジアの国々を保護国化し、大英帝国からの影響と切り離しつつ、ロシアの産業を支える綿花原材料生産地たる役割を 中央アジア地域に見出していった。

  冷戦時代のソ連は社会主義陣営の盟主として陣営内の物流機能を西側に頼らずにまかなうこと、それも「社会主義的政策」により素晴らしい効果を挙げることが必要だった。

 中央アジアの潅木林やステップ地帯は、遊牧民社会を捨て去るべく草原が農業用地に変えられて、遊牧民の定住化政策が推進され労働者階級が創出された。

  また、ブルジョア階級とされた領主や地主、イスラム寺院の所有する農地が取り上げられ、遊牧していた家畜も畜舎での集団飼育が推し進められ、労働者階級は集団化させられてコルホーズやソフホーズを組織し、手作業を必要とする綿花栽培の労働力となった。

  綿花栽培の灌漑は 取水量増加に伴い、綿花の生産は増大した。 ウズベキスタンにおいて1940年に150万 t 弱だった綿花生産量は1970年に450万t、1986年には500万t に達した。

 こうした成果は西側に対する示威行為として「社会主義の勝利」と銘打って華々しく喧伝された。

  更なる 綿花栽培の灌漑推進の結果、アラル海は 1960年代には年平均 20 cm、1970年代には年平均 60 cm と猛烈なペースで水面が低下し、急激に縮小をはじめた。

 一晩で数十メートル も湖岸線が遠のいていくため、その場に打ち捨てられた船の群れが後に「船の墓場」として有名になった。

 湖の存在により気温・湿度が一定の過ごしやすい環境に保たれ、動植物が多様に存在していた。 しかし湖が干上がることにより雨は降らなくなり、気温も年較差が激しくなった。

 そのことにより河畔林であるツガイ大森林など周辺の緑が枯れ、風食作用により表層土も失われ、湖ともども砂漠化の進行を加速化している。

  アラル海の塩分濃度は、ナトリウム以外の塩基成分であるカルシウムやマグネシウムなどの塩分等が湖底に沈殿し、カルシウムは貝類の貝殻に取り込まれる生態濃縮機能などによって数百年もの間一定の濃度を保っていたが、生態系の破壊によってその絶妙なバランスが機能しなくなった。

  死の海に化した アラル海な 今世紀中に 姿を消すと言われている。 ソグド文字の様に・・・

激動の天山8-3

・・・・・・・ シルクロードの旅は これにて・・・・・・・

                         *当該地図・地形図を参照下さい

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