ティムールの系譜“ムガル帝国”(2) 

“アルタン・ウルク/黄金の家”の正嗣が栄光

ムガル帝国2-1

1501年4月 サマルカンド郊外、サリ・ブリの荒野で バープルはシャイバーニー・ハーンと戦った。 善戦するが、兵力数の差はウズペク軍が勝り シャイバーニー・ハーンの作戦に押され サマルカンド城内で籠城する。

4ケ月後 バーブルは 兵糧尽が尽き、飢えのために手勢わずかで 夜陰に紛れて タシケントの叔父(モゴール・ハン、マスフィード領主)の下に逃れて行った。

1503年8月 シャイバーニー・ハーンの追求は厳しく フェルガナ盆地はもとより、トランスオクシアナ一帯には バーブルの身を置く場は無かった。 他方 シャイバーニー・ハーンはホラズム、バルブ、フェルガナと転戦し支配領域を拡大して行った。

戦いに敗れ、「私に望みをつなぎ、故郷を離れて進んでいた大小の者たちは200人以上300人以下であったろう。 ほとんどの者は徒歩で、手に杖を持ち、粗末な一枚皮の浅靴を穿き、身にはぼろぼろのコートをまとっていた。・・・・・

・・・・私たちの間には、二つのテントしか無いという 情けない状態であった。 私のテントは私の母のために張られていた。 他の一張は病人用であった。 私のためには、各野営地で、簡易テントが整えられ、妻と私はその中でやすんだ。・・・・・」と バーブルは回顧している。

1503年晩秋 バーブル一行は 命からがら イスファイラ峠を越えて、キジルスー河に抜け(上記の回顧録道程)イラク河に現れている。

その地より ウラワジュでアムダリヤ河を渡り、ホスロー・シャーの弟でアンフドの領主であるバキル・ベクの助力で バーブル一行は休息地を得た。 1504年の初頭の頃であった。

1504年春 ヒサール、クンドゥズ、インシュカミシュのサマルカンド政権領地はシャイバーニー・ハーンが進撃し支配して行った。 クンドゥズの領主・ホスロー・シャーは逃れ バーブルと合流することになった。

アフガニスタンのドシで二人は会い 兵を整える間に、シャイバーニー・ハーンが大軍と率いて現れ バーブルたちはコーメルド地方のアジャル城に立て籠った。

ホラサンにおける ヘラト政権・スルタン・フサイン・ミルザーがバープルに協力を依頼してきた。 その親書を見たバープルは「偉大な君主が、敵に向かって進撃することを云わず、土地を固めることを云うのであれば、人々の間にいかなる希望が残るであろうか」 と スルタン・フサイン・ミルザーを鼓賦する返書を出している。

この返書にスルタン・フサイン・ミルザーは 一族の総力を結集するが、1506年5月に決戦直前の進軍中に病に倒れ、陣中で死去してしまうのですが・・・・・・

ムガル帝国2-2

バーブルの兵力は ホスロー・シャーと合流したとは言え、シャイバーニー・ハーンと戦うにはあまりにも貧弱であった。 そこでバーブルはヒンドゥクシュを越えて、カブール盆地に進撃した。

1505年9月 カブールの土着勢力ムキーム・アルグンを打ち破り カブールに入城し ティムール朝のカブール分封領地と考えて 統治した。

それから 一年あまり後 バーブルがカブールの領主に成る上で力となったホスロー・シャーとアンフドは自滅してしまい 彼等の敗走将兵がバーブルを慕い集まって来た。

他方、スルタン・フサイン・ミルザー亡き後 1507年5月に 首都・ヘラトはシャイバーニー・ハーンの手に落ち、ティムール帝国の各都市は彼に征服されて行った。 シャイバーニー・ハーンはスルタン・フサイン・ミルザーの子・ムザッファル・フセインの妃、絶世の美女を何番目かの妻にし 他の皇族は殺害している。

拠点を得たとは言え、パーブルの手勢はでは 飛ぶ鳥を落とす昇竜のシャイバーニー・ハーンには対抗できない。 このひと時の安住にバーブルは 紅バラの香りがするチューリップを愛でる詩を多く読んでいる。 また、四方に情報網を作り上げてたのです。

カブールは天然の要塞であった。 「カブール地方は堅固な地方である。 外敵がこの地方に侵入する事は困難である。 バルフ、クンドゥス、バタフシャーンとカブールの間には ヒンゴゥー・クシュ山脈がある。 この山脈を七つの交通路が越えている」 と バーブルは記し、

「気候は誠に快適である。 カブールのような気候は世界中で他には知られていない。 夏でもコートなしでは眠られない。 冬は雪が大量に降るが、極端な寒さは無い。 サマルカンドとタブリーズも快適な気候で名高いが、そこには厳寒がある」と 述べています。

ムガル帝国2-3

中央アジアはシャイバーニー・ハーン の全盛期を迎えていた。 バープルはティムール朝の名門皇子 アフガニスタンの諸勢力が娘を献上している。 側室・ミングジャク・ハトウンが長男フマーユーンを 1508年に生んでいます。

それまで他のティムール家の王子たちと同様に「バーブル・ミルザー」と呼ばれていたが、長男の誕生した同じ年に、自ら「バーブル・バーディシャー」を名乗っています。 26歳で君主を自覚したのでしょう。 バープルは酒好きで有名でした。

しかし 自伝では「23歳の祝福を 皆がこれほで祝ってくれる。 それにあらゆる快楽の手立てが完備し、全ての奢侈と亨楽の諸物・諸手段が整えられているヘラートのような洗練された都に私は来ているのだ。

今 飲まなかったら、私はいつのむことになるだろう。 こう考えて、 飲むことを決意した」 と 飲み始めの経緯を披露しているのですから、誠に清廉潔白な皇子時代です。

しかし、君主として 「世界は分裂しきっており、誰もが手を伸ばして諸地方・諸民族から何物かを取り立ていたために、私達もカブールを守る一方でその周辺にいたアイマク諸部族やトルコ人たちに課税して物を取り立て始めた。 この1-2カ月間に300万ケペキー(銀貨、前項参照)を収得したと思われる」と 告白している。

民衆は戦乱と略奪のために苦しんでいた。 民衆にとって支配者は誰でもよいのです。 バーブルは カブールの統治に全力を傾け、善政を実行して行った。

1510年 シャイバーニー・ハーン がイランで勢力を急速に拡大しているサファーヴィー朝シャー、イスマイル一世と  ネルヴィ近郊で交戦し戦死した。 中央アジアの 勢力情勢は一変した。
サファーヴィー朝;;;

弱冠24歳のシーア派神秘主義教団、イスマイル一世は ムルガル河の岸辺で、逃げると見せてスンニ派教徒 シャイバーニー・ハーンをメルヴ城外へ誘い出し、待ち伏せた大軍をもってシャイバーニー・ハーン軍を包囲殲滅した。 宗派の戦いでもあった。 ムハンマド・シャイバーニー・ハーンの頭蓋骨はシャー・イスマーイールによって金箔を貼られ、盃にされた。

この戦いの帰趨が、生き残り カブールで善政に傾注しているバーブルに 次なる苦闘と成功をもたらして行く。

1511年11月 バーブルは サファーヴィー朝の支援を得て、3度目の故地・サマルカンド征服を敢行する。 バープルにとって最後の奪回チャンスであった。

しかし、バープル軍は逆に徹底的に叩かれてしまった。 シャー・イスマーイールが進軍して来た。 シャイバニ朝の後継者・ウバイドゥッラーは バーブルとイスマーイール両軍の攻勢で 北方のステップ草原に去って行った。

バーブル・バーディシャーとシャー・イスマーイール1世は サマルカンドを占領し ブハラの統治権も 勝ち取った。 が、

中央アジアの住民の大部分はスンニ派教徒であった。 イスマイル一世はシーア派神秘主義 バープルはスンニ派教徒の敬愛の対象である。

バーブルのシーア派傾倒を嫌ったスンナ派のサマルカンド住民は 早くも離反した。 シャー・イスマーイール1世は、サマルカンドとブハラをバーブルに明け渡して 西方の草原・カスピ海方面に進軍して行った。

北方に去ったウズペグ軍のウバイドゥッラーは 体制を立て直し 再び南下を開始した。 1512年春 ウバイドゥッラー・ハーンは 5000の精鋭部隊を率いて ブハラ奪遷に進軍して来た。

同年4月28日 バーブルは 兵力装備とも優勢な軍団をクリ・マリク湖畔に展開し ウズペグ軍を迎え打った。

だが、 バーブル軍は合戦一日で 無残にも大敗した。 三度 バーブル・バーディシャーはサファーヴィー朝に敗れた。 バープルはカブールへ敗走した。 ウバイドゥッラー・ハーンはサマルカンドに入城、占拠した。

シャー・イスマーイールは援軍を送らなかった。  彼はオスマン帝国との戦いに全力を傾注していた。 二年後の1514年、チャルディラーンの戦いで イスマーイールはオスマン帝国に敗れる。

敗戦後、シャー・イスマーイール一世は政治に全く興味を失い、隠遁生活に入ってしまい バーブル・バーディシャーとも疎遠になる。

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《 チャルディラーンの戦い ; 1514年8月23日に、アナトリア高原東部のチャルディラーンで行われたオスマン帝国と新興のサファヴィー朝ペルシャとの戦い。 鉄砲と大砲が騎馬軍団を撃破した軍事史上大きな意義を持つ戦いです。

一騎当千の騎馬民族優勢の時代が 終焉したターニング・ポイントの戦いでした。 騎馬隊と鉄砲隊の戦いということから、後の日本の織田信長“長篠の戦い”と言えます。

また この戦いの結果、両帝国間の勢力範囲を画定させ、クルド人の帰属をサファヴィー朝からオスマン帝国へと切り替えられ、クルド人問題が現代まで その尾を引いているのです 》

バーブルはサマルカンドを放棄した。 この地を永久に失った。 同年の秋 ブハーラー近郊でバーブルととサファヴィー朝との連合軍がウズペク軍に再び破れ、敗退してからは バーブル・バーディシャーマーがフラーアンナフル方面(バーブルの故地、ティムール王朝の中心地帯)への進出は難しくなった。

この後の数年間 バーブル・バーディシャーは カーブールを中心に アフガニスタン周辺の支配を固めつつ、インド方面への遠征を行うようになる。

この時期に バーブルはバーミヤン地帯の有力な領主の娘を妃に貰い受けています。 また、負け戦を続けている自己を分析し シャー・イスマーイール一世の敗因を調べ オスマン朝が騎馬以上の威力を発揮したと言う 火器の研究に没頭して行くのです。

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______  続く _____

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