ティムールの系譜“ムガル帝国”(5)

“アルタン・ウルク/黄金の家”の正嗣が栄光

ムガル帝国5-1

1527年3月13日 ガンジス河東方 シリク付近 ラージプート族の藩王連合軍 20万余の軍団を率い 当代屈指の片目・片足の猛将ラーナ・サンガが 戦象の上から指揮をとる。

バーブル・バーディシャー皇帝は揺るぎない自信をもって、昨年の“バーニーバットの戦い”同様の布陣を敷いる。

バーブル軍とラーナ・サンガ軍は一週間ほど小競り合いを続けていた。 が、勝負をつけようと前進するラーナ・サンガ軍は、バープル軍の布陣の固さに攻めあぐねて躊躇していた。

長子・フマーユーンが指揮するバタフシャン部隊(バーミヤン近くの部族)の200は遠駆けして背面に回り込んでいた。 右翼にはと経験に富むガズニの領主であったホジャ・カランの部隊3000が 左翼にはバンジャーブ総督だったダウラト・ハーン・ロディーの部隊3000が 控えていた。

右翼・左翼は大砲・銃を中心にする火器軍団である。 バーブル・バーディシャーが4000の将兵を擁し中央に位置し 大局を穿っている。 砲術家・ウスタグ・アリーが傍らに控えていた。

攻めあぐね 躊躇しているラーナ・サンガ軍の背後を フマーユーンが突いた。 と 同時に 右翼ホジャ・カラン軍 左翼ダウラト・ハーン・ロディー軍の大砲が火を噴く、十字砲火の体をようした。

砲術家・ウスタグ・アリーが教え込んだ火器 特に大砲の威力は物凄いものであった。 これによって 敵の騎兵は役に立たなくなり、戦象は狂乱して自軍の兵を踏み潰し 暴走した。

敵の総大将ラーナ・サンガは 象軍を使うこともできず、崩れつつある自軍をかろうじて支え 彼の周りを固めている 5,000~6,000人の兵士とともに 勇敢に戦ったが敗れ 重症を負い、捕らわれの身となった。

バーブルは 彼を手当し、カシミールの地へ丁寧に護送している。 スリナガールにあるシャーリーマール庭園(前記載写真)でラーナ・サンガは保養し、生涯を閉じたと言います。 バーブルが友情の証でしょう。

20,000人以上がこの戦闘で殺されたと推定されます。 勝利の後 4月25日にアーグラに凱旋帰還したバーブル・バーディシャー皇帝は親戚や部下たちに惜しみなく論功行賞を行っています。

ラージプート族の藩王連合軍との戦いに於いて、火器が威力を発揮し 勝利に結びついた事は事実ですが、先年(1526年4月21日)の“バーニーバットの戦い”では 敵将イブラのヒム・ロディーが火器の存在を知らなかった事が敗因です。

しかし 今回 ラーナ・サンガは火器の威力を十二分に熟知していたはずです。 やはり、バーブル・バーディシャー皇帝として行った訓示の余波を バーブルは計っていたのではないでしょうか。

訓示を遠近の諸兵 また 敵の間者にも 聞かせる事で、ラージプート族・藩王連合軍に戦いの真の目的を知らしめ、敵側の動揺を誘い 敵側の諸部族間の不和や 戦う意欲を削いだのではないでしょうか。

バーブルはラーナ・サンガとラホール城塞攻略戦を共に戦っています。 ラーナ・サンガの性格 猛将としての指揮ぶりは熟知しています。 ラーナ・サンガと戦わねばならぬと決意した時から 20万余の大軍を分離・孤立化させる戦略を施した後 戦場に赴き、シリク戦で 勝利したのでしょう。

ラージプート族・藩王連合軍に戦いに勝利したとは言え、これ以降も反旗を翻す地方の部族があった。 が もはや 大勢をどうすることもできず 1528年以降 バープルは地方の遠征に赴きます。

アフガン族(西北カシミール)やベンガル族(東方プラデシュ)の制圧 1529年5月16日にはビハール地方(ガンジス河流域)の平定される。 バーブルは 名目的とは言え、自治権を与えています。

1530年6月20日 バーブルはアーグラに帰還し、ジャムナー川(タージ・マハルの背面)の岸に泉を掘り、池を作り、また 民衆が憩える庭・ゼラフシャン(故郷、中央アジアの河川名で命名)造りに情熱を傾けています。

しかし バーブルの体力は目に見えて衰えて行きます。 息子のアルラールの死、有能な息子・フマーユーンの急病などのため、バーブルの心労はさらにひどくなった。

バーブルは フマーユーンに自分の命を献じる儀式を行います。 フマーユーンは治癒したが 人々は それはバーブルの命が移った為だと噂します。

1530年12月26日 バーブル・バーディシャー皇帝は永久の眠りに就いた。 享年57歳、アーグラにて

折しも 長男・フマーユーンは 父・バーブルの命令でサムバール(南方、デカン高原地方)に反徒鎮圧に出陣して折、民衆の動揺・不穏な行動を恐れる重鎮の忠言によって バーブルの死は厳密に伏された。

側近たちは バーブル・バーディシャー皇帝が「皇位はフマーユーンに譲る」と明言し 巡礼の旅に立った と噂を流しているのです。

フマーユーンは死後四日にして アーグラに帰還 皇位を継承し 12月30日にムガル帝国第二代皇帝を拝命した。 バーブルの遺体は 丁寧にジャムナー川岸・バギ・アラムに葬られた。

ムガル帝国5-2

ムガル帝国第二代皇帝・フマーユーンの史実を 話す前に 上記写真・バーブル・バーディシャー皇帝廟について バーブルの遺言にもとづき カブールに移された秘話を書いておきます。

シェール・シャー(1486-1545年);「トラの王」の名前で知られるスール朝の創始者(在位:1539年12月 – 1545年5月22日)

今日のアフガニスタン、パキスタン、北インドを統治した。 バーブル・バーディシャー皇帝に心服 バーブルを尊敬する また バーブルに従属した領主であった。

1531年、シェールは バーブルの後を継いだフマーユーンからの独立を宣言した。 シェールの突然の独立は、アフガン人やジュラールにとっては我慢のできないものであり、彼らはベンガルの王であるムハンマド・シャーと同盟を結んだ。

1534年、シェール・シャールはキウル河でベンガク軍を破り、ベンガル地方へ侵攻した。 その結果、ムハンマド・シャーが統治していたベンガル一帯はシェール・シャールの領域となった。 1537年10月、シェールは西ベンガルのガウール(ガンジス河中流、インドとバンガラデッシュ国境の都市)も攻撃した。

フマーユーンは アフガン人の勢力が大きくなることを危惧し、1537年12月には、チューナール(現在のウッタル・ピラデーシュ州にある都市)を包囲するにいたった。 しかし シュールの軍隊は、6ヶ月の間、ガウール攻略に専念し、翌年の4月には成功している。

1539年、フマーユーンの軍隊は、ベンガル地方への進入を開始したが、シュールの軍隊はビハール地方、ジャインプールを支配し、フマーユーンの進入に対抗した。

1539年のチュウサにおける戦闘、1540年5月のカナウジの会戦によりフマーユーンを圧倒したシェール・シャーは、ゲリーとアーグラを占領し、ついに北部インドの中心で覇権を掴む事に成功した。 既に54歳になっていた。

他方 ムガル帝国第二代皇帝・フマーユーンーは、アーグラからラホール、シンドを経由して、ペルシャに逃走し、亡命生活を余儀なくされ、北インドでは、スール朝の覇権が確立した。

ムガル帝国5-3

即位したシェール・シャーは、フマーユーンに味方したパンジャーブ地方の豪族への攻撃を開始した。 また、1541年からロータス・フォード(写真参照)の建設を開始した。

このロータス・フォードは、インド・ベンガル地方とアフガニスタン・ペシャワールを結ぶ街道沿いの世界最大級の岩塩鉱山近くに 中央アジアからの遊牧民族からの侵入を防ぐ目的で建設された。

政権を確立したスール朝は ラージブートの脅威を受けることとなった。 ラージプート王ラオ・マルデオはデリー近郊数百kmまで軍隊を進めて来た。 “サンメルの戦い”です。

1544年、シュールは、6万の軍勢を率い、4万の軍勢のマルヂオの軍隊に対して攻撃を仕掛けた。 攻撃のある晩、シュールからマルヂオの軍隊の駐在するキャンプに複数の手紙がもたらされた。

その内容はマルヂオの軍隊の複数の将軍が シュールの軍隊から武器を購入することを示唆した内容であり、このことにより マルヂオの軍隊は混乱状態に陥った。

この出来事によって マルヂオの下を去る兵士が続出し、マルヂオには2万の軍隊が残されていなかった。 しかし、クンパワット、ジャイワットの2人の将軍はマルヂオのもとに残った。 そして、

シェール・シャーは サンメルの会戦で勝利を収めることに成功したのです。 が、シェールの軍隊でも数名の将軍が命を失い、軍隊も大きな打撃を受けています。

シェール・シャーは、ベンガル、マールワ、ライセン(現在のマディヤ・プラデーシュ州の都市)、シンド地方、ムルターンに勢力を拡大して行った。 1544年末には ほぼ インド北部を制圧している。

ムガル帝国5-4

シェール・シャーが ライセンを支配していたラジープト族を攻撃した際には 攻城戦に手間取り、偽計を用いることで攻城に成功している。 シェール・シャーは このように 策謀を多用する君主であった。

短い五年間でガンジス河からインダス河の広範な印度北部域を占領下に置いたシェール・シャーは 1545年
ヒマラヤ山脈南部のウッタル・ブラデーシュのカリンジャール城都を攻撃、この地で攻囲中の1545年5月、シェール・シャーは砲弾の暴発事故で死亡してしまいます。

シェール・シャーの政権は 息子のイスラームが継ぎますが、 アフガニスタンに亡命していたフマーユーンが 1555年7月、カブールを出発し デリーに進軍します。 フマーユーンの手により、デリーが陥落
《 ムガル帝国第二代君主・フマーユーンの項で 詳細に記載 》

このフマーユーンのアーグラ城・レッド・フォード入城をもって スール王朝は滅亡し、再び北インドはムガル帝国が支配する事 となります。 しかし、短命な政権 わずか5年の在位であったが、その在位中に行なわれた改革により 印度における最高の名君とまで 史家は評価しています。

彼の死後、息子のイスラームは尊敬する父を弔うために現在のインド・ビハール州のササラームにあるシェール・シャー・スール廟を建立しているのですが、この廟の建設には バーブルの愛情で育まれたフマーユーンの人間愛から発する援助がありました。 共に父への慕情でしょう。

バーブルの遺体はアーグラのジャムナー川岸・バギ・アラムに葬られていました。 バーブルを尊敬し、心から心服していたシェール・シャーは アーグラ占領の後 バーブルの遺言を聞き カブールに移しているのです。

シェール・シャーはカブールにバグ・イ・ワファ庭園を造り、埋葬しています。 後年 1607年にバーブルの曾孫・ジャハンギル(ムガル帝国第4代君主)が庭園に大きな白大理石の石碑を建立しています。

その石碑には「人は故郷にあこがれて永遠に悲しむ」と刻んでありました。 私が訪ねた秋 廟の傍には 大きなスズカケの老樹が二本ありました。 その老樹の傍を山から流れくる清流が流れていました。

バーブルが帰りたかったのは 生まれ故郷のアンディジャンだったでしょう。 この廟を訪れた時、 幾度もサマルカンド奪回を試みたバーブルの思いが また 敵と成ってしまったシェール・シャーの苦しい悲しみが 解るような気がした。

ムガル帝国5-5

                             ________ 続く ________

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                         *当該地図・地形図を参照下さい

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