西域人物伝・ティムール (3)

西域人物伝=ティムール帝国=

ティムール3-1

若い頃のティムールが 西チャガタイ・ハン国の有力者へとのし上がって行き、1360年、ティムールは部族の指導者にのし上がった。 そして、

それから間もない 1361年に理由は不明ながら家族や 極少数の供回りを連れて ティムールは故郷のバルガス部、ケシュへ逃亡した。

その後、勢力伸張するティムールを叩くべく派遣されたモグーリスタン・ハン国(東チャガタイ・ハン)の軍勢を ティムールはバルフ付近で撃破、隣国バダフシャン王国をも打ち破り、都市を占領している。

その数ヶ月後 1363年にトゥグルク・ティムール(東チャガタイ・ハン国・国王)が死去し その跡を継いだイリヤス・ホージャを チィムールは ケシュ付近の戦いで壊滅させ、マーワラーアンナフルの支配を果たした。

だが、イリヤス・ホージャの反攻により 起きたチナズ-タシケント付近の「泥濘の戦い」に於いて、ティムールとフサイン(義兄)間で 関係に齟齬が生じ、意思疎通を欠いた西チャガタイ・ハン勢は 予め雨に備えていたモグーリスタン・ハン国に敗れ、支配していたサマルカンドを失陥している。

・・・・・・と 先日 話しました。 フセインは1960年頃 ティムールが上昇気流に足を掛けた時、カラウナス部の領主であったフセインの妹を娶って姻戚となっていたのです。

ティムール3-2

フセインは権勢欲の強い策士タイプの政治家です。 ティムールは彼の妹ウルジャイ・トゥルムシュ・アーガーを最愛の后妃として生涯 大切にしています。 ちなみに、彼は二十人の后妃と確認されている25人の側室を持ちますが・・・・

1361-65年はティムールと義兄・フセインの関係が最も親密な時期であった。 婚姻関係が二人の結束更に強めた。

今や チィムール・フセイン同盟は中央アジアで強力な勢力になっていた。 しかし、両者は この同盟をそれぞれの利益のために利用していた。 特にフセインは政治的に活用した。

戦利品目当ての侵略を繰り返す中で ティムールは淡白に多くを与えている。

1362年 再び トクルグ・ティムールは遠征した。 ティムールを信頼し、皇子の教育まで一任したトクルグ・ティムールが中央アジアに進軍してきた。

チィムール・フセイン同盟は応戦に出陣する。 だが、ティムールは トクルグ・ティムール陣営から、理由も告げずに 家族や極少数の供回りを連れて 故郷のバルガス部、ケシュへ逃亡した 負い目があった。

また、ティムールとフセインの連絡に齟齬があった。 負け戦になった。 ティムールの生涯で初めての敗北であった。 ティムールとフセインは敵将のアリ・ベグに捕えられ、捕虜になり、メルブで62日間 拘束され捕虜生活を余儀なくされている。

解放された後 二人はセイスタンの領主に仕えている。   《 捕虜は金銭で釈放されます。 また、二人が地方の領主に仕えるとは フセインの策略か・・・・》

1363年にトゥグルク・ティムール(東チャガタイ・ハン国・国王)が死去してその跡を継いだイリヤス・ホージャが 大軍を率いて中央アジアに進軍して来た。 イリヤス・ホージャがとりわけ自分を敵視していることを知るチィムールは 迎え撃つ準備を整え 応戦した。

戦場はチナズ-タシケント付近 戦いの最中に大雨が降った。 史上「泥濘の戦い」と言われる戦いで 再び ティムールは敗北を記した。 約一万人の軍勢を失った。 残兵を率いてサマルカンド方面へ逃れ、やがて アムダリヤを渡行し バルフ方面で身を潜め、隠れた。

この敗北の戦いでは もう少しで命を落とすまでの苦境に立たされたティムールですが、この戦いでティムールは負傷し 足を損傷した と言う説もあります。

また、敗因をめぐって衝突した ティムールとフサインは 双方が感情の溝を深めて行くことに成った。

この戦いで東チャガタイ・ハン国のイリヤス・ホージャはサマルカンドへ向かう事が 容易に 出来るようになった。 この都は 当時 防壁も内城もなく、ティムールとフサインの守備兵も残っていなかった。

この頃 サマルカンドの住民にはセルボダルと呼ばれるグループが幾多あった。 チャガタイ・ハン国からの解放を目指す政治団体です。 都市の手工業者・学生・商店主達 都外の農民・小規模地主が支持していた。 封建貴族や高位聖職者、裕福な商人・軍属はセルボダル運動に反対していたのです。

ティムール3-3

東チャガタイ・ハン国のイリヤス・ホージャがサマルカンドへ向かっている情報は四辺に飛んだ。 セルボダル達は抵抗運動に立ち上がった。 市内の中央大寺院に一万人が参集した。

“セルボダル”とは、「絞首刑になった者」の意味で モンゴル人に諂うより絞首刑を選ぶ」がスローガンの運動です。 当時 中央アジアに広がっていた。

群衆がざわめく中、一人の学生(マラドサ) マウラナ・ザデが腰に剣を帯び演説した。 マルカンドの支配者は重税だけを取り立て、住民が困難に困難が迫ると逃げてしまった。 サマルカンドを護のは我々しかいない」 群衆は沈黙した。 彼はその沈黙に訴えた。 「私が先頭に立とう、附いて来てくれますか」

イリヤス・ホージャは 簡単にサマルカンドを占領できると市内の大通りを進行した。 蒙古軍が市内中央に差し掛かると マウラナ・ザデの指令に従う万余の市民が一斉に弓矢を射かけた。

蒙古軍の死者2000有余名、これに加えて 軍馬が疫病にかかり 生き残ったのは四頭に一頭の状態。 イリヤス・ホージャは何一つ得ることなく、東チャガタイ・ハン国軍はほとんど素足で中央アジアから退散した と記録にある。

東チャガタイ・ハン国軍の敗退、イリヤス・ホージャの敗北の情報はティムールとフセインのもとにも達した。 フセインはアムダリヤの岸辺で冬を過ごし、ティムールはケシュ(故郷、シャフリサヅス近郊)で情報を集めていた。 フセインがサマルカンドの手前にあるカン・イ・ギルにて落ち合う提案を持って来た。

翌年の春(1965年) 二人はサマルカンドに向けて進軍、カン・イ・ギルに本陣を置いた。 二人はセルボダル達の勇敢な行為を讃、彼らに会いたいとサマルカンドに申し入れた。

マウラナ・サデとセルボダルの幹部は二人の言葉を信じ、カン・イ・ギルの本陣に会見に訪れた。

フセインとティムールは彼等を歓待し、宴は二日間続けられた。 二日目の夜 フセインは彼等を殺害して終う。 変事を知ったティムールはマウラナ・サデを庇い 逃がしているのです。

フセインが最高権力者で、ティムールはその右腕と言う関係で 再びサマルカンドを支配下に収めたのは1366年の春の終わりの頃だった。

しかし、二人の間には 増々 疑心暗鬼の溝が深まり、感情のもつれは解消出来なくなっていた。 ある事件が起きた。

フセインがティムールの協力者に多額の支払いを要求した。 協力者たちは返済の猶予を願い出たが拒絶された。

ティムールは両者の中に立たされ、協力者を突き放すことが出来ずに 自分の資産で賄えぬ分は妻たちの装飾品まで売却して 支払いに協力した。 この行為の結果 ティムールは軍事的協力者から絶大な信望を勝ち取り、フセインは多くの協力者をうしなっている。

さらに この後 ティムールは六年間連れ添い、苦労を共にしてきた愛妻 ウルジャイ・トゥルムシュ・アーガーを亡くしている。 義兄・フセインとの姻戚関係は切れた。 フセインとの対決をティムールは考え始めた。

フセインは1360年以降 自分の牙城であるバルフ城を補強 強化していた。 財宝と武器を大量に運び込んでいた。 住民は毎年 重税に苦しみ 積年の不満を訴えていた。

ティムールはこれを聞きつけ、フセインに善処とバルフ城の強化中止を申し入れたが フセインは聞き入れなかった。 ついにティムールは先手を打つことを決断する。

Columbine Moon

1370年 ティムールは フセインがサマルカンドを離れ バルフ城に向かった時を利用して、大軍を率いてカシュカ・ダリから鉄門を経る迂回路を経由して アムルダリアを渡り、バルフ城を包囲 城を攻略した。 フセインは内上城に立て籠もった。
《 私は“鉄門”通過したことがあります。 幾多の探検家がこのの難路を通り、 キルギスタン・アフガニスタンに旅しています。 幻装三蔵も歩いています 》

フサインは 勝算の無きことを悟ると、 もし内城を明け渡せばどのような保障が出来るのかとたずねた。 ティムールは 命だけは助けるが 他にいかなる保障派ないと答えています。

フセインは降伏するつもりで 夜間 家臣をつれて内城を出た。 ティムール本陣に近づくと怯えてしまい、近くのナミレット(イスラム寺院の塔、時を告げる為に建てる)に夜陰に紛れて隠れてしまうが、ティムールに通告されてしまいます。

軍勢に捕えられたフセインに対し ティムールは約束を履行しようとしたが、同盟者の一人 フッタリャンの領主ケイ・フォスローが「血の復讐は正当である」と フセインを殺してしまいます。

この1370年の事件、フセインの打倒はティムールの生涯における決定的出来事であった。 飛躍へのターニング・ポイントとなった。 バルフ城攻略の直前 メッカ生まれのシェイフ・ベレケがティムールの本陣を訪れています。

ベレケはティムールに太鼓(命令権)と旗(権力の象徴)を贈り、彼の偉大な未来を予言したのです。 後年にはベレケはティムールの霊父と成っていますが、この時 ティムールは中央アジアに支配者であるべき自己を自覚したのではないでしょうか・・・

34歳のティムールはマーワラーアンナフルの覇権を確立したのです。 そして これ以降 69歳で没するまでの35年間 権力を一度も手放したことはありません。

建設的な破壊と 文芸の創造・創造に邁進して行きます。 馬上から イスラム芸術の華を生み出していくのです。

同年(1370年)、内城に捉われていた フサインの寡婦でチンギス・カンの子孫にあたる王女を妃に娶って、「チンギス家の娘婿」を称しています。

チンギス・カンの子孫ではないティムールとその後継者たちは自らハンに即位することはなく、他の遊牧部族の将軍たちと同じアミールの称号を名乗るのみであり、名目上はハンであるチンギス家の娘婿にしてハンの下にあるアミールの最有力者として振舞っている。

政権を確立したティムールは バルラス部以外の有力部族を傘下に収め 大モンゴル国の2代目だったオゴデイの末裔である王子ソユルガトミシュをハンに擁立しています。

しかし現実には1370年に中央アジアにティムール家の権力が確立し、ティムール家による支配が行われたので、これをティムール朝(ティムール帝国)と呼ぶことができるでしょう。

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・・・・・・・・続く・・・・・・

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