西域人物伝・ティムール (4)

西域人物伝=ティムール帝国=

ティムール4-1

ティムールは マーワラーアンナフル統一を果たした後の10年間にモグーリスタン・ハン国の支配するモグーリスタン(東トルキスタン)へ遠征を繰り返し、コンギラト部族の支配するホラズムを併合、ジョチの末裔トクタミシュを支援して トクタミシュをジュチ・ウルスのハンに据え 周辺の諸勢力を自己の影響下に置いた。

1380年からはイル・ハン(フレグの血統)朝解体後 分裂状態にあるイランに進出してホラサーンを征服、

1386年から始まる3年戦役でアフガニスタン、アルメニア、グルジア 等まで支配下に置いた。

1388年、トクタミシュがティムール領を攻撃したのをきっかけに3年戦役を終了したティムールは、トクタミシュを破るとイランへの遠征を再開し、1392年から始まる5年戦役でムザッファル朝を滅ぼしてイラン全域を支配下に入れ、 バクダード入城してマムルーク朝と対峙して行く。

ティムールはさらに北上してカフカズを越えトクタミシュを破り、ヴォルガ川流域に至ってジュチ・ウルスの都サライを破壊、ルーシ諸国まで侵入し、1396年に帰還した。

ティムール4-2

ティムールの支援を受けて ジュチ・ウルスを掌握したトクタミシュは 1382年 アゼルバイジャンに遠征軍を送り ウズベク・ハン時代の全盛期を取り戻していた。 トクタミシュの南西への拡大行動は 中央アジア制覇の一途をたどっているティムールにとって許しがたいものであった。

1385年 トクタミシュはテヅリス攻略に大軍を送った。 この地をも制圧している。 ゾロタヤ・オルダ(白帳汗国)・キプチャク平原は言うまでもなく ジュチ家の版図(ウルス)です。 しかし、ジュチ家の支配下に在るヴォルガ流域、クリミヤ、北カフカスの民衆は そのジュチ家の支配からの離脱を欲していた。

他方 中央アジアの農耕地帯では、分裂・混乱状態から脱し 統一されることを願っていた。 ティムールの目指す理想とトクタミシュのジュチ時代への回帰志向が激突するのです。

1387-88年 トクタミシュは ティムールが“3年戦役”で遠征中の留守を狙って スーフー朝(ティムールに服属)が統治していたホラズムに侵入、ホラズム・シャーにティムール支配からの離脱を唆した。 ホラズム王(シャー)スレイマン・スフィは簡単にその手に乗り ティムールの激怒をかってしまった。

ティムールはペルシア征服は完遂するかに見えた“3年戦役”を中断して凱旋帰国する。

ティムール帰還の報を受けたトクタミッシュは一旦は軍を引き返すも、再び攻め寄せて来た。

これには ティムールも憤激してトクタミッシュを討伐することを決意した。 が、そのために2年間準備を行い、後方の憂いを絶つため モグーリスタンに軍を進めています。

1391年1月 ティムールは トクタミッシュに大鉄鎚を下すため、20万の軍を率いて出陣したのです。

《 現在のカクサクバイ鉱山のあるウルグ・タグ山付近で 「トゥランのスルタン、チムール 20万人の軍を率い トフタミシュ壊滅に向かった・・・・」と 石碑が発見されています 》

ティムール4-3

ティムールには別のトカ・テルム家《ジュチの血統、前記載図参照》のティムール・クトゥルグとエディグ兄弟が随伴していた。

キピチャク草原に進んだティムール軍であったが、そこは飢餓地帯であった。 飢えと渇きに苦しみながらも ティムール軍はトクタミシュの本体を捕えることに成功し、6月にクンドゥズチャの地で対峙した。

この時 ティムール軍は7つの編隊から成っていた。 前衛にスルタン・マフィード、中央に嫡孫ムハンマド・スルタン(嫡子ジャハーンギールの長男)、その後衛にはティムール本隊、右翼にはミーラーン・シャーと先陣のサイフ・ウッディーン、左翼にはウマル・シャイフと先陣のビールディ・ベグがそれぞれ配置していた。

対するトクタミッシュは 自身が中央に位置し、両翼に王族等が配置する構えを見せた。

敵を眼前にして ティムールが神への祈りを奉げた後 「アッラー・アクバル」と叫ぶとともに戦いの火蓋が切られた。 右翼の先陣サイフ・ウッディーン が敵の左翼を割って入り、打ち砕く と ミーラーン・シャーの右翼軍がこれを一気に粉砕して行った。

ムハンマド・スルタンの中央軍も敵中央軍を圧倒し、ウマル・シャイフの左翼軍は良く持ち堪えた。 激戦は半日以上 右翼軍がトクタミッシュ本陣深くに突き進み、トクタミッシュ陣営を混乱させて行った。

クンドゥズチャの戦いはティムールの大勝利に終わり、トクタミシュは命からがら落ち延び ボルガ河は敗残兵の死体で一杯になった。

ティムールはジョチ・ウルスの新たな支配者としてティムール・クトゥルグとエディグ兄弟を任命して帰国したのです。

ティムール4-5

帰国したティムールは1392年7月にペルシャの再征服戦争を開始する。

最初にマーザンダラーンに進軍し、カスピ海沿岸のマーハーナ・サル要塞を攻略して同地を制圧する。 翌1393年にはティムールは再びムザッファル朝(ファールス地方を支配していたイランの王朝)における勢力を拡大するなどした。を攻略すべく、ムハンマド・スルタンをスルターニーヤに派遣させ、自身はフーゼスターンを目指した。

その頃のムザッファル朝では、トゥルスタンのシャー・マンスールが庇護を求めてきたザイヌル・アービディンを捕えて監禁し、シーラーズ(ザクロス山脈中の)、イスファン、アブルクーフを制圧する等、 その勢いは侮り難いものになっていたのです。

西方から攻め入ったティムールはトゥルスタ、フジスタンを攻略し、シーラーズ西北の要塞ガルエ・セフィードに至った。 この要塞は高い岩山に築かれて断崖絶壁を誇っていた。

ティムールは決死隊を使って攻略し、幽閉されていたザイヌル・アービディンを助け出した。

要塞攻略後にティムールは3万騎を率いてシーラーズに迫る。 これに対してシャー・マンスールは鉄騎兵4千を率いて迎え撃つ。 戦いは乱戦を極め、ティムールとシャー・マンスールの一騎打ちが行われる程であったが、後者が戦死することで勝敗は喫した。

その後、地方の君主達が相次いで帰順し、ムザッファル朝は滅亡したのです。  将軍、ウマル・シャイフに統治を委ねた後にティムールはバクダードのジュライル朝のスルタン・アフマドを突くべく クルディスタンから攻める作戦を採った。

《 1258年、蒙古帝国軍の侵攻によってアッパース朝は滅亡し、バクダードは灰燼に帰した(バクダードの悲劇)。 成吉思汗の孫にあたるフレグは最後のカリフ・ムスタアスィムを殺害し、住民80万を殺戮したといわれる。 豊かな農耕地と灌漑施設が破壊され、経済基盤を喪失したバクダードはその後フレグの建てたイルハン朝に属した。 後 バクダードは、イルハン朝、ジャイライル朝、ティムール朝の支配を受けたて行った 》

この策は成功し、スルタン・アフマドはエジプトのマムルーク朝(エジプトを中心に、シリア、ヒジャーズまでを支配したスンナ派のイスラム王朝(1250-1517年)の許へ逃亡しています。

8月30日にティムールはバグダードに入場し、ここで2カ月程滞在したが、その間にイラク南部を掌握しているのです。

11月にバグダードを出発してクルディスタン(中東のイラン、イラク、トルコ、シリア、アルメニアの国境地帯に広がるクルド人居住地域)に攻め入ったが、ここでウマル・シャイフが戦死している。

翌1394年には黒羊朝やグルジア等を討ち、かくして ティムールは旧フレグ・ウルス領を制圧したのです。

ティムール4-4

その頃、トクタミシュは復讐の機を覗い、マルルーク朝、オスマン帝国、黒羊朝と言ったイスラム諸国、更にはキリスト教国であるルーシ諸侯やリトアニア大公国も抱き込んで 反ティムール同盟を結成しようとしていた。

これに対してティムールはイスラム諸国に和平を請うべく使者を派遣したが、 成果は芳しくなく、それどころかマルルーク朝のバルクークは使者を殺害して、更にはスルタン・アフマドを支援してバクダードを奪取する構えであった。

北のコーカサスではリトアニア大公ヴィータウタスの支援を受けて勢力を盛り返したトクタミシュが不気味な姿を 草原に現わしていた。

ティムールは包囲網を打ち砕くために、開戦の戦いは 最初に長年の敵 トクタミッシュと決着をつけるべく トクタミッシュの本陣位置を探らせている。

1395年2月末に出陣し、4月半 コーカサス北側のテレク河にてトクタミシュとティムールは激突した。

戦いはティムールの圧勝に終わり、トクタミシュは敗走し 落ち延びた。 ティムールは 追う形で、ルーシ諸侯、タナ、アストラハンを荒らし回り 帝都・サライを徹底的に破壊・略奪したのです。

ジュチ・ウルスは実質的にはこの時点で息の根を止められたと言っても過言ではないでしょう。 零落したトクタミシュは乞食同然の身となり 彷徨います。

後に死ぬ直前 ティムールと和解するのですが、1406年に殺害されてしまいます。

1396年にティムールはペルシャ戦線に戻りますが、バグダードを攻めることなくサマルカンドに凱旋帰還しています。

ティムール4-6

インド遠征
サマルカンドに帰還したティムールは広大な領土を息子・孫達の間で分割した。 その頃 アフガニスタン方面を統治していたビール・ムハマド(M.スルタンの弟)が カンダハールからシンド地方に軍を進めていた。

ビール・ムハマドは パンジャーブの要衝ムルタン攻略に手こずっていた。 ティムールは、これを受けて1398年4月に親征 サマルカンドを起ち、インド遠征を敢行した。

インドへの征服事業はチャガタイ・ウルスの国策の一つだったのです。 ティムールもこの事業を継承する必要があったのでしょう。 ティムール王朝としての政治的必要性は全く無かったと思いますが・・・・

当時、インドを支配していたのはイスラムを信奉するトゥグルク朝であった。 が、ティムールは「異教徒を甘やかすデリー政権に鉄鎚を下す」の大義名分で 遠征に赴いた と言います。

1398年8月中旬 カブールに到着したティムールは、スレイマン山のパシュトゥーン人と交戦しつつ、インダス川を渡ってタル砂漠を横断 ジェラム川に沿ってタラムバに至った。

この地で略奪をして糧食を確保した後、10月末にラヴィ川とサトレジ川の間でビール・ムハマドと合流しています。 ビール・ムハマドは独力でムルタンを落としたものの、その後の豪雨で全ての軍馬を失っていたのです。

合流後 ティムール軍は一気にデリーを目指し、バトニール、ルーニーの各要塞を次々と陥落させます。 が、抵抗激しいトゥグルク朝に対し この地で悪名高い「インド捕虜10万人の殺戮」を行ったのです。

12月17日 デリー郊外の平野でティムールはトゥグルク朝軍と激突します。 トゥグルク軍は繰り出す戦象にティムールの騎馬は怖気づいた。 しかし 象に対し 野牛の一群で ティムールは戦象を封じ込め 勝利に導いた。

翌日 12月18日にティムール軍はデリーに入城して破壊と略奪の限りを尽くしている。 1399年1月1日にティムールは莫大な財宝、職人、捕虜、戦象を伴いデリーを後に 凱旋帰国に向かったのです。

ティムールは 帰還の途中に西方方面の危機的状況を受け取り、彼自身は 一足早く 同年4月29日にサマルカンドに着いている。

“戦いが戦いを呼ぶ、戦争が戦争を生む” 63歳のティムール 1370年から戦いの渦中に身を置き 1405年で他界するまでの 残る六年間をティムールは戦場にその身を晒し続けるのです。

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・・・・・・・・続く・・・・・・

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