ティムールの系譜“ムガル帝国”(1)

“アルタン・ウルク/黄金の家”の正嗣が栄光

ムガル帝国1-1

ムガル帝国;1526年から印度南部を除く インド亜大陸を支配し、1858年まで存続したイスラム帝国。

中央アジア出身で、ティムール朝の王族ウマル・シャイフ・ミールザーを父、ジンギス・ハーンの次男チャガタイを祖とするモグースタン・ハン家の王女クトルグ・ニガール・ハーニムを母とする チュルク・モンゴル系の遊牧貴族バーブルを始祖とし、彼が現在のアフガニスタンからインドに移って建国した王朝です。

ジンギス・ハーンの“黄金の血統”・【アルタン・ウルク】が 脈々と継承されてきた。

王朝名の「ムガル」とは、モンゴル人を意味するペルシア語の「ムグール(モゴール)」の短縮した読みであるムグル、ムガルが転訛したもので、 このことからムガル朝とも言うのです。

「ムガル帝国」とは「モンゴル人の帝国」という意味の国名になりますが、これは飽くまでも他称です。

ムガル帝国では 最後の君主・バハードゥル・シャー2世の治世まで一貫してティムール(初代ティムール朝君主)を始祖と仰いでおり、
ティムールの称号「アミール・ティムール・グーラーカーン」(成吉思汗家より子女の降嫁を受けたその娘婿(グレゲン)であるアミール・ティムールの一門」という意味で、呼んでいた。

ちなみに ムガル帝国の成立まで、ジンギス・ハーン以来 蒙古人によって インダス川流域やカシミール地方から度々侵入を受けたが、インドの諸政権は 領土的な支配を許していなかった。

ムガル帝国1-2

1494年6月 バーブルは 父オマル・シャイフ・ミルザー(フェルガナ地方の領主、享年39歳)の他界で家督を譲り受けています。 11歳でした。

バーブルの生地・アンディジャンは 当時中央アジア全域を通じ サマルカンド、ケシュにつぐ三番目の都市です。

当時 ティムール帝国はサマルカンド政権ヘラート政権に分裂していた。 ヘラート政権は名君主スルタン・フサイン(在位;1469-1506年)善政を行い、サマルカンド政権はスルタン・アフマド(在位;1469-1494年)が執権していた。

14994年 ティムール朝・サマルカンド政権初代君主・スルタン・アフマドが死去するまでは サマルカンド政権は平穏だったが、彼が死去するとたちまち後継者をめぐって内紛が起こった。

1494年 スルタン・アフマドの長子・スルタン・マフムード(在位;1494-1495年)が政権の座に就きますが、翌年に死亡し、第二子・バインスングル・ミルザ(在位;1495-1496年)が18歳で 政権の座に就きます。

ところが バインスングルの重臣たちが進める人事政策がヒサール地方を重視し、サマルカンド出身者に冷や飯を食わせると反目した。
ダルヴィシュ・ムハンマド・タルハンという有力者が中心になって バインスングル・ミルザの弟・スルタン・アリー・ミルザを君主に迎い入れ 反乱を起こした。

サマルカンド政権は ひとたび スルタン・アリー・ミルザが手に入れますが 再び バインスングル・ミルザ(復位;1497年)が政権の座に登った。

バインスングル・ミルザとスルタン・アリー・ミルザの 兄弟同士の政権争いで  サマルカンドの住民は 家を失い 食糧は略奪され 大変不安定な状態に陥った。

この混乱に乗じて バーブルが兵を進めたのです。 1496年6月の事 バーブルは13歳だった。

バーブルは スルタン・アリー・ミルザと同盟を結び、サマルカンドの城塞を攻略する。 バーブル・スルタン・アリー・ミルザ陣営は バインスングル・ミルザを打ち破った。 が、バインスングル・ミルザは逃亡していた。

バーブルの政権は一年と持たず、同盟者・スルタン・アリー・ミルザの策謀に会い バーブルは身一つで生地・アンディジャンに逃走した。 故郷の住民たちがバーブルを助けたと言います。

バープルのサマルカンド支配は失敗に終わったが、バープル自身の意志行動でなかったにしろ サマルカンドへのこだわりが 苦難の逃亡で 若いバープルに目覚めさせたのでしょう。

1497年にも 再び サマルカンドをバープル軍勢が包囲している。 が、バープル軍勢単独での攻略は苦戦をしいられた。 しかも、故郷アンディジャンで反乱が起こった。

バープルは 先年のサマルカンド占領で合法的政権継承者として認められていた。 が、サマルカンド一帯は長年の内紛のために荒廃し、人々は飢え 家臣たちに論功行賞をするすべもなく スルタン・アリー・ミルザの策謀に容易く乗せられて、苦杯を飲まされた恨みがあった。

だが、今回は 帰るべきアンディジャンで反乱での反乱です。 パープルは故郷奪回に軍を取って返したが、奪回にも失敗した。

以降、約二年間 領地の無い不安定な状況で放浪します。 しかし、1499年7月 アンディジャンで逆反乱を起こした住民や家臣に迎えられ 領主に 返り咲きます。

が、今度は 実弟・ジャンハンギルとの権力闘争が始まる。 バーブルは領地の大半をジャンハンギルに与えて 闘争を収拾します。 以降 二人は離反して行く。

しかし 1504年、ジョチ家の後裔ムハンマド・シャイバーニー・ハーン率いるウズペグ族のシャイバーニー朝の侵入によってスルタン・フサイン家のヘラート政権が瓦解すると、 バーブルもまたその地を追われるのです。

ムガル帝国1-3

サマルカンドを追われたバインスングル・ミルザはムハンマド・シャイバーニー・ハーンに援助を依頼した。 シャイバーニー・ハーンは大軍を率いてバインスングル・ミルザの支援に現れ サナルカンドを遠巻に包囲した。

その大軍に 突然気が変わったバインスングル・ミルザは城内のスルタン・アリー・ミルザと和睦し、兄弟でシャイバーニー・ハーンと戦い 7ヵ月間 包囲を持ちこたえた。

1500年 ムハンマド・シャイバーニー・ハーンはサマルカンドに入城している。 ムハンマド・シャイバーニー・ハーンは無能なスルタン・アリー・ミルザを滅ぼした。 バインスングル・ミルザは再び逃亡した。

しかし シャイバーニー・ハーンは影響力を持つサマルカンド政権の重臣たちの陰謀でトクケスタンに退却させられてしまった。

重臣たちは 正当な継承者・バーブルを 君主として迎え入れた。 バーブルには正当な継承権があり、二度目の政権執行であった。 しかし、1501年4月 ムハンマド・シャイバーニー・ハーンが再び包囲した。

バーブルは野戦で対抗する。 サマルカンド郊外、サリ・ブリの荒野でバープルは戦った。 善戦するが、兵力数の差はウズペク軍が勝り シャイバーニー・ハーンの作戦に押され サマルカンド城内で籠城する。

四か月後 バーブルは 兵糧尽が尽き、飢えのために手勢わずかで 夜陰に紛れて タシケントの叔父の下に逃れて行った。

ムハンマド・シャイバーニーは シバン(成吉思汗の長子ジュチの子)七代目の孫アブー・ル・ハイル・ハンの孫。 父・シャー・ブダグはアブー・ル・ハイル・ハンの長子であるが若くして他界した。

祖父アブー・ル・ハイル・ハンが死亡すると 国家は崩壊し、彼は各地を転々とし、亡命生活を送り 別のシバン家子孫にも仕えていた。 16歳の折 マンギート部族の捕虜になり、脱走してウズベク・ウルスに逃げ込み 勢力を伸ばしていった。

17歳の時 ウズペクのハンに推戴されている。 ムハンマド・シャイバーニー・ハンは遊牧の伝統を重んじるイスラム教徒であり、ハン位は聖職者の首長でもあった。 彼は飛躍の翼を手にした。

ムハンマド・シャイバーニー・ハンの軍団は 遊牧の伝統を継ぐ精鋭軍団であった。 また、彼は強い意志と精力の持ち主であった。 成吉思汗の血を引く狼のような君主であった。

1500年3月 バープルはスルタン・マフム-ド・ミルダ(第二代サマルカンド政権君主、早逝した)の娘アイシャ・ペギムと結婚した。 バープル17歳の時です。 宿敵・ムハンマド・シャイバーニー・ハンが二度目(1501年4月)のサマルカンド占拠の前のことです。

バーブルは正直に彼の回顧録『バーブル・マーナ』に書いています・・・・「彼女を嫌っていたわけではないが、初めての結婚で、遠慮の気持ちや気恥ずかしさもあって 十日、十五日あるいは二十日に一度しか彼女のもとへ赴かなかった。 後にはその愛情そのものも消え失せたが、気恥ずかしさだけはなお増大した。・・・・・」

面白いですよ、その次頁に・・・・・「不思議なほど 強く魅せられた。 恋慕の情の激しさ故に、また 若さと狂気に支配されて、私はターバンも付けず素足で大路小路や大小の庭園をさまよい歩いた。・・・・・」 と バーブルは故郷・アンディジャンで出会った 美少年の“バブリー”に恋したことを綴っている。

そのバーブルが 愛妻と母を伴った逃亡生活に入るのです。

ムガル帝国1-4

バープルの性格の一端を 今少し お話しましょう。

「バーブル」の名は、勇敢であった『獅子や虎、豹などのネコ科の猛獣の総称』を意味(ペルシャ語)です。 バーブルはその名の通り、勇猛果敢で豪胆な人物であったといえます。

時代を呼んでいた父親の慧眼でしょうか。 上記写真にあるムガル帝国の国旗にシンボライズされています。
また 彼はチャガタイ語やペルシャ語の詩文に秀で、『詩集』や自伝である『バーブル・ナーマ』と通称されるチャガタイ語文学の最高傑作を残しているのです。

更には 従兄弟にあたる歴史家ミールザー・ハイダルなどの文人や学芸の保護にも積極的で、インドにおけるペルシャ語文芸を本格的に根付かせた功績が大きい と言えるでしょう。

食卓にマスクメロンが出ると、生まれ故郷アンディジャイ 中央アジア恋しさのため涙を流したという皇帝バーブル。

最愛の長子・フマーユーンが重病に倒れた折、宮廷の占い師は バーブルに『一番大切なものを諦めれば、皇子の命は助かる』と進言し、バーブルが寝床の周りを3度歩き回って フマーユーンの回復を祈ると、今度はバーブルが病気になり、そのまま死亡したと伝えられる皇帝バーブル。

戦いに敗れ、「私に望みをつなぎ、故郷を離れて進んでいた大小の者たちは200人以上300人以下であったろう。 ほとんどの者は徒歩で、手に杖を持ち、粗末な一枚皮の浅靴を穿き、身にはぼろぼろのコートをまとっていた。・・・・・

・・・・私たちの間には、二つのテントしか無いという 情けない状態であった。 私のテントは私の母のために張られていた。 他の一張は病人用であった。 私のためには、各野営地で、簡易テントが整えられ、妻と私はその中でやすんだ。・・・・・」と 記述する18歳の若き君主バーブル。

私は過日 バーブルが逃避行に使ったであろうルート フェルガナル地方からカブール方面(アフガニスタン)に抜けるヒンヅゥスタン山麓北側 に踏み込んだことがあります。 カブールに至るには海抜4000mの以上の峠を幾つも越え、断崖にある間道を通らなければ成りませんでした(国境通過な無論無理ゆえ、引き返している)。

奇跡的な逃避行を成し遂げた指導者バーブル、18歳青年の意志力。 皇帝と成るべく運命の星を持ったバーブル。 負け戦の連続であったバーブル。

・・・・・・・・話を続けましょう。

indo

                             ______  続く _____

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