西域人物伝・ティムール’系譜 (3)

西域人物伝=ティムール帝国の正嗣=

ティムール9-1

 政治よりも学芸、特に天文学で実績を残した 学者君主・遊牧の詩人

ウルグ・ベク 在年(1394年ー1449年)ティムール朝・第4代君主(在位: 1447年 – 1449年) 1405年 父親・シャー・ルフ(第3代君主)から ホラサーンとマーザンダラーンの総督に任ぜられた。

ティムールの明遠征にも従軍し、 父の即位(1409年)後はサマルカンドの総督に命じられた。

後見人シャー・マリクが監督の意味でサナルカンドに同行してる。

アムダリア以北のトランスオクシアス、シルダリア北部の西トルキスタンを領地とし、 ウルグ・ペグは ヘラート(父親シャー・ルフ)からの干渉をほとんど受けることなく、自由に統治を行ったのです。

ティムール9-2

イスラーム法(シャリーア)を遵守した父とは逆に、蒙古の伝統を重視した統治を布いた。 遊牧の生活に憧れていたのです。

成吉思汗家出身の女性と結婚していた縁戚関係から「キュレゲン(成吉思汗の婿)」を名乗って傀儡のハンを立て、領民に蒙古式の税(人頭税)を課していた。

当時 サマルカンドでは楽師と歌手を招いた酒宴が催され、自由な空気が流れており、一方でモスク、マドラサ(イスラーム教学院)、モザイクで彩られた公衆浴場などの公共施設を建設しており、善政を行っている。

ウラマー(イスラム教の実質的な聖職者)とも良好な関係にあった。

ある時、イスラームの宗教監視官(ムフタスィブ)にイスラーム法(シャリーア)に反する不道徳を改めるよう叱責されたがウルグ・ペグは意に介さず、また叱責したムスタスィブに害が与えられることなく、改めなかった と 伝記は伝えています。

1410年前後 ウルグ・ペグは 後見人であるシャー・マリクがホラズム地方に転出させ、後見人を罷免した、 ヘラートの君主シャー・ルフは ウルグ・ペグと国を2つに分けて共同統治を行う体制で ティムール領内を統治して行くのです。

以降 ウルグ・ペグは独自の個性の輝きを発して行きます。

外交においては、北方に興ったウズベク族、東方のモグーリスタン・ハン国に対して親征を行っている。

しかし ウズベグ討伐に失敗してアムダリア下流域とシンダリア中流域を失い、1427年に父シャー・ルフの援軍と共同でスィグナグ遠征を行うがバラク・ハンに敗れてしまう。

祖父・ティムールの智謀は引き継がなかったようですね。

以降は、軍事遠征に消極的な方針を採るようになり、 外交に重心を掛けて行きます。

ティムール9-3

明に対して外交の使節を送り、永楽13年(1415年)から 永楽帝と贈答品のやり取りを行った記録が残っています。

正統4年(1439年) 明に贈った名馬は正統帝を喜ばせ、正統帝は馬に縁起のいい名前を付けて画家に姿を描かせて、より良い返礼の品をウルグ・ベクに贈ってきました。

話は横道に逸れますが、 明の永楽帝が 朝貢の要求をしてきていた。

初代君主・ティムーツルは 屈辱的な親書に激怒して 1404年9月にクリルタイ(部族長会議・国会)を開いた。

西方諸王家を束ねたティムールにとって 明朝を葬り去る事が最後の課題で ティムール軍団20万余と共に 進軍し そして 他界してしまった。 1405年の事でした。

その頃 永楽帝は 巨大なプロジェクトを推進していた。

鄭 和(テイワ)が永楽帝の側近にいた。 鄭和は武将である。 永楽帝に宦官として仕えるも 軍功をあげて重用されていた。

南海への七度も大航海の指揮を委ねられた。 本姓は馬、初名は三保、宦官の最高位である太監だったことから、三保太監、三宝太監の通称で知られています。

鄭和の船団は東南アジア、印度からアラビヤ半島、アフリカにまで航海し、アフリカ東海岸のマリンディまで到達した。

大航海時代のマゼランなどとは桁が違う 大航海時代の70年ほど先んじての大航海ですから 驚きますね。

彼の指揮した船団の中で、最大の船は「宝船」と 呼ばれその全長は120メートルを超える大型船だったと言われています。 中国式ジャンク船の巨大なものです。

ティムール9-4

一説では この「宝船」で南太平洋の諸島を伝い、ハワイまで航海したとも言います。

さて このような永楽帝、また 彼の後継者 明王朝は中央アジアの情勢は把握していた事でしょう。

事実、鄭和の1421年2月の航海は 以前とは異なり、朝貢の各国の使節を送る 返礼の航海でした。

鄭和の航海は 更に、永楽帝の死後 彼の孫の宣徳帝の命令による航海です。

出発は1431年12月で、既に鄭和はかなり年を取っていたが、代わる人材は無く この時に別働隊はメッカに至ったと言います。

ティムール王朝と明王朝の関係は このような背景の下で行われていました。

1447年 父シャー・ルフが死去すると ウルグ・ペグは 跡を継ぎます。 しかし 国内にはシャー・ルフの後継者を称する王族は彼以外にもいたのです。

翌1448年 父シャー・ルフの傍にいた長子・アラー・ウッダウラ(ウルグ・ペグと、側室ルカイヤ・ハトゥン・アルラトとの子)が 母ガウハル・シャードを擁して 継承権を主張 反旗をひるがえした。

ウルグ・ペグは直ちに アラー・ウッダウラを破り、正嗣長子のアブドゥッラティーフ(后妃シャー・スルタン・アーガーの子)にヘラートを占領さています。 その後、

ヘラートから父シャー・ルフの遺体をサマルカンドに持ち帰り グーリ・アミール廟に埋葬しているのです。

そして、行政の中心をサマルカンソに移行する意思を表明したのです。  しかし、サマルカンドへの帰還を不服とした長子アブドゥッラティーフがバルフ(アフガニスタンの都市、交易路の要所)にて 反乱を起こした。

1449年の秋 アブドゥッラティーフ軍はサマルカンドに迫った。 次男のアヅヅゥル・アズィ-ズと共に戦うが敗れ、 退却しようとするのですが サマルカンドの城門は閉ざされ、やむなく降伏したのです。

メッカ巡礼を条件に助命を願うが、サマルカンドを発った後に追手に捕らえられ、近くの村落で斬首されてしまいました。

アブドゥッラティーフは 一度はウルグ・ペグを助命し、メッカ巡礼(ハッジ)の願い出に許可を出します。

父が出発した後に助命を撤回して死刑の判決を下し、ペルシャ人奴隷を遣わして父を殺害したてしまいます。

因果応報で ティムール朝・第5代君主に就いたアブドゥッラティーフは ウルグ・ペグの忠臣に殺害されます。

この経緯は 次回に・・・・   ウルグ・ペグの善政は人々に慕われ、ウズベキスタンが独立した後、生誕600周年を迎えた1994年はウルグ・ペグの年に指定され、以降毎年 国家行事が多く行われています。

しかし、息子の殺されるとは 憐れ、権力の魔性でしょうか。

ティムール9-5

ウズベキスタンに於いて、ウルグ・ペグは 軍事と政治よりも学芸、特に天文学で実績を残した人物として敬愛されているのです。

ソビエット連邦時代においても大学者としてウズベキスタン国民の尊敬を集めていたのです。

1417年 現在レギスタン広場がある場所にて ウルグ・ゲグ・マドラサの建設を開始し、1420年に2階建てのマドラサ(イスラーム学院)を完成させています。

マドラサ外壁は星をモチーフとしたタイルで飾られ、イスラム建築の美しさに静寂を覚えます。 講堂のほかに研究用の小部屋が50あり、小部屋は2人の学生に割り当てられたようです。

このマラドサ出身者で近代科学に大きく貢献した、円周率の計算で知られるジャムシード・ギャースッディーンアル・カーシー、鷹匠から取り立てられ後にオスマン帝国の天文台長となったアリー・クシュチ等 が居ります。

この両博学は ウルグ・ペグの共同研究者として天体の観測に従事しています。 また 講堂にて ウルグ・ペグ自身も学生たちにクルアーン(コーラン)の講義をしていた事が記録されています。

ウルグ・ペグは この地以外でも ブハラとギジュドゥボンに神学校を建設、1418年に建てられたブハラのマドラサは中央アジア最古のマドラサとして知られています。

1420年には サマルカンド郊外に六分儀が設置されたウルグ・ベク天文台を建設した。 1437年に完成させ、 『ウルグ・ペグ天文表』には、天文台で観測された1018の星の軌跡が記録されています。

独自の観測に基づき、ピトレマイオスの『アルマゲスト(数学と天文学の専門書、天動説で惑星の運動を説明)』の記述に修正を加え 新説を発表しています。

また ウルグ・ペグは太陽の観測記録から1年を365日6時間10分8秒と割り出した。 この数値は現在のコンピューターで計算された恒星年(365日6時間9分9.6秒)と比べて1分程度しか異ならない正確なものなのです。

この一連の天文学上の成果は 彼1人の功績とするのは語弊があり、アリー・クシュチ、カーディーザーデ・ルーミー、アル・カーシー 等 6-70人の天文学者との共同作業の賜物でしょうが、君主が自ら行う研究事業ではないですね。

しかし、この天文台はアブドゥッラティーフによって破壊されます。 現在はサマルカンドの郊外に遺構が残るだけなのです。

詩文にも造詣が深く、ペルシャ語とチャガタイ・トルコ語で作詩を行っています。

彼の血がバーブル(ムガル王朝開闢)をして『詩集』や『バーブル・ナーマ』創作させ、現代も読まれる白眉を生むのです。

ティムール8-7

ウルグ・ペグの逸話に 幼時からクルアーンをすべて暗誦でき、7通りの読誦法にも精通していた。

狩猟を好む彼は 猟の旅に日時や場所を細かく記録させて 保管していた。

ティムール朝の歴史家ダウラト・シャーは、「狩猟の記録がたまって厚くなった頃に 保管係が誤って帳簿を紛失してしまった。 が、 ウルグ・ペグは怒ることなく書記を呼ばせた。

彼は狩猟の記録をすべて口述して書き取らせ、新たな帳簿を作らせた。

後に元の帳簿が見つかり、新しい帳簿と照らし合わせてみたところ、違いは数点だけであった」  と 驚異的なウルグ・ペグの記憶力に驚いた手記を残しています。

また 彼は 下記のごとく 精力絶倫であったようですね・・・・・

后妃; アカ・ビキ  スルタン・バディ・アル・ムルク  アキ・スルタン・ハニカ  フサン・ニガル・ハニカ  シュクル・ビィ・ハニカ  ミヒル・スルタン・ハトゥン  ダウラト・バヒト・ハトゥン  バヒティ・ビィ・ハトゥン   ダト・バヒト・ハトゥン  ウルタン・マリク  サルタムム     ハタン・ハトゥン  ルカイヤ・ハトゥン・アルラト   他に后妃が2名

嗣子; アブドゥッラティーフ    アブドゥル・アズィーズ    アブドゥル・サマド    アブドゥル・ジャッバール        アブドゥッラーフ     アブド・アッラフマーン  アブドゥル・マリク  アブドゥル・ザーク

妃子; ハビベ・スルタン・ハンザダ・ベギム  スルタン・バヒト  アク・バシュ  クトゥルグ・タルカン・アーガー  スルタン・パディー・アル・ムルク  タガイ・タルカン  ハンザダ・アーガー  アカ・ベギム   タガイ・シャー       ラビア・スルタン・ベギム・・・・・…(アブール・ハイル・ハーン(ウズペグ・ハン国の初代君主に嫁ぐ)

_____ 続く ______

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