西域人物伝・ティムール’系譜 (5)

西域人物伝=ティムール帝国の正嗣=

ティムール11-1

内乱で遮蔽した国土の再建者・傍系の血筋 

 アブー・サイード 在年(1424年-1469年)ティムール朝・第7代君主(在位:1451年-1469年)
初代君主ティムールの三男ミーラン・シャーの3男、母はティムールが傀儡とした西チャガタイ・ハン国君主のソユルガトミシュ娘・オルン ティムールの側室 前記載)の孫にあたる皇女、氏名不詳。

スルタン・ムハマドの子としてヘラートで生まれる。

ウルグ・ペグ(ティムール朝・第4代君主)のもとで養育されるが、シャー・ルフ(ティムール朝・第3代君主)の死後の1448年、ウルグ・ペグに対して帝位簒奪を試みた。

しかし、これは失敗し ブハラで自立を図るもこれも 失敗、サマルカンドにて投獄された。

1449年の秋 ウルグ・ペグが長男アブドゥッラティーフに暗殺されると、サナルカンドの有力者によって救出されたアブー・サイードは、1450年に再度反乱を起こす。

1451年初春 アブー・サイードは シャイバーニー朝(成吉思汗の長男ジュチが第5子であるシバンの系譜)のアブール・ハイル・ハーン(ウズヘク・ハン国初代君主)と手を結んで反乱を起こしたのです。

アブール・ハイル・ハーンは アブー・サイードの救援要請に応じ、サマルカンド奪取を援助し 城塞を包囲した。

しかし、アブー・サイードは アブール・ハイル・ハーンを恐れて 援助軍団を場外に留め、 莫大な贈り物と、ウルグ・ペグの娘であるラビア・スルタン・ペギムを贈って引き揚げさせた。

勝機を見たアブー・サイードは サマルカンドを占領し アヅドゥッラー(ティムール朝・第6代君主)を処刑した。

トランスオクシアナを征服 ティムール帝国東部のサマルカンド政権の支配者となった。 ティムール朝・第7代君主の戴冠である。

ティムール11-2

第7代君主アブー・サイードは その後 アブー・クサイム・バーブルが統治するヘラート勢力と戦っている。

1459年 ヘラート勢力のアブー・クサイム・バーブルが死亡、その死後の混乱に乗じ 西部域の黒羊朝のジャハーン・シャーと同盟して アブー・クサイム・バーブルの息子のシャー・マフムードを追放した ヘラート勢力ティムールの曾孫イブラヒムを破り、同年(1459年)夏に ヘラートを征服した。

《 黒羊朝;イラク北部から東部アナトリアを経てアゼルバイジャン、イラン西部地帯を支配 》

1460年 ペルシャを東西でジャハーン・シャーと分割し、その後61年までに アフガニスタンの大部分も征服し、ウルグ・ペグ以来 サマルカンド政権とヘラート政権に分割されていたティムール帝国東部の再統合を成し遂げた。

しかし、1467年 黒羊朝のジャーハーン・シャーが白羊朝のウズン・ハサンに破れると、ジャーハーン・シャーの息子たちを援助し、アブー・サイードは 白羊朝のウズン・ハサンと敵対する。

《 白羊朝; チグリス川上流域を中心に東部アナトリアからイラン西部を支配する王朝 皇統ティムーツがウズン・ハサンの祖父カラ・ユルク・オスマンを 現在のトルコの都市ディヤルバクルの統治者に任命し、以降勢力を拡大して来た 》

1469年、ウズン・ハサンとの戦いに敗れ捉えられると シャー・ルフの曾孫で彼の政敵であったジャディガル・ムハンマドに引き渡され 処刑された。 45歳の若き指導者であった。

アブー・サイードの死をもって、ティムール帝国はサマルカンド政権ヘラート政権に分裂して行く。

駿馬・スルタン・フサイン・ミルザー の登場

1460年に ティムール朝・第7代君主アブー・サイードに イブラヒム(ティムールの曾孫)が破れ、征服され統治権を奪われていたヘラートに スルタン・フサイン・ミルザーが頭角を現して来た。

父は初代君主ティムールの次男ウマル・シャイフの子バイカラの子であるマンスール。 生母のフィルーザー・ベーグムはテームールの3男ミーラーン・シャーの系譜を引く娘である。

父母が共にティムールの血を引いていたことから かれの存在は大きかった 。

ティムール11-3

1450年から1451年にかけて王朝では継承争いから大混乱となるが、フサインは決して動こうとせず 静観している。

賢明な皇子である。

だが、アブー・サイード(ティムール朝・第7代君主)の混乱した治世を見て スルタン・フサイン・ミルザーは ホラズム(中央アジア西部、アムダリヤ川下流域、アラル海の南岸地域)で自立し、アブー・サイードと対立した。

1469年にアブー・サイードがヤディガル・ムハンマド(シャー・ルフの曾孫)によって殺害されると、その混乱に乗じてヘラートを奪い、ヘラート政権の初代君主となった。

ところが白羊朝のウズン・ハサンは フサインの即位を認めず、ヤディガル・ムハンマド勢力を援助して反攻してきた。

《 白羊朝;チグリス川上流域を中心に東部アナトリアからイラン西部を支配、先年 初代皇帝・ティムールが ウズン・ハサンの祖父カラ・ユルク・オスマンを現在のトルコの都市ディヤルバクルの統治者に任命した。 以降 勢力拡大 》

スルタン・フサイン・ミルザーは 一時的に勝利したが、ウズン・ハサンの反攻も激しく決定的な勝利は得られなかいまま長期戦の攻防になった。

1470年7月になるとヤディガル・ムハンマドの侵攻は激しくなり、一時的にヘラートを追われてしまう。

しかし 1ヶ月ほど後 ヘラートを奪い返し、ヤディガル・ムハンマドやアブー・サイード(ティムール朝・第7代君主)の遺児らを処刑した。

昨年、ウズン・ハサンとの戦いに敗れ、捉えられ、政敵に引き渡され 処刑されたアブー・サイードは優れた王であり ティムール王朝の内部で蠢く 権力闘争の犠牲者であることをスルタン・フサイン・ミルザーはよく理解していた。

スルタン・フサイン・ミルザーからは アブー・サイードは傍系の血筋であるも同族である。

アブー・サイードは 税制を改革し灌漑を行い農地を回復させ、内乱で疲弊した帝国のかつての繁栄と栄光を取り戻すために精力的に働いた。

残されたサマルカンド政権の領域はアブー・サイードの4人の息子に分割相続された。

長男アフマドはサマルカンドとブハラ、そしてティムール帝国の支配者の称号を相続した。  次男のマフムードはバタフシャン、ハトロン、テルメズ、クンドゥス、ヒサールを相続した。

三男のウルグ・ペグはカブールとカザニを確保し、四男のウルマ・シャイフ・ミールザーはフェルガナを相続した。

この四男ウルマ・シャイフ・ミールザーとチャガタイ王家出身のトルグ・ニガール・ハーニムの間に生まれた皇子が、後にムガール帝国を建国するバーブルなのです。

ティムール11-4

スルタン・フサイン・ミルザーは アブー・サイードの政策を推し進めた。 宗教指導層との関係を強化し、内政と文化事業の発展と育成に尽力した。

フサイン自身は武勇にも長けていたが、 歴代君主が軍事に失敗して王朝を混乱させたことで慎重になっていたのか、あまり積極的に軍を動かそうとは しなかった。

商業を発展させるために国内の治安を安定させて交易を奨励させた。

また 乳兄弟のミール・アリー・シール・ナヴァーイーを重用して国事尚書に任じて国政改革に当たらせている。

ミール・アリー・シール・ナヴァーイー(政治家、文人、詩人)、ウイグル系の人。 慎み深い人物で家は富裕だったが、家財を惜しみなく与えたと言う。

バーブル自身の回顧録『バーブル・マーナ』で「あれほど芸術家を保護し、励ました人物はかつていなかった」と記録しています。

フサインの時代にティムール王朝が再度の全盛期を迎えたのも、彼の政治手腕によるところが大きい、 一方で優れた文化人でもあり、ヘラート宮廷時代、彼の邸宅で開かれる文芸サロンでは東西の文人が参集していた と言われています。

スルタン・フサイン・ミルザーは また国民の生活改善のため、建設事業に莫大な費用を使って隊商宿を52、モスクを20、貯水池を19、橋を14、公衆浴場を9、宿坊を7も建設している。

さらに芸術を保護しビヒザードやアブドゥル・ラフマン・ジャーミーなどの画家・詩人の育成に努め、フサイン自身も教養に溢れた文化人でペルシャ語とトルコ語を使いこなし、筆名・フサイニーーにて詩集を書くほどだった と言います。

フサインの時代、ティムール朝は第2の全盛期ともいうべき時代が訪れました。 だが前述のとおり、フサウンは軍事に関心を示さず内治にばかり尽力した。

平和を求めたのでしょう。 が、  そのために有力なアミール(皇族・貴族)らに土地を分配するなど王権の弱体化を招く結果に成ります。

このフサインの内治重視と外征軽視は息子などの親族に不満を抱かせ反乱が起こったのです。

フサインは これらの反乱を全て鎮圧し、親族以外の支援者に対しては情け容赦なく処刑したと 言われ、君主の力量です。

しかし 北方のシャインバーン朝がカザフ・ハン国を併呑し 南下してきた。

ムハンマド・シャイバーニー・ハーンがティムール朝の衰退に乗じ シル川中流域に拠点を置き、ウズベク集団の再統合に成功した。

これに危機感を強めたフサインは シャインバーン朝(成吉思汗長男ジュチの血統、ロシア革命まで王朝は継承される)との戦いを決意。

一族の総力を結集するが、1506年5月に決戦直前の進軍中に病に倒れ、陣中で死去しました。

享年69、名君が消えました。

ティムール8-7

「スルタンの最初の妃は、ビガ・スルタン・ベーグムだった。メルヴのサンジャーン・ミールザーの娘で、バディー・ウッザマーン・ミールザー王子を産んだのもこの妃である。

ビガ・スルタン・ベーグムは怒りっぽい性質で、スルタン・フサインは散々悩まされていたが、結局うまくいかずに妃を遠ざけ、宮廷から遠ざけた。

恐らく、そうするより他に方法は無かったのだろう。

スルタンは当然の措置をとったのだ。 善人の家に邪悪な女がいるというのは、この世の地獄である。  神よ。 この破局のせいで、いかなるイスラーム教徒も苦しんだりしませんように。

神よ、この世に怒りっぽい女がこれ以上存在しませんように。   スルタン・アブー・サイード・ミールザーがイラクで敗北したあと、この女性はヘラートに移って来て、そこでスルタン・フサインに見初められ、結婚した。

側室から妃(ベーグム)に地位が上がると、権勢を振るうようになった。 この妃の企みによって、ムハンマド・ムミン・ミルザーは殺された。

スルタン・フサイン・ミールザーの王子たちが反乱を起こしたのも、この妃の行ないから発した部分が大きい。

妃は自分では利口だと思っているが、頭の空っぽなおしゃべり女でしかない」と バーブルはフサインが妻との関係で悩んでいたと記録しています。

バーブルはフサインを尊敬し、フサインの政治手腕を高く評価しているのです。

回顧録『バーブル・マーナ』では 「ヘラートはスルタン・フサインの治世中に 世界に類を見ない都となった」とも、 記述しています。

ティムール11-6

ティムール11-7

                    _________ 続く _________

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