西域人物伝・ティムール’系譜 (1)

西域人物伝=ティムール帝国の正嗣=

ティムール7-1

傾国の美女 と ハリール・スルタン

ハリール・スタン;在年(1384年-1411年) ティムール朝・第二代君主 在位:1405年 – 1409年  権力の簒奪 ;  初代君主のティムールの3男であった ティムール朝・第二代君主の父・ミーラーン・シャーはティムール存命中 君主・ティムールから アルメニアとグルジアアの統治を任されていた。 オスマン帝国は ジャイラル朝と黒羊朝を支援し、この地方へのティムール朝の封臣・タルテンに圧力を加えていた。 これに対して西方を任されていたミーラーン・シャー(父)は有効な手立てを打てないどころか、精神を病み 荒れた生活を送っていた。 父・ミーラーン・シャーは 幼い頃から智勇兼備で知られており、祖父(ティムール)からの信任も厚かった。 そのため1380年には15歳の若さでクルト朝攻略戦争に従軍し、1381年には祖父(ティムール)の命令で別動隊を与えられてヘラーチ攻略で功績を上げる武勇を示した。 この功績により ホラーサーンを所領として与えられている。 1386年からの3年戦役にも従軍している。 1391年にも、ジュチ・ウルスのトクタミシュと会戦したクンドゥズチャの戦いでも従軍し、一隊の将として勝利に貢献し、父(ティムール)の信頼は増していったのです。 1392年からの5年戦役にも従軍している。 しかし、1393年、祖父(ティムール)の命令で 領地がホラーサーンンからアゼルバイジャンに変更されたのです。 アゼルバイジャンは宿敵であるジョチ・ウルスの最前線であり、実質的には左遷に近かった。 この 急な領地変更に関して 父(ミーラン・シャー)は 祖父(ティムール)の正嫡子であった父(ミーラン・シャー)の長兄であるジャハーンギールが 1376年に早世したため、祖父(ティムール)はジャハーンギールの息子のビール・ムハンマドを後継者にしようとしてしたと考えていた。 ビール・ムハンマドは 祖父(ティムール)の正室の孫であり、“黄金の血統”意識が祖父(ティムール)には強い と 父(ミーラン・シャー)は思っていた。 父(ミーラン・シャー)は 母(オルン)が、祖父(ティムール)が傀儡とした西チャガタイ・ハン国君主のソユルガトミシュュの娘であったが   祖父(ティムール)の愛妾であり、 兄・ジャハーンギールを祖父(ティムール)が他の息子達と異なり 容貌も性格も遥かに劣っていたにもかかわらず、祖父(ティムール)の唯一の正室の息子であるからに他ならない と 考えていた。

ティムール7-2

智勇に優れ年齢的にも申し分の無い三男(ミーラン・シャー)の存在が ティムール王朝継承の災いになると、ティムールが考えての処置だったのでしょう。

また 三男(ミーラン・シャー)がハラーサーンで次第に独自の勢力を築きつつあり、近隣諸国と独自外交を行なうなどしていたことから ティムール政権への謀反を警戒したためかも判りません。 この 三男(ミーラン・シャー)へのアゼルバイジャンに領地変更の処置により、ティムールとミーランの仲には亀裂が走ったのでしう。 ・・・・・・・・・       ・・・・・・ 1397年に 祖父(ティムール)がビール・ムハンマドを正式に後継者として指名すると、不満を蓄積していた父(ミーラン・シャー)は祖父(ティムール)、サナルカンド領への貢納を拒否するなどの反抗に出た。 そして 1399年には遂にアゼルバイジャンで 父(ミーラン・シャー)は反乱を起こした。 しかし 兵力では劣勢であり、父(ミーラン・シャー)自身も 祖父(ティムール)から王朝西部の統治を任されていながら、 オスマン朝に圧迫されていた諸侯に対して冷淡な措置をとっていたために 呼びかけに応じる諸侯はほとんど無く、反乱はあっけなく鎮圧されてしまった。 祖父(ティムール)は 我が子を処断するのはためらいがあったのか、太守からの解任で済ませているが、その代わり側近の多くを処断されて事実上は権力を削減される結果となった。 1405年に 祖父(ティムール)が死去する。 と、 祖父(ティムール)のカリスマ性と類稀な軍略で支えられていただけで、確固たる体制が築かれていなかったティムール朝では後継者をめぐって争いが起こった。 祖父(ティムール)の生前の取り決めでは嫡孫のビール・ムハンマドが後継者とされていたが、これに不満を抱いていた父(ミーラン・シャー)は彼の後継を認めず、彼の部下と通じて 遂には ビール・ムハンマドの謀殺に及んだ。 そして後継者には自らの息子であるハリール・スルタンを擁立した。 そのため、ハリールは首都のサマルカンドを奪い取り、ティムールの後継者として新たに即位(1405年)したのです。 しかし ハリール・スルタンはサマルカンドで失政を重ね、 また父(ミーラン・シャー)の弟であるシャー・ルフは甥・ハリールの後継を認めずに父(ミーラン・シャー)と対立に及んでしまう。 祖父(ティムール)に反乱を起こして力を半ば失っていたミーラーンは 弟・シャー・ルウに対抗するためにサマルカンドに移ろうとしたが、 弟・シャー・ルウに進軍を妨害されて及ばず、その失意から病に倒れて1408年に死去した。 享年43です。  父(ミーラン・シャー)の死でハリールは力を完全に失い、翌年(1409年)に叔父・シャー・ルウによって廃されることになった。

ティムール7-3

【傾国の美女】

ティムール朝・第二代君主ハリールにはシャーディ・ムルクという寵妃がいた。 ハリールには彼女の言うことなら何でも聞いてしまうという悪癖があったため、彼女の進言でその縁者やお気に入りを次々と重職に取り立て、祖父時代の未亡人や重臣などに全く配慮をしなかった。 しかもサマルカンドで飢饉が発生し、市民の援助も失った。 1408年には後ろ盾だった父(ミーラン・シャー)が死去するという不幸も重なった。 1409年5月、ハリールは兵力増強のためにアンディジャンに赴き、サマルカンドは留守となった。 ヘラート太守を務めていた叔父・シャー・ルウの攻撃にあってサマルカンドは陥落し、シャーディ・ムルクは捕縛された。  ハリールは寵妃が捕らわれたことに動揺し、サマルカンドに急遽帰還した。 そして 妃の助命を条件にして退位を余儀なくされ、新たに即位したシャー・ルウによってライ(現在のテヘラン)の総督に任じられた。 1411年にライで急死した。 享年28でした。 後世の史家 曰く・・・・・・  「ハリール・スルタンが温和な性質と気前の良さで、臣下を意のままにしていたことは疑いようが無い。 と言うのは、彼は力が弱く、収益を上げることはほとんどなかった。 が、善良さと富を乱費することで、実力者たちを味方につけていたからである。 しかし、富はすぐに消えてなくなるものなのだ。 まして 后・シャーディ・ムルクが如何なる美貌かは知らぬが・・・・・、」 父母   父; ミーラン・シャー(初代・ティムールの3男)   母; ミングリジャク・ハトゥン(側室) 后妃;ジャイハーン・スルタン・ビキ  シャード・マリク・アーガー  シャーディ・ムルク 他に氏名不詳の妃  及び宮廷の女奴隷の側室など 嗣子   ブルグル(長男) ムハンマヅ・バハドゥール(次男) 妃子  キュク・アーガー  シリン・ベグ・アーガー  スルタン・バディ・アル・ムルク

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_______続く_________

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