西域人物伝・ティムール’系譜 (2)

西域人物伝=ティムール帝国の正嗣=

ティムール8-1

 詩作を好み書道を得意とする文人 ・ 建築と学芸の保護振興

シャー・ルフ 在年(1377年- 1447年)は、ティムール朝・第3代君主(在位:1409年 – 1447年) 1377年に初代君主の四男としてサマルカンドに生まれた。

シャー・ルフが生まれる直前にティムールはチェスをしており、城(ルフ)の駒で王(シャー)手をかけた時に、ちょうど四男が生まれた報告を受けた。

喜んだティムールは子に「シャー・ルフ」と名付けた伝承が残っています。

1397年にヘラートを中心とするホラサーン地方(イラン東部)を領地として与えられ、1401年のアンカラの戦いにも従軍、 彼の率いるホラサーン軍は中軍の左翼に配置されて、活躍する。

1405年、父(ティムール)が明遠征途中にオトラルで病死した。

ティムールは生前に嫡孫のビール・ムハンマドを後継者に指名していたが、  シャー・ルフと父(ティムール)の三男ミーラン・シャーの子ハリール・スルタンは自身の名前をフトバ(国章)と貨幣に用いて独立の意思を表し、2人の他にも帝位を窺う王族は多くいた。

このような状況下で シャー・ルフは兄・ミーラーン・シャーと甥・ハリール・スルタンの合流を阻止、スラリマーン・シャー、サイード・ホージャ等の反乱を起こした配下の貴族を 討って地盤を固める。

父(ティムール)の意向であった嫡孫のビール・ムハンマドが暗殺(ミーラーン・シャーの策謀)され、ハリールがサマルカンドに無血入城した後に 配下の反乱(シャー・ルフが策動した)によって追放されて

最後に彼が残り、1409年5月にサマルカンドに入城、ハリールを廃位に追いやり 即位したのです。

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シャー・ルフは即位前からの居住地であったヘラート(アフガニスタン、ハリー・ルード川の河谷に形成された肥沃なオアシス都市、古にはワイン生産地として名高かった)に住み、

1412年までに居所を宮殿からヘラート西北の「カラスの園」に移しています。

従来の首都サマルカンドには息子のウルグ・ベク(第四代君主、高名な学者・芸術家)を総督に、ベルグト部のシャー・マリクをベグの後見人に据えています。

後年に ウルグ・ベクが後見人・シャー・マリクを罷免する。

シャー・ルフは ウルグ・ベクと国を2つに分けて共同統治を行う体制で ティムール領内を統治して行くのです。

シャー・ルフは 治世の初期に親族、特に息子たちの反乱を恐れて頻繁に領地を変えています。

また 3人の兄の子孫を中央から遠ざけるとともに、姻族と腹心の部下を重用して 自身の一族の権力を高めようとしますが、効果は上がらなかったようです。

学者タイプの君主ですね。

また 各方面に派兵してティムール没後に失った領地の回復を試みましたが、

黒羊朝(イラク北部から東部アナトリアを経てアゼルバイジャン、イラン西部に広がる遊牧地帯を支配したテュルク系のイスラヌ王朝、1375-1468年)の支配下に入ったアゼルバイジャンの奪回には失敗している。

1420年、1429年、1433年の3度にわたる遠征を行い、最初の遠征では黒羊朝の指導者カラ・ユースフが没したため一度は支配下に戻るのですが、 シャー・ルフが帰還した直後にカラ・ユースフの子イスカンダルが 継承問題で再独立した。

シャー・ルフは イスカンダルの兄弟ジャハーン・シャーを対立王として擁立することで解決を図ります。 文人政治家の対処ほうです。

シャー・ルフ存命中のジャハーン・シャーは恭順の意思を示しますが、  完全に従属させるには至らず、 黒羊朝はシャー・ルフ没後に臣従関係を断ち切ったのです。

1414年に北インドで成立したヒズル・ハーンのサイイド朝(デリー・スルタン朝の4番目の王朝、1414-1451年)も、当初はフトバ(国章)に シャー・ルフの名前を入れて臣従を表明していたが、

ヒズル・ハーンの子ムバラク・シャーが即位すると サイイド朝はフトバからシャー・ルフの名前を削り、独立の意思を表すようになった。

シャー・ルフが派遣した討伐の軍は敗れ、インド方面の回復に失敗している。  晩年にイラン高原で反乱を起こした孫を討伐するために遠征したとき、1447年3月12日にレイで陣没した。

享年70歳だった。

ティムール8-3

シャー・ルフ時代、帝国の周辺諸国に多くの使者が送られた。

父(ティムール)の代に敵対していた明との国交関係の修復は、シャー・ルフがサマルカンドに入城する前から行われていた。

1408年にヘラートを訪れた明の使節の返礼として使者を北京に派遣し、これより明との間で使節のやり取りが行われた。

明の永楽帝からは織物が、ティムール朝からはライオン・獅子、中央アジアの馬を互いに贈りあった。

明から派遣された外交使節陳誠が記した『西域番国志』『西域行程記』には、当時のヘラートの繁栄が記されている。

宣徳帝(中国明朝の第5代皇帝)の治世になるとティムール朝の使者が中国を訪れることは 稀になり、一時は交流が復活したものの正統帝(明朝の第6代、第8代皇帝)の即位後は明側が外交に対して消極的な方針を採ったため、ティムール朝と明の関係は疎遠になった。

明以外に、東方からはチベットの使者もヘラートを訪れたています。

シャー・ルフはオスマン朝(コンスタンチノーブル)、マムルーク朝(エジプト・カイロ)などの西方のイスラーム国家とも交流を持ったが、交渉の場では高圧的な態度を顕わにしていた。

ティムール朝の使節の無礼な態度に激怒したマムルーク朝の 「スルターン・アシュラフ・バルスバークはシャー・ルフが贈った礼服を引き裂き、使者の頭を水の中に突き込んだ」と

マムルーク朝の歴史家は記述しているから、学者タイプの傲慢さなのでしょうか・・・・・・

ティムール8-4

シャー・ルフは 詩作を好み書道を得意とする文人であった。

建築事業と学芸の保護を振興した。 建築事業としてヘラートのバザールと城壁の整備、中央大モスクの改修、病院の建設を実施しています。

代表的な建築物として、ヘラート出身のスーヒィー(イスラム神秘主義)アブツドゥッラー・アンサリ廟の増築が挙げられる。  学芸については歴史家の支援に熱心であり、彼の後援を受けたヘラート出身の歴史家としてはアブドゥル・ラッザーク、ハーフィズ・アブルーが著名であるす。

治世初期の反乱の鎮圧においても、文化の発展に貢献する事件が起きた。

1414年にシーラーズで反乱を起こした甥・イスカンダルを破った時、彼に雇われていた宮廷画家を迎え入れたている。

これによってシーラーズ特有の絵画技法がヘラートにもたらされ、以後ヘラートがティムール朝の宮廷絵画の中心地となったのです。

しかし、王朝文化が発展した功績を シャー・ルフ1人だけに帰することはできないでしょう。

図書館と書写施設を建設したバインソング、多くの建造物を残したガウハール・シャーら他の王族も ヘラートでの文化事業に積極的だったのです。

他方 ヘラートの外でも、サマルカンドのウルグ・ベク(ティムール朝・第4代君主)を筆頭とする王族、ホラズム(アルダリア川の下流域、アラル海の南岸辺り)の総督シャー・マリクら重臣が 文化の保護を盛んに 行っていたのです。

シャー・ルフは イスラム文化揺籃期の君主と言えます。

ティムール8-5

ティムール朝・第3代君主、シャー・ルフは イスラーム法(シャリーア)の遵守を全面に出す敬虔なムスリムであり、父ティムールと異なり キュレゲン(成吉思汗の婿)を名乗らず、傀儡のハンを立てようともしなかったのです。

ちなみに、“シャー”はハン、ハーン、汗、皇帝の呼称です。  金曜日には一般の信徒と共にモスクで礼拝を行い、ムタスィブ(イスラームの宗教監視官)の監視の下で自分の息子たちも対象とした 厳格な禁酒を敷いたのです。

建築事業としてヘラートにマドラサ(イスラーム世界における学院)やスーフィー巡礼者(羊の皮を着衣や座布として修行あるいは遍歴した者たち)のための宿泊施設を建て、サマルカンドのビビ・ハムム・モスクに巨大なクルアーン(イスラーム教聖典、コーラン)の書見台を寄贈しています。

他方 イスラームの異端派に対しては厳しい弾圧で臨み、1427年2月には金曜礼拝を終えたシャー・ルフが モスクから出た時、異端の信者に腹部を刺される事件が起きています。

その一方で、裕福な商人層・シャリーアに反する商税(タムガ税)を救貧税(ザガート)と称して徴収する現実的な面も持ち合わせていた辣腕家の面も見せています。

正嗣子 ; ウルグ・ベグ  ソユルガトン  イブラヒーム・スルタン  ムナンマド・ジューキー  バイスングル

ティムール8-6

・・・・・・ 追記 ・・・・・・・

中央アジアの大部分の城郭都市は 1219年よりモンゴル帝国の成吉思汗が行った西方遠征により、ホラズム・シャー朝支配下の中央アジアの諸都市は壊滅的な打撃を受けています。

ヘラートも その例外ではありません。

1221年、モンゴル軍はヘラートを攻略し、その城塞を破壊した。

多くの住民が殺害され、蒙古軍の目から逃れて生き残った住民も、破壊された都市に帰って城塞を建て直そうとしたために 翌年再び蒙古軍の侵攻を受け、ヘラートは二度にわたって徹底的な破壊を受け、ほとんど廃墟と化した と 言われています。

その後 クルト朝(フレグのイルハン国ひ反抗して建国のイスラム王朝)が興ります。

1380年には中央アジアの新たな支配者 ティムールがこの地を征服し、首都を失ったクルト朝はまもなく滅び、シャー・ルフが新たな支配者となった経緯はお話の通りです。

1409年、ヘラートを中心にホラサーンの支配を固めたシャー・ルフは首都サナルカンドを制圧して ティムール朝の後継者争いの最終的な勝者となったが、 彼はそのままヘラートに留まりつづけ ヘラートをティムール朝の首都としたのです。

彼の支配のもとで ヘラートは歴史上でもっとも繁栄した時代を迎え増した。 しかし、シャー・ルフ そして 次代の統治者・フサイン死後 1507年にヘラートはウズベク(ジュチ・ウルス)のシャイバーン朝によって征服されたのです。

シャイバーン朝の占領を皮切りに、1510年にはサファヴィー朝(現在のイランを中心に支配したイスラム王朝、1501年-1736年)のイスマーイール1世が占領するなど、シャイバーン朝とサファヴィー朝による争奪の的となって行きます。

この長年にわたった紛争の結果、ヘラートの繁栄は衰え、国境地帯の辺境都市に過ぎなくなっていったのです。

ティムール8-7

                           __________ 続く __________

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