西域人物伝・ティムール (1)

西域人物伝=ティムール帝国=

フレグー10-1

【 バヤズィトのもとへ訪れるティムール(スタニスラウ・チュレボウスキ画、1878年) 】

欧州の史家は ジンギス・カーンを破壊者と呼び、ティムールを創造者と呼んでいます。

私が最も興味のある“ティムール”を西域人物伝の幕開けに話しましょう。

ティムール(1336年4月8日-1405年2月18日)は、中央アジアのモンゴル=テュルク系軍事指導者で、ティムール朝の建設者(在位:1370年4月9日-1405年2月18日)です。

ティムールは「鉄」を意味し、この名を持つテュルク系、モンゴル系の人物は少なくありませんし、ティムール自身、その覇道の最中で他の「ティムール」という名を持つ男達と何度か戦っているのです。 度々 旅行先で 私自身 遺跡などの解説で混乱したことがあります。

ティムールはジンギス・カーンの築き上げた世界帝国の夢を理想としたらしく、外征を繰り返し ジンギス・カーン同様馬上で生涯を過ごした人物です。

彼をスケッチすれば・・・・・・・

※ ジンギス・カーン以来の軍律や10進法で編成された騎兵にアジア地域の先進的な技術産業を活かした重装を施し、大砲や各種機械、爆発物、鉄砲を備える歩兵や工兵を付随させる等、軍備にも意を注いだ人物。

※ 軍事にかけては天才的で、生涯に交えた戦いではほとんど負けたことがなく、また農村や都市の持つ経済的価値をよく理解しており、彼の帝国に於いてはヤサ法典(ジンギス・カーンの戒律)を履行させた人物。

また、彼が科学者や法学者、知識人、技術者に対して非常に敬意を払っていた事実はよく知られています。

※ 都としたサマルカンドには様々な施設が建設・整備されて繁栄を極め、ジンギス・カーンと比較して俗に「チンギス・カンは破壊し、ティムールは建設した」(ジンギスにとっては言い掛かり以上の何物でもないのですが)と言われる人物。

しかし敵が抵抗した場合、例えばデリー占領時は捕虜数万人を処刑、バグダードを占領した時も徹底した略奪・破壊を加える等、外征先では冷酷な破壊者でもあったのです。

※ ティムール一代で築かれた支配はティムール個人の資質に大きく依存し、『モンゴル・イスラーム・ペルシア』の体制をベースに、テュルク人を主体とする支配組織とペルシャ人を主体とする行政機構が築かれたものの、後継者ムハメド・スルタンの夭折もあり、死後、その帝国は分裂していく(ジンギス・カーンは正嗣に恵まれた)事となる人物。

※ 後世の史書(アフマド・ビン・アラブジャーの人物評)は 下記のように書いています。

1; 「人を見下ろすほど背が高く、額が広く、頭が大きく、たくましく、勇敢で、性格も素晴らしい。

2; 肌の色は白く、赤みが混じっているが、黒くはない。 肩幅が広く、頑丈な腕をもっている。 指は太く、足は長く、申し分のない体格をしている。

3; 長い口髭と荒れた手を持ち、片足が不自由で、目は炯々と光っている。 縦横の才気は無いが、声は力強い。 死を恐れない人物である。

4; 彼はふざけたり、だましたりすることを好まない。

5; 機知に富んだ話や競技に興じることもない。 たとえ面倒な話であっても、真実こそが彼を喜ばせた。

6; 不運を嘆くことは無く、幸運に嬉々とすることもなかった。

※ 戦傷が多く、矢に射られた傷が3ヶ所あったという。 それらの傷のうち、膝関節の傷は癒着を起こし、残り2ヶ所の傷は肘と手に負っていたという(1941年、ソビエト連の遺体調査後 発表)。

※ 彼は中国遠征を1398年頃に計画していた。 明の洪武帝とは当初友好関係を結んでいたが 洪武帝が功臣を粛清し彼自身も高齢だったため、突如明の使者を抑留して絶縁した。

しかしインド方面の進軍を孫のビール・ムハンマドが進言したため、やむなく 中国遠征をインド遠征に変更したという。 《 なお、中国遠征の目的は「偶像を祀る寺院を破壊し、その跡にモスクを建立することだった と 言います 》

※ 強かったのは彼自身が軍略に長けていたことの他、軍を当時としては高度に組織化した人物。 その組織化の内容は 民族・宗教等に捉われず、

主力はチャガタイ遊牧民の弓騎兵であったが、それ以外にもイスラム教徒やキリスト教徒、トルコ人やタジク人、アラブ人、グルジア人、インド人など多文化的な性質を持つ軍を組織化している。 そして、

モンゴル方式を踏襲し 1000人隊が100人隊、100人隊が10人隊で構成される編成であり、命令は旗と太鼓の音で常に行なわれ、軍事技術と装備を点検するために閲兵式を定期的に行なっていたのです。 近代的な管理ですね。 また、

彼は 部下に対して俸給を与えることを惜しまず、忠誠心や功績ある者には惜しまず免税や特別な褒賞を与え、本人が戦死した場合は未亡人や子孫に褒賞を与えることで部下を尊重しています。

ティムールは軍中にある掟を制定していたが、それには「臣下や兵士を鼓舞するため、余は自分のために金や宝石を蓄えることはしなかった。 余の食卓に部下たちを招くと、その返礼として、彼らは戦場で余に命を預けてくれるのだ」と 言った人物。

等々 魅力に溢れた人物ですね。

エピローグⅠ-1

ティムールは モンゴル部族の一分枝バルラス部(蒙古部族の最初のハン・王となったカブル・ハンの兄弟で、有力家系)出自です。

テュルク化した蒙古族、宗教的にイスラム化したモンゴル貴族の家系に属し 系譜によれば5代前の先祖のカラチャル・ノヤンはチャガタイに仕えた有力な将軍であった。

しかし、ティムールがシャフリサブスの近郊で生まれた頃には零落し、わずか数人の従者を持つに過ぎない小貴族に過ぎなかったと史書にあります。

若い頃のティムールは軍人階級の子弟として乗馬や弓術を学び、軍人としての鍛錬も受けていた。 叔父に勇猛で知られるハッジー・バルラルがおり、彼の師事を受けたと言います。

この頃チャガタイ・ハン国(ジンギス・カーンの次男の王国)は東西に分裂しており、混乱に乗じてティムールは従者を率いて家畜の略奪を行う盗賊のようなことをしていたのです。

しかし徐々に優れた軍事指揮者としての才能をあらわして次第に人望を集め、20代の始め頃には300人の騎馬兵を従える西チャガタイ・ハン国の有力者へとのし上がっていった。

1360年(24歳)、ティムールは部族の指導者にのし上がった。 同じ年に東チャガタイ・ハン国(モグリースタン・ハン国)の国王・トゥグルク・ティムールが侵攻してくると、ティムールはこれに従属して バルラル部の旧領を与えられました。

同時期にカラウナス部の部族長の妹を娶り姻戚となっています。

1361年には国王・トゥグルク・ティムーより正式に部族の指導者として認められ、国王の信任を得て皇太子・イリヤス・ホージャの養育係を授けられて マーワラーアンナフルの摂政、1万人隊の指揮官となったのです。

しかし、 ティムールは それから間もない1361年に理由は不明ながら家族や極少数の供回りを連れて故郷のバルガス部、ケシュへ逃亡して終いました。

義兄のフサインと共に 再び 家畜の略奪を行う盗賊のようなこと繰り返しながら 奪還を謀っていたティムールは モグリースタン・ハン国のシースタン王子から傭兵として反徒鎮圧の仕事を受けるのです。

が、報酬を受け取る段になって シスタン側は反徒と結託、ティムールは待ち伏せ攻撃を受ける事態に陥ってしまいます。

この時の戦いで片手片足を負傷し「跛行のティムール」を意味するあだ名で呼ばれることとなります。 また 彼は 反徒側に就くのです。

勢力伸張するティムールを叩くべく モグリースタン・ハン国の軍勢が派遣されます。が 彼はバルフ付近で反撃・撃破、 余勢をかって 隣国バダフシャン王国も打ち破り都市を占領してしまいます。

その数ヶ月後の1363年にトゥグルク・ティムールが死去してその跡を継いだイリヤス・ホージャをケシュ付近の戦いで壊滅させ、マーワラーアンナフルの支配権を手中に納めます。 西チャガタイ・ハン国の一大勢力に伸し上がります。

だが、イリヤス・ホージャの反攻により起きたチナズータシケント付近の「泥濘の戦い」に於いて、フサイン(義兄)との関係に齟齬が生じ ティムールとフサイン間の意思疎通を欠いた 西チャガタイ・ハン国勢は 予め雨に備えていた東チャガタイ・ハン国(モグリースタン・ハン国)に敗れて終います。

西チャガタイ・ハン国の中心都市・サマルカンドは 一時 失陥し、ティムールは西チャガタイ・ハン国での権勢を 失ってしまいました。

エピローグⅠ-2
【参考資料】

7世紀以降、アラビア語では「川の向うの土地」を意味するマーワラーアンナハルと呼ばる地域。 マーワラーアンナフルの領域は おおよそアムダリヤ(ジャーフィン)川を西境にして、東はシルダリヤ(サーフィン)川)までの地域を指す場合が多く、シルダリヤ川よりも東方はテュルク系の諸勢力が多かったため、「トゥルキスターン」と呼ばれる傾向にあった。

「マーワラーアンナフル」と呼ばれる地域は、イスラーム以前のサーサーン朝がアケメネス朝の行政単位をそのまま用いてソグディアナ(ソグド人の土地)と呼んでいた領域とほぼ重なる。

また、サマルカンドやブハーラーなどのマーワラーアンナフル南部の地域はかつてのソグディアナの名称がそのまま残り、特に「スグド地方」 とも呼ばれ、現在のタジキスタンのソグド州に名称が受け継がれているます。

20世紀にマンギト朝最後の君主アーリン・ハーン(ジンギス・カーンの長男“ジュチ”の末裔)がソヴィエト連邦によって追放されるまで、マーワラーアンナフルはモンゴル系の政権が続いた。

・・・・・・・続く

                         *当該地図・地形図を参照下さい

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