ティムールの系譜“ムガル帝国”(6) 

“アルタン・ウルク/黄金の家”の正嗣が栄光 

ムガル帝国6-1

フマーユーン 1508年 – 1556年1月24日 ; ムガル帝国・第2代皇帝(在位:1530年12月30日 – 1539年12月、復位 1555年7月23日 – 1556年1月24日)

父は初代皇帝・バーブルで、長男。 母はマハルと言われ、バーブル最愛の皇妃だった。

1530年にフマーユーンは病に倒れた。 バーブルはどうしたらよいかとお気に入りの相談役に意見を求めると、 フマーユーンが助かるためには自分が持っている物の中で最も価値の高いものを捨てなければならないと言った。

バーブルは自分こそが最も価値の高いものであるとして自ら息子の犠牲になろうと述べて祈りを唱え、フマーユーンの寝床の周りを3回歩いた。

すると フマーユーンは病から回復し、バーブルが病に倒れて12月21日に死去した。 このため、12月30日にフマーユーンがムガル帝国の跡目を継いだのです。

フマーユーンは 父が死去したとき、極めて不安定な地位にあった。 フマーユーンの領土はジャウンプルからデリー、パンジャブーとインド北部の限られた地域のみしか 支配力が及ばなかった。

これはパブールの死後、父・バーブルよりインド南西の地を任されていた弟のカームランが自立して皇位を狙い、またその下の弟であるヒンダールアスカリーらもフマーユーンに対して表面上は忠誠を誓いながらも皇位を狙っていたのです。

また バーブルが滅ぼしたロディー朝のイブラヒム・ロディーの弟マフムード・ロディーらのアフガン勢力が王朝再興を目指して行動し、インド南部でビジャラート(インド西部、マハトマ・ガンジー出生地方)からアーグラに勢力を拡大するバハードゥル・シャーの脅威が 新皇帝・フマーユーンの周囲に迫る、内憂外患の状況があったためです。

ムガル帝国6-2

1531年、フマーユーンは ラクノウラ(デリー南東500キロ)郊外でマフロードのロディー軍に勝利し、ビハール(インド北東部)でスルタンを称し 独立宣言をしたシェール・ハーンを攻め 矛を納めさせています。
《 シェール・ハーン; 父・バーブルを尊敬するパシュートゥーン人(アフガン中央部)でインド東北の領主、前記載 》

1535年にはインド南部のグジャラートとマールワー(インド中部、デカン高原の北部域)を制圧し、領土を倍増させた。

フマーユーンには才能があり、チェンバニールの城砦を攻めたときなどは自ら城壁を梯子で登るほど勇敢だった と言います。

だが手に入れた新領土の支配体制の確立を怠って自らの快楽に溺れたため、アフガン勢力が力を回復して侵攻してくると、南からも反勢力が一斉に蜂起するという事態を招いてしまった。

また 1531年に服属していたアフガン勢力のシェール・ハーンが 次第に勢力を拡大したため、1537年にフマーユーンはシェール・ハーンを攻めるために東方に進軍した。

ところが この東征は失敗。 しかも 実弟のヒンダールがデリーでスルタンを自称しようと企てたのです。 この企みは フマーユーンを支持する貴族の反対で 失敗に帰します。 フマーユーンとヒンダールは以降、恋人の取り合いでも対立して行くのですが・・・・

他方 シェール・ハーンは ジュウンブルとベナレースからベンガルにかけて 強力な同盟勢力を築き上げていた。

1539年 再び フマーユーンはシェール・ハーンの制圧に進軍した が、ベナレース近郊のチャウサンの戦いで敗北し、敗走・逃走する。

1539年12月 シェール・ハーンは アーグラに入城 皇位に即位してシュール・シャー名乗り スール朝を開闢した。 フマーユーンは 1540年にアーグラとラクノウの中間にあるカナウジで再び敗北し、フマーユーンはインド北部から追い出され ラージブーターナの砂漠地帯へと落ち延びた。

こうしてムガル帝国は一時的ながらも滅亡し、シェール・シャーのスール朝が確立した。

ムガル帝国6-3

1508年生まれのフマーユーンは 31歳であった。 フマーユーンはラージーターナの砂漠で同じくシュール・シャーーに追放された弟のヒンダールと共に兵を集めようとした。

しかし 美貌のハミーダを同じく愛していたヒンダールは 兄のフマーユーンとバミーダの婚約に恨みを持ち、兄のもとを去ってカンダハール(アフガニスタン中央部、パシュートゥーン人の都市)に去り、独立した。

ちなみに このラージーターナの砂漠で ハミーダとダと結婚したフマーユーンは1542年10月15日に アクバルを授かっているのです アクバル1世 ムガル帝国の領土を最大にした君主です。

1543年 フマーユーンはハミーダや50人弱の側近を連れてシンドから逃亡。 ラホール、カブールを経て イランのサファヴィー朝のタフマースブ1世を頼って落ち延びて行った。

サファヴィー朝の前君主シャー・イスマーイール1世と父・バーブルが サマルカンド奪回で共に戦った両国の親交に頼っての亡命でした。

タフマースブ1世はフマーユーンを手厚く歓迎し、互いに抱き合い、意気投合して親友のようになった と記録されている。
《 他の資料では フマーユーンはスンナ派だったため、シーア派神秘主義教だったタフマースブ1世はフマーユーンを帰依させようとして対立したり、インド奪還の際にカンダハールを割譲するよう求めたりしているようです 》

フマーユーンからインドを奪ったシェール・シャーは善政を施した。 名君として後世に大きな影響を与える政治改革を行なった。 敬愛するバーブルの遺骨を彼が望んだカブールに移している。

このためインド北部は安定し シェール・シャー時代のスール朝は強盛であったが、1545年5月にシェールは 不慮の銃の暴発事故で死んでしまった。

跡を継いだシェールの息子イスラーム・シャーは 父ほどの器が無く重臣を粛清したため、スール朝は急速に衰退して行きます。

フマーユーンは このような状況を見て1545年3月にカンダハールを奪還。 さらに11月にはカブールも奪って弟のカーラムーンを追放し 兄弟喧嘩で人質として捕虜になっていた息子のアクバルを救出しています。 フマーユーン 47歳の頃です

以後の9年間は アフガニスタン東部の覇権をめぐって実弟らと戦い、ヒンダールはカラームーンに奇襲されて殺され、アスカリーは追放され、カラームーンはフマーユーンに盲目にされます。 フマーユーンはカブールを中心に 父・バープルが 創建したムガル政権をアフガニスタン東部にて再興した。

ムガル帝国6-4

1554年 イスラーム・シャーが死去(享年不明)して12歳の息子であるフィールーズ・シャーが貴族によって擁立されると、1ヶ月も経たないうちに継承争いが起こってフィールーズ・シャー殺害され、スール朝は王族3名が争う事態に陥った。

この情報に、1555年の初頭 フマーユーンは 軍の指揮を名将であるバイラム・ハーンに任せて アグーラに進軍した。 同年の晩秋 フマーユーン軍はし レッド・フォード要塞を陥落し スール朝を滅ぼした。 ムガル帝国の復興を成し遂げたのです。 1555年7月23日 ムガル帝国・第2代皇帝に復位している。

フマーユーンは 若いころには 才能に恵まれていたが たくましさがなかったと言われてきた。 父・バーブルの溺愛がそうさせたのかも知れません。

必要な行動は後回しにして宴会や享楽を優先し、享楽の中にはバラ水を使って小さな球状にした阿片を飲むことも含まれていた と言います。

またシェール・ハーンが降伏したときに処断しなかったことが結果的には甘く王朝の滅亡を一時的にもたらしたのです。 東征でシェール・ハーンに敗れた際も ベンガルで浮かれ騒いで過ごしたために事態の悪化を招くになったようです。

他面、「彼は携わった活動のすべてに、そして引き受けた務めのすべてに、心の正しさと傑出した勇気を示したことで名を高めた。

彼はその幸運な人生を通じて、知識を権力と結びつけ、権力を同情心や寛容と結びつけることで、世界を魅力的なものにした。

多くの学問分野、特に数学では、彼に対抗できる者も知識を共有できる者もいなかった。彼はアレクサンドロス大王のエネルギーとアリストテレスの学識を合わせもった、高潔な性質の持ち主だった。・・・」と
後年に アクバルの書記官として重用されたアブル・ファルズが 高くと評していますように 亡命生活で君主たる者の勤めを自覚したのでしょう。

天文学・数学に特異な才能があるのはティムールの血筋でしょう。 五代前のウルグ・ペグ(ティムール朝・第四代君主)は天文学者として後世までのこしています。

1556年1月、フマーユーンは図書館の屋上で金星が昇る時刻について占星術師と議論していた。 そのとき、近くのモスクから礼拝の時刻を告げ、礼拝に呼びかけるムアッジン(ナミレット・尖塔からの礼拝時刻の通知)の声が聞こえた。

フマーユーンは 急いでモスクに向かおうとしたのか、階下の自室で礼拝するためなのか、急いで 階段で降りようとした。

フマーユーンは、長い衣服の裾に足をとられて転げ落ち、石段で頭を打った。

この事故が原因で 2日後に死去した。 享年49でした。

ムガル帝国6-5

フマーユーン亡き後 息子のアクバルが継承しますが、アクバルは15歳という若さだった。 将軍バイラル・ハーンが摂政として統治した。

だが同族争いやスール朝残党の抵抗もあって統治は安定しなかった。 後年 成長したアクバルは 親政を開始し、大帝と呼ばれ ムガル帝国の全盛期を築く英主となるのです・・・・・

【 参考資料 ; イランのイスラム教シーア派 】

イスーラームという宗教が生まれて間もない初期のころ(正統カリフ時代、5世紀中葉)に、預言者の後継者(カリフ)を誰にするかという問題が起こった。

ムハマド(マホメット・創始者)の従兄弟かつ娘婿であるアリーとその子孫のみが後継者の権利を持つと主張したシーア・アリー(シーア派)に対し、

アブー=バルク・ウマル・ウスマーン(マホメットの第一信者)が定めた三人のカリフ(後継者)はアリーに先立ち この三人が正統カリフとして認めた大多数のムスリム教団がスンニ派の起源です。

アリーの子孫のみがイマーム(カリフ)としてイスラム共同体を率いることができるという主張から始まったシーア派は、その後のスンニ派による歴代イマームに対する過酷な弾圧、そしてイマームの断絶という体験を経て、スンニ派とは異なる教義を発展させていったのです。

歴代イマームを絶対的なものと見なす信仰・教義、歴代イマームを襲った悲劇の追体験、イマームは神によって隠されており、やがてはマフディ(救世主)となって再臨するという終末論的な一種のメシア信仰は、シーア派を特徴付けるものです。

シーア派は スンニ派に比べ、一般に神秘主義的傾向が強く。 宗教的存在を絵にすることへのタブーがスンニ派ほど厳格ではなく、イランで公の場に多くの聖者の肖像が掲げられていることにも象徴されるように、 聖者信仰は同一地域のスンニ派に比べ一般に広く行われている。

一時婚があるため、一定の条件を満たせば、恋人同士の婚前交渉が認められている。

シーア派は スンニ派と比べて過激派だと言われることがあり、原理主義的だと言われることも よくあります。

シーア派の実態は分派、学派、時代、地域によって様々であり(スンニ派も同様)、その政治的・宗教的姿勢を一概に言うことはできません。 追々 話しましょう。 現代政治力学に繋がります。

ムガル帝国6-6

_________ 続く ______

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