西域人物伝・ティムール’系譜 (6)

西域人物伝=ティムール帝国の正嗣=

ティムール12-1

北方のシャインバーン朝がカザフ・ハン国を併呑し 南下してきた。

 ムハンマド・シャイバーニー・ハーンがティムール朝の衰退に乗じ シル川中流域に拠点を置き、ウズベク集団の再統合に成功し 虎視眈々とサマルカンドの動きを 覗っていた。

1506年 草原の緑は芽を吹いていた。

ムハンマド・シャイバーニー・ハーンの存在に 危機感を強めたフサインは シャインバーン朝(成吉思汗長男ジュチの血統、ロシア革命まで王朝は継承される)との戦いを決意。

一族の総力を結集して 出陣する。 が、1506年5月に決戦直前の進軍中に病に倒れ、陣中で他界してしまった。

ヘラート政権には人材がいなかった。 スルタン・フサインの善政(1469-1506年)は長子・ムザュファル・フサインに引き継がれたが・・・・・・

ムザュファル・フサイン(生年不詳-1507年、在位:1506-1507年)は、ティムール朝ヘラート政権・第2代(最後の君主)。 弟にバティー・ウッザマーンがいた。

しかし 父と違って力量に欠けており、敵に敢然と立ち向かえるような人物ではなかった。

このため 1407年、ムハンマド・シャイバーニー・ハーンがヘr-トに侵攻してくるとムザュファルとバティー兄弟はヘラートを捨てて逃亡した。

ムザュファル・フサインは 逃亡の途中 死亡した。

バティー・ウッザマーンはオスマン帝国を頼り、1517年にイスタンブールで客死した と言う。

ここに ティムール朝ヘラート政権は滅亡した。  他方 ティムール朝サマルカンド政権は スルタン・アフマド(年不詳-1494年、在位:1470-1494年)が、ティムール朝サマルカンド政権の初代君主として継承していた。

ティムール朝・第7代君主であった父・アブー・サイードが 1469年にアディガル・ムハンマド(ティムール朝・第3代君主シャー・ルフの曾孫)によって殺害された後 継承していた。

スルタン・アフマドは 後にムガル帝国を築いたバーブルは甥にあたります。

1469年に父が処刑されると後を継いだが、すでに アフマドの勢力圏はサマルカンドとその周辺だけとなっており、

ヘラートをはじめとするティムール王朝の統治地域は スルタン・フサイン・ミルザー(ヘラート政権初代君主)が占めていたため、 ティムール朝はサマルカンド政権とヘラート政権に分裂していた。

ティムール12-2

スルタン・アフマド自身は酒飲みであまり優れた人物ではなかったと言いますが、下手な野心も無かったために特に目立った軍事行動は起こさず、 ヘラート政権の求めに応じて友好関係を保つ 消極策を実行した。

このため 1494年にスルタン・アフマドが死去するまでは サマルカンド政権は平穏だったが、彼が死去するとたちまち後継者をめぐって内紛が起こった。

1494年 スルタン・アフマドの長子・スルタン・マフムード(在位;1494-1495年)が政権の座に就きますが、翌年に死亡し、第二子・バインスングル・ミルザ(在位;1495-1496年)が18歳で 政権の座に就きます。

ところが バインスングルの重臣たちが進める人事政策がヒサール地方を重視し、サマルカンド出身者に冷や飯を食わせると反目した。

ダルヴィシュ・ムハンマド・タルハンという有力者が中心になって バインスングル・ミルザの弟・スルタン・アリー・ミルザを君主に迎い入れ 反乱を起こした。

ちなみに 1494年6月 バーブルは 父オマル・シャイフ(フェルガナ地方の領主、享年39歳)の他界で家督を譲り受けています。 11歳でした。

バーブルの生地・アンディジャンは 当時中央アジア全域を通じ サマルカンド、ケシュにつぐ三番目の都市です。

メロン・葡萄・梨が有名, 彼の回顧録『バーブル・マーナ』に度々 故郷の事が記述されています。 また、メロンを見ると涙したとも言います。

サマルカンド政権は ひとたび スルタン・アリー・ミルザが手に入れますが 再び バインスングル・ミルザ(復位;1497年)が政権の座に登った。

サマルカンドの住民は 兄弟同士の政権争いで 家を失い 食糧は略奪され 大変不安定な状態に陥った。

この混乱に乗じて バーブルが兵を進めた。

1496年6月 バーブルは13歳だった。  バーブルは スルタン・アリー・ミルザと同盟を結び、サマルカンドの城塞を攻略する。

バーブル・スルタン・アリー・ミルザ陣営は バインスングル・ミルザを打ち破った。 が、バインスングル・ミルザは逃亡していた。

バーブルの政権は一年と持たず、同盟者・スルタン・アリー・ミルザの策謀にあい バーブルは身一つで生地・アンディジャンに逃走した。

故郷の住民たちがバーブルを助けたと言います。  バープルのサマルカンド支配は失敗に終わったが、バープル自身の意志行動でなかったにしろ サマルカンドへのこだわりが 苦難の逃亡で 若いバープルに目覚めたでしょう。

1497年にも 再び サマルカンドをバープル軍勢が包囲している。 が、バープル軍勢単独での攻略は苦戦をしいられた。

しかも、故郷アンディジャンで反乱が起こった。

バープルは 先年のサマルカンド占領で合法的政権継承者として認められていた。

しかし、サマルカンド一帯は長年の内紛のために荒廃し、人々は飢え 家臣たちに論功行賞をするすべもなく スルタン・アリー・ミルザの策謀に容易く乗せられてしい、苦杯を飲まされた恨みがあった。

だが、今回は 帰るべきアンディジャンで反乱での反乱です。

パープルは故郷奪回に軍を取って返したが、奪回にも失敗した。

以降、約二年間 領地の無い不安定な状況で放浪します。 しかし、1499年7月 アンディジャンで逆反乱を起こした住民や家臣に迎えられ領主に 返り咲きます。

が、今度は 実弟・ジャンハンギルとの権力闘争が始まる。 バーブルは領地の大半をジャンハンギルに与えて 収拾します。 以降 二人は離反して行く。

・・・・・・・バープルのその後は 後日 ムガル帝国の章にて 話しましょう・・・

ティムール11-6

その頃  北方のシャインバーン朝がカザフ・ハン国を併呑し 南下していた。

ムハンマド・シャイバーニー・ハーンが シル川中流域に拠点を置き、ウズベク集団の再統合 ティムール領内のブハラを奪い取り サマルカンドに脅威を加え始めていた。

サマルカンドを追われたバインスングル・ミルザはムハンマド・シャイバーニー・ハーンに援助を依頼した。 サマルカンド城都内には弟のスルタン・アリー・ミルザが君主として執権していた。

シャイバーニー・ハーンは大軍を率いてバインスングル・ミルザの支援に現れ サナルカンドを遠巻に包囲した。

その大軍に 突然気が変わったバインスングル・ミルザは城内のスルタン・アリー・ミルザと和睦し、兄弟でシャイバーニー・ハーンと戦い 7ヵ月間 包囲を持ちこたえた。

1500年 ムハンマド・シャイバーニー・ハーンはサマルカンドに入城している。 この開城についての逸話に・・・ ミルザ兄弟の母親ズブラ・ベギムは美人の評判が高かった。

夫を亡くし六年目であった。 シャイバーニー・ハーンに親書を送り、自ら身をゆだねると提案した。

ムハンマド・シャイバーニー・ハーンは無能なスルタン・アリー・ミルザを滅ぼした。 バインスングル・ミルザは再び逃亡した。 母親は完全に無視された。

しかし シャイバーニー・ハーンは影響力を持つサマルカンド政権の重臣たちの陰謀でトクケスタンに退却してしまった。

重臣たちはバーブルを迎え入れた。 バーブルには正当な継承権があり、二度目の政権執行であった。 しかし、1501年4月 ムハンマド・シャイバーニー・ハーンが再び包囲した。

バープルは善戦するが 四か月後 兵糧尽が尽き、飢えのために手勢わずかで 夜陰に紛れて タシケントの叔父の下に逃れている。

・・・・その母・新妻を伴う悲惨な逃避行は後日に話します・・・・

逃亡したバインスングル・ミルザは 亡命先のホロスー・シャーの手で「首に弓の弦をかけ」 殺されている。            《 ホロスー・シャーは後日、バープルの大恩人に成る人物です 》

1500年のムハンマド・シャイバーニー・ハーンはサマルカンドに入城にてサマルカンド政権は滅亡した。 ティムール帝国は崩壊したのです。

『バーブル・マーナ』にバープルは「幸薄き女(ズブラ・ベギム)は聡明さに欠ける所があったため、結婚するという希望のたねに 自らの息子の家・財産を霧散霧消させたのである。

しかし、シャイバーニー・ハーンは妾・側女程にも眼を掛けなかった」と記しています。

ティムール12-4

【 添付資料 】    ムハンマド・シャイバーニー・ハーン (在年;1451-1510年) ウズペグ・ハン国シャイバーニー朝の初代ハーン・アブール・ハイル・ハーンの孫 1451年、シャー・ブダグの長子として生まれる。

1451年 アブール・ハイル・ハーンは アブー・サイード(ティムール朝・第7代君主)の救援要請に応じ、アブー・サイードのサマルカンド奪取を援助し 城塞を包囲した。

しかし、アブー・サイードは アブール・ハイル・ハーンを恐れて 援助軍団を場外に留め、 莫大な贈り物と、ウルグ・ペグ(ティムール朝・4代君主)の娘であるラビア・スルタン・ペギムを贈って引き揚げています。

ムハンマド・シャイバーニー・ハーンは ティムール家とは血族関係であり、ティムール朝サマルカンド政権とは縁が深い。

1468年に 祖父アブール・ハイル・ハーンが没すると、ウズペグのウルス(領地)は分裂状態に陥り、その多くはケレイ・ハインとジャニベグ・ハーンの支配するカザフ・ハン国に流れた。

アブール・ハイル・ハーンの孫であるムハンマド・シャイバーニーは各地を転々とし、亡命生活を送っている。

1496年/1497年、ムハンマド・シャイバーニーはティムール朝の内部抗争に乗じてシル川中流域(ティムール朝領)に拠点を置き、ウズペグ集団の再統合に成功した。

1500年、ムハンマド・シャイバーニー・ハーンはサマルカンドを占領し、マーワラーアンナフル(前記載地図参照)の支配権を得た。

一時はティムール家のバーブルにサマルカンドを奪われるが3カ月余りで奪還した(前記載 下記の地名は前記載地図参照 下さい)。

1503年、アム川上流域のクンドゥズからフェルガナ盆地,タシュケントを占領。

1505年にはホラズム地方を、1507年にはヘラートを占領してティムール朝を滅ぼし、ホラサーンに進出した。

しかし、その後のカザフ遠征(1508年-1509年)や、ハザラ族遠征に失敗し、諸王族に対する分封政策が失敗したため、彼らからの支持を得られなくなった。

折しもサーファヴィー朝のシャー・イスマーイール(在位:1501年-1524年)の侵攻に遭い、ムハンマド・シャイバーニー・ハーンは メルヴ郊外で敗死した(1510年)。

ムハンマド・シャイバーニー・ハーンの頭蓋骨はシャー・イスマーイールによって金箔を貼られ、盃にされた(髑髏杯  この趣向は織田信もやったかな・・・・・)。

ティムール12-5

この項をもって、“ティムール朝の系譜”は筆を折ります。 引き続き “ムガル朝の系譜 ”を書き綴ります。 拙文にて 読みずらいでしょうが よろしく お付き合い下さい。

______ 続く ______

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