ティムールの系譜“ムガル帝国”(4)

“アルタン・ウルク/黄金の家”の正嗣が栄光

ムガル帝国4-1

1517年 ロディー朝・第二代君主スィカンダル・ロディーが死去(1517年)すると イブラヒム・ロディーが 第3代君主に就いた。 彼には弟のジャイラールがいる。 父・スィカンダル・ロディーは生前、2人の息子に領土を分割相続するように遺言していた。

そのため父の死後、イブラヒムはアーグラを、ジャイラールはジャウンブルを拠点にして分割相続した。

しかし イブラヒムはジャイラールの領土を併合しようと目論み、1517年12月30日には分割した領土の王から全土の王への即位式を行ない、1518年にはカルビ周辺以外の領土を奪い取ってしまった。

このため、ジャイラールはグワーリオール朝へ亡命した。 が、イブラヒムはグワーリオールに侵攻してこれを滅ぼした。

ジャイラールは 再び 南方のデカン高原へ逃亡したが、ゴンド族(デカン高原中部から北部に居住する原住民、原住民ではインド最大の民族)のサングラム・シャーに捕縛されてイブラヒムのもとに連行された。 その後 ヒブラハムは 弟の毒殺を命じている。

「イブラヒムは、まだ若い頃は父親や祖父の流儀に反して、自分と同じ部族の士官であろうと別の部族の士官であろうと、分け隔てしなかった。

そして、彼は公然と言い放った。 王たる者に親族や同族の者はいない。 誰もが国家の廷臣や召使と見なされるべきだと。

そこで、それまで彼の面前で座ることを許されていたアフガン人の族長たちは、やむをえず玉座の前に立ち、胸の前で両手を組み合わせた」 と 逸話にあります。

イブラヒム・ロディー第3代君主は弟を殺害すると、 次に父親時代からの貴族・重臣を殺したり監禁したりして排除した。 このため、貴族らはイブラヒムに反感を抱く。 しかも、1519年にはアフガニスタン方面から勢力をインド方面に伸ばしていたバーブルの侵攻を受ける。

このときは パンジャーブで戦って勝利したが、 国内で貴族らが反乱を起こした。 度重なる粛清が原因だったが、このためにバーブルを追撃できずに引き返し、反乱の鎮圧に務めることになった。

この反乱により、イブラヒム・ロディーは さらに粛清を行なうようになり、そして反乱を起こされるという全くの逆効果を招くようになる。

このため、バンジャーブ総督だったダウラト・ハーン・ロディーを 味方につけることで外敵であるバーブルに対抗しようとした。

ダウラトは最初のうちはイブラヒムに従ったが、次第に粛清を続ける彼に嫌気をさし、またバーブルがロディー朝の内紛の間隙を突いてラホールを1524年に奪うなどしたため、 1525年にダウラトはイブラヒムを見限ってバーブルについた。

ダウラトの離反・バーブルへの従附の結果、バーブルの勢力が一気にパンジャーブ一帯まで 及ぶことになり、ロディー朝は危機的状況に陥った。 バーブル・バーディシャーが 冷静沈着な戦略家 ティムール・ヘラト政権・スルタン・フサイン・ミルザーから学び取った戦略の勝利だった。

ムガル帝国4-2

1525年11月 バーブル・バーディシャーは インド支配、“ヒンツズゥスタン領有”の夢 の総仕上げとしてロディー朝への侵略を開始した。

1526年4月21日、ロディー朝イブラヒム・ロディー第3代君主は 全軍を総動員してバーブルを デリー近郊のバーニーバットで対峙する。 このとき、イブラヒム軍は1000頭の戦象部隊(アルプス越えのハンニバル将軍が有名ですね)を主力とした10万の大軍であり、バーブル軍は1万2000人という寡兵だった。

バーブル・バーディシャーは 自軍の一部を民家の多いバーニーバットに置く一方、木の枝で覆い隠した壕で自軍を保護し、実数が悟られないようにさせた。

また、自軍の前面に多数の荷車を縛り付けて並べた「防壁」をつくり、荷車の間ごとに衝立を作って鉄砲を発砲できるようにしていた。

バーブルは兵力を中央と左右両翼の陣形で三部分に分け、中央に陣取った。 約700台の荷車が防壁を形成、砲術家・ウスタグ・アリーが傍らに控えている。

ウスタグ・アリーはオスマン帝国の砲術家であった。 “チャルディラーンの戦い”の戦い以降、バーブル・バーディシャーの熱意溢れる招聘に応じ カブール滞在して バーブル軍内に火器部隊を創設、訓練を施していた。

また バーブルは オスマン帝国内のカラマン諸侯を通じて 欧州で開発された銃・大砲を購入し、この火器部隊を充実させていた。

1526年4月21日未明 兵力が圧倒的に多いイブラヒム軍が戦闘を仕掛けてきた。 敵が仕掛けるように、前夜バーブルの方から夜襲をかけ 戦いを煽っていた。 イブラヒム軍の早朝攻撃は パーブルの予想どうりの展開になった。

1000頭の戦象部隊が 地響きを立て、地を震わせて 本陣を襲ってきた。 ウスタグ・アリーの手にする銅鑼が打ち鳴らされると同時に 銃が火を噴いた。 両翼の大砲が火を噴いた。 イブラヒム自慢の1000頭の戦象部隊は たちまち 混乱に陥り、イブラヒム軍の指揮系統は寸断された。

結局、イブラヒム軍はこの戦いで大敗を喫して1万6000人以上の死者を出した。 そして主君のイブラヒム・ロディーは 果敢に戦ったものの敗死し、ここにロディー朝は滅亡したのです。

ムガル帝国4-3

バーブル・バーディシャーが 10万の兵をわずか1万余で破ったのは、鉄砲を有効に用いたからであったとか、強力な騎兵隊を編成していたためであると言われていいます。

しかし バーブルは1520年代に入ってからアフガニスタンやインドでの戦闘で、攻城戦などに火縄銃や各種の大砲の部隊を積極的かつ組織的に投入しており、 これら銃火砲を専門に扱うアニール(軍属の貴族)や職人たちに 大砲や銃の鋳造、購入、部隊編成を行わせて きたのです。

このバーニーバットの戦いでのバーブルの勝利は、 インドにおける銃火砲の本格的移入を告げる記念碑的な事件であり、 1514年のチャルディラーンの戦いにおけるサファヴィー朝に対するオスマン朝の勝利と比肩される 歴史的な事件となります。

バープルが 火器製造職人などを招聘できたのは 皇祖ティムールのアナトリア方面への善政と イランのサファヴィー朝・シャー・イスマーイール1世との交流があったからでしょう。

それまで 印度亜大陸では デリー・スルタン政権 ラージブート政権、他のムスリム政権では銃や大砲などの使用がほとんど知られていなかったようです。

バーニーバットの戦いに代表されるバーブル・バーディシャーの積極的な火器の使用以降、インドでの戦闘に銃火砲が多く投入されるようになって行きます。

この戦いを完全な勝利で勝ち取ったバーブル・バーディシャーは 怯むことなく ロディー朝の首都であるデリーとアーグラを占領してしまいます。 そしてこれをもって、遂に皇帝として即位し、ムガル帝国を創始した。 1526年4月24日に事です。 アーグラを本拠と定めています。

《 日本では 応仁の乱が終決し 権益を得た大内氏とうの勝ち残り組が それぞれ 独自に明国へ使節団を派遣する日明貿易を経営をはじめ、寧波の乱を起こしていたころですね 》

ロディー朝の崩壊はしかし、バーブル・バーディシャーの北インド支配には繋がらなかった。 各地の領主たちがう外来の支配者に反対し 「モグール・モゴール」と卑下して立ち上がり 連合した。

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バーブル・バーディシャー反対勢力の中心にラーナ・サンガがいた。 ラーナ・サンガは 過日の戦闘で片手を失い、目の片方も切傷で塞がれている猛将 ラジプート(現在のラジャースタン州、パンジャブの南)の領主です。

全身に80ヶ所の刀傷を持ち、「モゴールのバーブルめ」と 総勢20万の軍勢を擁していた。 しかし サンガとバーブルは知古の関係であったのです。

1525年11月のラホール城塞攻略戦に ラーナ・サンガは加勢し 共に ロディー朝・イブラヒム・ロディー打倒のために 手を結んできている。

《 ラジプート ; 5~6世紀頃、中央アジアから繰り返し侵入してきた、イラン系ともテュルク系ともいわれる騎馬民族エフタル(謎に満ちた国家、資料収取中)などの外来の諸民族が、在地の旧支配層と融合した種族。 デーリー・スルタン王朝前のゴール朝を開闢している ラジプートの精神的な帰結は カジュラホの寺院で見ることができます  》

バーブルの武将の中には 「敵は強大です。 わが君には、守備隊をデリーに残し、パンジャーブに引き揚げられたらいかがか と存じます」と 上奏しています。

しかし バーブル・バーディシャー皇帝の“ヒンツズゥスタン領有”の夢への意志は 強固だった。 まず 禁酒令を出した。 「在る葡萄酒は捨てるか、それとも 酢にしてしまえ」と自ら好きな飲酒を絶った。

部下の幹部を集め、訓示を行っている。 「私は熱心にヒンツズゥスタン征服を志し、七年か八年の内に五度兵を進めた。 五度目にして、神は私に慈悲を示され、スルタンのイブラヒムのような敵を滅ぼし、ヒンツズゥスタンのような国を 私たちの権力下に従属せしめられた。

この世にきた人はすべて、やがて亡き数に入る。 永遠にして不死なるものは神のにである。 人生の宴に現れたものは、所詮 死の杯盃を干さねばならぬ。

存在の住家にやって来たものは、結局は この悲しみの谷から去らねばならぬ。 不名誉で生きるよりは、栄光をもって死ねれば、それはよいことだ。

『肉体は死のうとも、われに栄光のあれかし』主は我らに かかる幸せをつかわし、この喜びを賜った。 殺されるものは殉教者であり、敵をころすものは 信仰の戦士である。

すべてはアラーの御言葉によって遂行される。 自分の魂が肉体から出て行かない限り、なんびとも戦いから顔をそむけず、戦いの場から抜け出さないことを 誓うべきである」
……自伝『バーブル・ナーマ』より・・・・・

ムガル帝国4-5

バーブル・バーディシャー皇帝の演説に 老いも若きも諸将は 顔を紅潮させ クアラーン(コーラン)を手に誓いを新たにした。 遠近の諸兵も敵の間者の聞いたと言う。 バーブル・バーディシャー皇帝による“ジハード”の布告です。 ヒンズゥ教とイスラム教の戦いになった。

訓示が終わったバーブルは 直ちに 以降多くの税金を免税にする布告を出しています。 「ムグール(モゴール)」と呼ぶ民衆への懐柔策でしょうが、絶対絶命の崖っぷちに立つバーブルには民衆の協力が必要です。

新天地に立つバーブルの軍勢はたったの2万人弱 バーブル・バーディシャー皇帝の戦略には いや 政治思想は 常に 人々の平和な暮らしが根底にあったのです。

即位の翌1527年、ラージプート族の藩王連合軍が攻めてくる。 20万余の軍団を率いるのは 主義の違いから袂を分かった戦友・ラーナ・サンガ 当代屈指の片目・片足の猛将です。

1527年三月十三日 ガンジス河東方 シリク付近 両雄は刃を交わします・・・・・・・

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