ティムールの系譜“ムガル帝国”(3) 

“アルタン・ウルク/黄金の家”の正嗣が栄光 

ムガル帝国3-1

15世紀後半から16世紀初頭にかけ インドでは封建的諸関係が強まり、各社会層間の矛盾が深まっていた。 民衆は封建貴族の欲望の犠牲に晒されていた。

デリー地方の支配者・サイイド朝(1413-1451年)朝の権勢は絶大で、一部の地域では流亡や反乱が相次いでいる。 この不安定な情勢に ロディー朝(1451-1526年)が政権を確立した。

ロディー朝は、ガンジス上流域とパンジャブ地方を中心に北インドを支配する イスラム王朝 デリー・スルタン王朝の5番目の王朝として 北部インドを支配し、権勢を維持していた。

ロディー朝初代のバフロール・ロディー(在位:1451-1489年)は、 1398年のティムールがインド遠征に伴いう北部インドの混乱に乗じて アフガニスタンから侵入。 ティムールの凱旋帰国(1399年)後の居残り、バンジャブ地方で独立したサルダール(指導者)。 アフガニスタン人・イルザイ出身。 アフガンの有力者の一人であった。

バフロール・ロディーを継いだのは、デリー・スルタン朝の最後の名君とされる次男のスィカンダル・ロディー(在位:1489-1517年)です。

スィカンダル・ロディーは、偏狭な信仰をもつと評されるほど正統派イスラム教徒を自認し、聖者の墓へ女性が参詣することや聖者を記念して行進するといったシャリーア(イスラヌ法)に反する習慣を厳しく禁じ、領土内のヒンドゥー教徒にジズヤ(人頭税)を課税した。

1506年 スィカンダル・ロディーがアーグラの建設に取り掛かり、ロディー朝第二の都市にしている頃、 中央アジアでティムール王朝が崩落し その皇孫・バーブルがカブールにて独立している噂が彼の耳に入ってきた。 ティムール家は遠祖の君主であり、ティムール帝国内に遠祖の故地がある。

1517年 スィカンダル・ロディー皇帝が死去するとイブラヒム・ロディー(在位:1517-1526年)がこれを継いだ。 イブラヒムも父王にならい中央集権体制を目指そうと試み、アフガン領主たちを従えようとした。

また マールワの支配を固め、アーグラに手を伸ばそうとするメーラールのラーナー・サンガーを倒そうと遠征軍を起こしたがこれには手痛い敗北を喫し、追い返される形になったていた。 その結果、

ロディー朝の王朝内の団結は 次第に保てなくなっていた。 しかし イブラヒム・ロディー皇帝は 中央集権政策を 武力で推し進めていた。

ただ、イブラヒム・ロディーは 父親と祖父が故郷のアフガン族を ある程度優遇したのに対し、イブラヒム・ロディーは その優遇を認めず、力を誇示した。 また、彼は狡猾残忍で知られていた。

ムガル帝国3-2

イブラヒム・ロディーに不満を抱いたアフガン族の領主たちは、ジュンピルの領主ジャラルハンを指導者に立てて反旗を翻した。 しかし、この反乱は失敗に帰した。 1518年頃の事です。 しかし イブラヒム・ロディーの狡猾で強権な力だけでは 国は治まらず、内紛は絶えなかった。

イブラヒム・ロディー皇帝に敵視されている領主の中に、パンジャーブ領主・ダウラトハンがいた。 彼は 早晩にもイブラヒムのために 取り潰されることを察知していた。

ダウラトハンは カブールで善政を敷く ティムールが皇統・バープルに助力を願おうと カブールに現れた。

「カブールを征服した年(1503年)以来今日まで、私はいつもヒンヅゥスタン領有を夢見てきた。 しかし、家臣たちの無能や親戚たちの不賛成のために、ヒンドゥスタン遠征とその国の征服は実現しなかった。 ついにこうした障害は無くなった。

地位に関わりなく、家臣たちひとりとして私の意図に反対する者はなくあった。 1519年、私たちは兵を進めて、 バジャウルを奪取、住民を征服してビールに達した。

この都市を掠奪にゆだねることなく、安全の代償として 住民から40万のシャールフ金と品物を徴収し、 兵士や家臣たちに それをあた分与してカブールに帰還した。・・・・」 とバーブルは記述している。

史実は バーブルのインド遠征は 1505年(1505年9月 カブールの土着勢力ムキーム・アルグンを追撃して、インド領内に進軍)と1508年にも軍を進めているようです。 それに 1519年の遠征では、インダス河を渡河してパンジャーブ地方に侵攻したが、ロディー朝の・のイブラヒム軍反撃にあって敗れている事が事実でしょう。

ムガル帝国3-3

1520年 カブール西南のカンダハルの領主が謀反した。 バーブル・バーディシャーはこの反乱軍を包囲し 1522年には陥落させている。

こうして 後塵の憂いを取り払い、インド遠征の準備を整えたバーブルは 1524年 カブールを進発、ビールをへてラホールに進撃した。

ラホールに向かう途上 シャクルフの湿原でロディー朝イブラヒムの軍団の一部隊と遭遇した。 が、この部隊を撃破し 東に進軍している。

ラホール入城は簡単に果たせた。 パンジャーブ領主・ダウラトハン(先年、バーブルに支援依頼)での領地であり、ダウラトハンが二人の息子と共に合流し 城塞を攻略した。 イブラヒム軍は撤退するのみであった。

しかし バープルが ダウラトハンにラホールを返還しなかった事に ダウラトハンは怒り パンジャーブ領主とて パーブルを敵にまわし、 パンジャーブ全域の支配権を奪取した。 ダウラトハンがバーブルの“ヒンツズゥスタン領有”の夢への障害と立ちはだかった。

バーブル・バーディシャーは 兵糧が尽きる前に 粛々と軍を引いた。 そして、翌年1525年11月 バーブルは五度目のインド遠征に向かった。 同年11月16日 インダス河を渡り、パンジャブ領内を奥深くまで進軍した。

シアールコート要塞手前で 長子・フマーユーンが指揮するバタフシャン部隊(バーミヤン近くの部族)と経験に富むガズニの領主であったホジャ・カランの部隊と合流している。

バーブル・バーディシャー軍は 一気に パンジャーブ領主・ダウラトハン軍に襲い掛かり、蹴散らした。

パンジャーブ旧領主・ダウラトハンは捕えられ、ダウラトハン軍は四散・解散した。 ダウラトハンは幽閉地に送られる道中で死んでいます。

ラホール城都を拠点に 1525年の終わりには パーブルはパンジャブ一帯を占領下に置いのです。

その頃 デリーでは、 西方からの侵略者・バーブルに ようやく内紛を収拾したローディー朝のスルタン・イブラヒムが 10万と号する象の大軍を率いて 決戦を準備していた。

バーブル・バーディシャーも 己が夢の実現には ローディー朝のスルタン・イブラヒムが ただ一人 立ちはだかる敵である事と承知していた。 中央アジアでの敗戦に次ぐ敗戦が インド遠征の勝ち戦の連続の糧と成っている事も自覚していた。

10万の戦象が襲い掛かってくる大軍を前にして、一歩も引かず バーブルはわずか1万の軍をもって応戦する“バーニーバットの戦い”の幕が翌年に上がる。 1526年4月21日の事です。

ムガル帝国3-4

バーブルはサマルカンドの攻防で それの多くは負け戦でしたが、彼が蓄積した戦闘経験は膨大なものだったでしょう。

11歳で家督を継ぎ、13歳で初陣にでています。 20歳ごろまで左右の諸将が采配を振ったでしょうが、落城する城を逃れ、山野を彷徨たのは二十歳前です。

バーブルが交えた 軍事的天才であった ウズペグのシャインバーン朝・ムハマド・シャイバーニー・ハン、カリスマ的指導者 イランのサファーヴィー朝・シャー・イスマーイール1世、冷静沈着な戦略家 ティムール・ヘラト政権・スルタン・フサイン・ミルザーなど当代最高の司令官から 生死を掛けて学び取って来たのです。

バーニーバットの戦い”の戦いを前に バーブル・バーディシャーは42歳。

彼は、ムハマド・シャイバーニー・ハンとは三度交え、彼から学んだ戦略をインド遠征で好んで活用しています。

さらに そのムハマド・シャイバーニー・ハンが初めて破れ、死に追いやったシャー・イスマーイール1世とは共に戦った経緯から シャー・イスマーイール1世が敗北した“チャルディラーンの戦い”の敗因を 次の戦いに役立てようとしていたのです。

オスマン帝国・セリム皇帝が 西アシア最強で鳴らしたトルコ系騎馬軍団を率いるシャー・イスマーイール1世を敗走させた勝因は何処にあったのか 結論を出していました。

バーブル・バーディシャーは ティムール皇祖の恩義を未だに忘れない、オスマン帝国内のカラマン諸侯からの助言で トルコからウスター・アリーを招聘し 幕僚として大いに働いてもらおうと スルタン・フサイン・ミルザーから学んだ戦略を活かそうとしていた。

そして 傍には 最も愛する妃・マハムが生んだ長子フマーユーンが居た。

フマーユーンは次回に話しますが フマーユーンについて アクバル大帝(ムガル帝国第三代皇帝)の書記官として重用されたアブル・ファブルが・・・・・・

「彼は携わった活動のすべてに、そして引き受けた務めのすべてに、心の正しさと傑出した勇気を示したことで名を高めた。

彼はその幸運な人生を通じて、知識を権力と結びつけ、権力を同情心や寛容と結びつけることで、世界を魅力的なものにした。

多くの学問分野、特に数学では、彼に対抗できる者も知識を共有できる者もいなかった。 彼はアレクサンドロス大王のエネルギーとアリストテレスの学識を合わせもった、 高潔な性質の持ち主だった。

(略)だが、他に抜きんじた崇高な精神(それでこそ真の君主といえる)は、神の恵みによって彼ひとりに授けられたものであり、彼の兄弟の中で、親譲りの食卓から美味な食べ物の分け前をもらった者は、他にひとりもいない」と 評しているにですが・・・・・

ムガル帝国3-5

______ 続く ______

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