ティムールの系譜“ムガル帝国”(9) 

“アルタン・ウルク/黄金の家”の正嗣が栄光

ムガル帝国9-1

アウラングゼーブ・アーラムギール(1618年11月3日 – 1707年3月3日);ムガル帝国・第6代皇帝(在位:1658年 – 1707年)

第5代皇帝シャー・ジャハーンの三男。 母はムムターズ・マハル。 アーラムギール1世とも称されます。

第5代皇帝の父シャー・ジャハーンは、1657年病床に臥した。 皇子・長男のダーラー・シコーを シャー・ジャハーンは第5代皇帝の後継者として指名した。 が、これでムガル王朝の皇位継承争いが起こった。

皇位継承問題はあらゆる王朝で発生します。 第3皇子のデカン太守アウラングゼーグ・アーラムギールは弟のモラード・バクシュと結んでダーラーと第2皇子シャー・シュジャーと対決した。

父シャー・ジャハーンを励まし続けた長女ジャハナラ・ベガームは 皇帝の政治顧問としても、兄弟の内で長男ダーラー・シコーを支持しており、アウラングゼーブ・アーラムギルに対しては冷淡だった。

アウラングゼーグはムムターズ・マハルの兄・宰相のアーサフ・ハーンを取り込み、ダーラー・シコーを倒し、次いで同盟者のモラード・バクシュも殺し 帝位継承者としての地位を確立した。 1658年初頭の頃です。

皇位に就いたアウラングゼーグは死刑に処したダーラーの首を 父、前任の皇帝シャー・ジャハーンのもとに送り、その箱を晩餐の場で開封させるなど 残酷な復讐行為を行った。

兄2人を殺して兄弟間での皇位継承争いに勝利した後、1658年に父シャー・ジャハーンと姉ジャハナラ・ベガームをアーグラに幽閉し、デリーで皇位についいます。

幽閉の理由は定かではありませんが、黒大理石の“タージ・マハル”建立を推し進める宰相アーサフ・ハーン派の粛清にあったのでしょう。

ムガル帝国9-2

アウラングゼーブ・アーラムギールは 戴冠後 アアンガバードや近郊の城郭都市ダウランバード(デカン高原北西部 寒村に城郭都市を建設、命名 1681年ー1707年までこの地で過ごす)を拠点に、大規模な外征を行った。

アウラングゼーブ・ムガル帝国第6代皇帝は 版図拡大政策を思考していた。 城郭都市ダウランバードの建設と並行して デカン高原の制圧を目論み実行した。 毎年 遠征軍を南部地方に向けている。

1686年には アーディル・シャーヒー朝が アウラングゼーブ皇帝に制圧された。 引き続き アウラングゼーブ皇帝は 高原南部全域を支配していた クトゥブ・シャーヒー王国に進軍しています。

この王朝はアクバル大帝に一度徹底的な破壊を被っていが、都を移し再興 デカン高原の強力な政権であった。

1687年 クトゥブ・シャーヒー王国はアウラングゼーブ皇帝指揮の第三次遠征軍の大攻撃をうけた。 クトゥブ・シャーヒー王国軍は、難攻不落のゴルコンダ要塞に篭城して、長期にわたる包囲攻城戦をよく持ちこたえていた。

しかし、アフニスタン戦士アブドゥッラー・カーンの裏切りにより戦局は一転。 彼は遠征軍に内通し、同年(1687年)9月21日早朝に、守備兵員が手薄となっていたキールキー城門から、密かにムガル帝国軍を迎え入れた。

クトゥブ・シャーヒー王国守備軍は、完全に無防備を襲われ、防御線を瞬く間に破られてしまう。  ゴルコンダ要塞は、この年 ついにアウラングェーブ帝遠征軍のまえに陥落する。

これは、同時に 南部インドの諸王国の崩壊でもあったのです。 クトゥブ・シャーヒー王国をはじめとするインド南部の多くの有力王朝を滅ぼしたアウラングェーブ皇帝は、1691年にはムガル帝国最大のを領土を獲得したのです。

しかし、この度重なる遠征は財政を悪化させていった。

ムガル帝国9-3

アウラングェーブ・ムガル帝国第6代皇帝は 財政立て直しに、1679年にシズヤ(非イスラム教徒に課せられた人頭税)を復活させる。

また、宗教政策は保守反動的なものとなり、他宗教に厳しい弾圧を行って行った。 このたね ラージプート族、マラータ族、シク教徒などの反乱が激化し、1674年にはシヴァージーがヒンドゥー教徒のマラータ王国を建国するなど、帝国はしだいに分裂の方向に向かっていった。

1660年前後よりゲカン高原西部にて、シヴァージーが率いるヒンドゥー教徒のマラータ族がムガル帝国に反乱を起こした。

シヴァージーはマラータ王国を建国、長期間のゲリラ戦にてムガル帝国皇帝を苦しめ、戦った。 だが、シヴァージーの死後、マラータ王国は一時衰退すします。

しかし 18世紀前半にマラータ王国の宰相を中心として王国の有力諸侯が連合してマラータ同盟を結成  ムガル帝国の分裂・衰退に乗じてインド中部から北インド全体に勢力を伸ばし 1752年には ムガル帝国の首都のデリーに入城して実権を握り、一時はインド全域の覇者になるかと思われた。

がしかし、当初からの分権的な政治体制が災いして内部抗争が激しかったことや、1761年の<第3次バーニーバットの戦いで南下してきたアフガン勢力に大敗したことにより衰退に向かって行きます。

更に インド全域に勢力を伸ばすイギリス東印度会社との3度のマラータ戦争に破れて、マラータ同盟は解体され、マラータ王国は滅亡 ベンガル地方はイギリス東イ印度会社の直接支配下に入り、一部は藩王国に編成されてて行きます。

ムガル帝国9-4

シク教徒は、インドではヒンドゥー教徒に比べて、圧倒的に少数派だが、富裕層が多く社会的に活躍する人が多いのです。

《 私の友人はシク教徒です イギリスでは、ターバンが教徒の絶大敵なもの バイクの運転の時、ヘルメット着用は免除される と言ってました。 ボンベイには鳥葬をする一派もいます 》

ヒンドゥー教が生来から帰依するものであるのに対して、シク教は改宗宗教であることから、異教徒やインド人以外に対しても布教が行われ、教徒はインド全域に分布しています。

特に総本山ハリマンディルの所在地であるパンジャーブ地方に多いく、シク教成立時より裕福で教養があり教育水準の高い層の帰依が多かったことから、イギリス統治時代のインドでは官吏や軍人として登用されるなど社会的に活躍する人材を多く輩出しました。

ムガル帝国時代に武器を持って戦っていたため なにかと重宝な白くて長い綿布がターバンに成ったと言われています。
《 早朝 ベランダでターバンを美しく巻き上げるのに半時少々 かけていました 》

アウラングェーブ・ムガル帝国第6代皇帝の晩年は 皇帝時代の残酷な政策を後悔し、「アッラーを離れた孤独」の生涯を嘆きながらアフマドナガル(城郭都市ダウランバード近郊)にて死去した。 88歳であった。 彼の陵墓は 城郭都市ダウランバードにあります。

アウラングゼーブ・アーラムギールの死後、多数の民族・宗教を抱えた政情や帝国の財政難が影響して、帝国領はたちまち分裂します。

後に、混乱に乗じて近隣地域、さらにはイギリスなどの外国勢力が介入し、帝国は急激に衰退して行ったのです。

ムガル帝国9-5

アウラングェーブは アクバル・ムガル帝国第3代皇帝以来 ムガル帝国で進められてきたイスラヌ教徒と非イスラヌ教徒の融和政策を破棄してしまいました。 一定程度実現された信仰の自由と宗教間の平等を 破壊し、シャーリア(イスラーム戒律)の厳格な適用によって イスラームの優位に基づく秩序を復活させたのです。

その結果 イスラーム復古主義者の間ではアウラングェーブ・ムガル帝国第6代皇帝を「護教者」とする見解が主流と成っていた。

一方現代的な多元主義者は、アウラングェーブ・ムガル帝国第6代皇帝は イスラームの中からムスリムとズィンミー(イスラーム政権下における庇護民、非ムスリム人民 ヒンドゥー教徒等)の二元的関係に基づく「不平等の共存」を越えた真の多元主義が生まれる芽を摘んだという意見で 「抑圧者」と批判した。

アウラングェーブ以降 無気力な皇帝が 続出します。 政治をかえりみない皇帝の無策が イギリス東印度会社の侵略と相まってムガル帝国は崩壊の坂道を転げ落ちて行きます。

そして 現代

パキスタンでは建国の経緯からイスラーム復古主義が支流です。 シャーリアの厳格な適用は 世論の親和性が強く、アウラングゼーブ・アーラムギールは国民的英雄とされております。

他方 インドではアクバルが尊敬されている事実を考えれば その対照的な英雄感が 現代の印・パ問題を複雑にしているのでしょうか・・・・・

ムガル帝国9-6

英国東印度会社のインド侵攻

1600年、イギリスは東インド会社を設立した。 英国がインド亜大陸に最初に商船団を派遣したのは、1608年のことです。 《 1613年 長崎・平戸に商館を開設しています 》

西北インドの港スーラトに派遣したこの時、ムガル帝国・第4代君主ジャハーンギールから有利な条件で貿易を行う許可を獲得していた。 この地を拠点に交易事業を本格的に開始した。

また、1639年には、マドラス(ベンガル湾 印度亜大陸東海岸)の地方領主の招聘を受け、東インド会社は 要塞の建設が認められると同時に、イギリス東インド会社のマドラスにおける貿易において、

関税は免除されると同時に、他の会社がマドラスで貿易行った場合には、イギリス東インド会社に その会社に課せられる関税の半分が支払われるという条件で、インド貿易の橋頭堡を築いた。

インド国内で ムガル帝国の拡大と共に、経済的に成長したインドド商人 また ムガル帝国との交易を行っていたヨーロッパ諸国の経済活動は 英国東印度会社の前に侵食されて 急速に解体していった。

ボンベイについで獲得した主要な拠点がカルカッタです。 1702年に、カルカッタ・ウィリアム砦の建設を開始し、1717年、英国東印度会社は、ムガル帝国第9代皇帝ファッルフシヤルから、ベンガル地方における輸出関税の免除という特権を獲得した。

ベンガル地方は、当時のイギリスが求めていた産物の集散地であった。 英国東印度会社は輸出の重心を ボンベイからカルカッタへと移動して行ったのです。
うりましょう
1750年には、英国東印度会社は その交易量全体の75%を ベンガル地方で占めるようになっていたのです。 英国東印度会社はベンガル地方で覇権を確立、インド中央部に迫るのです。

約100年後 いわゆるインド大反乱9セポイの乱、第一次インド独立戦争)が起こるのです。 この時 ムガル帝国第17代皇帝、82歳の老皇帝バハードゥル・シャー2世が反乱軍のシンボルとして担ぎだされます。

当時 ムガル帝国には統治能力が無く、過日の余光を保っていただけですが、1858年、大反乱を鎮圧したイギリスは老皇帝バハードゥル・シャー2世を裁判にかけて有罪とします。

老皇帝バハードゥル・シャー2世は、ビルマへと流刑に処せられ 退位させられます。 これによりティムール王朝から数えて、500年続いた王朝は完全に消滅し ムガル帝国は350年にわたるインドにおける歴史を閉じたるのです。

次回から その 崩落のさま 無能力な皇帝のさま を書き綴りましょう・・・・・

ムガル帝国9-7

_______ 続く _____

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