ティムールの系譜“ムガル帝国”(10) 

“アルタン・ウルク/黄金の家”の正嗣が栄光 

ムガル帝国10-1

バハードゥル・シャー1世(1643年10月14日-1712年2月)はムガル帝国第7代皇帝として即位した。

第6代皇帝アウラングーゼブの子、王宮の後宮での世界しか知らなかった。 アウラングーゼブ死後、ジャーシャウの戦勝(シク教徒との戦い)を経て1707年帝位を継承したが、

即位したときには既に64歳と老齢であった。 彼に対して、シク教徒の指導者であるバンダ・バハードゥルが挑戦 独立運動を繰り広げた。

シク教団は、先帝・ムガル帝国第3代皇帝アクバル大帝の保護を獲得したが、アムリトサルを拠点に事実上の自治国を要求、 バハードゥル・シャー1世ムガル帝国第7代皇帝は 抗しきれずに自治を認めている。

しかし シク教団の独立運動は 1715年に バンダ・バハードゥルがムガル帝国との戦いに敗れ、処刑された事により 終焉した。

この後 シク教徒が治めていた地域は、小規模の国家群に分裂し その勢力はムガル帝国の官僚として生き残っていきますが この事件の折には バハードゥル・シャー1世は亡き人でした。

異教徒勢力の離反で帝国の支配は弱体化していった。 1712年 バハードゥル・シャー1世ムガル帝国第7代皇帝は ラホールにて死去し、長子ジャハーンダール・シャーが帝位を継いだ。

ジャハーンダール・シャー(1664年-1713年2月11日)がムガル帝国第8代皇帝に即位した。 第7代皇帝バハードゥル・シャー1世1世の長男です。

父の死後1712年帝位を継承したが、程なくして1713年 デリーにて死去し、弟アジーム・ウシュシャーンの皇子ファッルシヤルが帝位を継いだ。

尚 後年に ジャハーンダール・シャーの皇子(1699年誕生)アラームギールがアラームギール2世として ムガル帝国第14代皇帝に即位します。

ムガル帝国10-2

ファッルシヤル(1683年-1719年)、ムガル帝国第9代皇帝。 父は第7代皇帝・バハードゥル・シャー1世の次男アジーム・ウシュシャーンです。 皇位継承闘争など全くなく 1713年6月11日、彼は外戚サイイド家の支持をうけて玉座を継承した。

容貌はすぐれていたが、彼は病弱で政治的判断を家臣に左右され、バーディシャー(遠祖ティムール以来伝承の君主)としての力量を十分に発揮できなかった。

これよりバーディシャーは有名無実と化した。 1719年彼はサイイド家の陰謀で廃位・幽閉され、目つぶしのうえで絞殺されてしまう。

完全に宮廷を牛耳るようになったサイイド家はラフィー・ウッダラジャードを後任とした。

ラフィー・ウッダラジャード(Rafi Ul-Darjat, ?- 1719年)は、ムガル帝国第10代皇帝(在位:1719年)

父は第7代皇帝バハードゥル・シャー1世の三男ラフィー・ウシュシャーン。 1719年 先帝ファッルシヤルが絞殺され 陰謀を企み廃位に追い込んだ外戚“サイイド家”の信任を得て ムガル帝国第10代皇帝に即位している。

しかし、イスラム教を熱心に信奉する彼は、サイイド家との確執から廃位され、帝都で暗殺されてしまった。 サイイド家の横暴が募る。 10代皇帝の弟・ラフィー・ウッダワラが玉座を継承した。

ラフィー・ウッダワラ(?- 1719年)はムガル帝国第11代皇帝(在位:1719年)。

第10代皇帝ラフィー・ウッダラジャードの弟。 (文献によってはシャー・ジャーハン2世と論証するものもみられます)。

1719年 暗殺された兄と同じく、外戚サイイド家の信任を得て皇帝に即位。 しかし最期まで兄ラフィー・ウッダラジャードと同じ轍を踏み、 同年中にサイイド家の謀略にかけられて暗殺されてしまう。 玉座は従兄弟のムハンマド・シャーが継いだ。

王庭内の さざ波は消え去ることは無かった。 サイイド家が権力を握り 歴代の皇帝は有名無実な存在と化した。

ムガル帝国6-5

ムハンマド・シャー(1702年-1748年)、ムガル帝国第12代皇帝(在位:1719年 – 1748年)が戴冠したのは 8代将軍徳川吉宗による享保の改革が日本で行われていた頃です。

第7代皇帝バハードゥル・シャー1世の皇子ジャハーン・シャーが父親。 サイイド家が推戴する自画自賛の皇帝作新劇が演出され、 1719年 バーディシャー(遠祖ティムール以来伝承の君主)の位を手にしたが、宮廷内外の混乱に頭を悩ませ、1748年に死亡してしまう。 29年間の在位期間はであった。

ムガル帝国は 国内の宗教的 また 民族的な対立。 更には 第6代皇帝アウラングェーブが、1691年に獲得した ムガル帝国最大領土を隣国に侵食されていた。

サイイド家の権勢で 従兄弟ファッルシヤル(ムガル帝国第9代皇帝)以来 ムガル宮廷は、皇帝が外戚、特にサイイド家の信任を得て即位しては そのサイド家によって廃位・暗殺され、同じ西暦1719年のうちに4人の皇帝が次々と交代して来た。

いわゆる「外戚政治」という古代ローマの軍人皇帝時代のような混乱状態に陥っていた。

ムハンマド・シャーも前の兄弟に続き、外戚サイイドド家の信任を得て即位した。 しかしその治世は、まさに前途多難の日々であった。

有力諸侯が皇帝を見捨てて地方に独立するようになり ムガル帝国は急速に解体していった。

1724年、宰相アサフ・ジャー(ムガル帝国の将軍、ハイデラバード藩王国の初代藩王)
は、皇帝が外戚に完全に牛耳られて無力となったムガル宮廷を見限って離脱する。

デカン高原のニザム領に自立。 同年 サーダト・ハーンはアウド領、次いでアーリーヴァルディ・ハーンもベンガルの所領に独立、 ムガル帝国の実質的な領土は北インドのデリー周辺に限られるようになった。

隣接のイランからも大敵が迫りつつあった。 かつて第2代皇帝フマーユーンを匿ったサファヴィー朝は完全に後退しており、 混乱に乗じて軍人出身のナーディル・シャーがアフシャール朝を創始。 1736年にサファヴィー家のシャーは廃位されていた。

アフシャール朝は東印度会社とは 誼を通じていた。 両覇権主義者は印度亜大陸に触手を伸ばしていた。

1739年、ナーディル・シャーは帝都デリーに侵攻した。 30,000人もの住民が殺し、自由気ままに略奪を 行った。

ペルシャ軍は「孔雀の玉座」を含む非常に多くの宝物を盗み、デリーは廃墟と化してしまった。

1748年 ムハンマド・シャーム・ムガル帝国第12代皇帝は失意のうちに死亡、バーディシャーの位は ムハンマド・シャーム子のアフマド・シャーが継いで行きます。

ムガル帝国10-4

アフマド・シャー(1725年12月24日-1775年1月1日)は、ムガル帝国の第13代皇帝(在位:1748年4月15日- 1754年)です。

父は第12代皇帝のムハンマド・シャーム。 1748年4月に父が死去したとき、アフマドは父・ムハンマド・シャームの命令令で ムガル軍団を率いて アフガン領内で アフマド・アブダリーが率いるアフガン軍と戦っていた。

父の死を知ると 直ちに 軍を引き 本国に帰還して即位した。 1748年4月15日です。

即位後に 遠征時の将軍・ガーズィー・ウッディーンを軍務長官に、皇子時代の師・サフダル・ジャングを宰相に任命して権力を固めようとした。

だが、アフマド自身は 父に似て後宮に籠もって女遊びに熱中になり、国政を顧みなかった。

この王庭後宮の状況下 アフマドの生母であるウドバム・バーイーが 筆頭宦官・ナワーブ・ジャウド・ハーン(先帝時代の後宮監督官)と深い関係を結んでいた。 いつしか ナワーブ・ジャウド・ハーンが実権を握ってしまった。

このようなムガル帝国の君主なき実情を見て、アフガンのアフマド・アブダリーは 1751年から1752年にかけてムガル帝国への侵入を繰り返した。

カシュミール州やムルターン州がアフガン軍によって占領され、またパンジャーブ地域でも有力な領主らがムガル帝国から離反した。 こうして ムガル帝国の領土は縮小の一途をたどるのです。

1752年8月には サフダル・ジャングとイラン系貴族(サイイド家派)がナワーブ・ジャウド・ハーンを暗殺した。 しかし、のの政変はトルコ系貴族の反感を招いて 首謀者・サフダル・ジャングは失脚を余儀なくされた。

この政変事件を傍観していたガーズィー・ウッディーン・軍務長官が 漁夫の利で実権を掌握した。

1754年6月 ガーズィー・ウッディーンは ムガル帝国・第13代皇帝・アフマド・シャーに対して宰相職を要求してこれが拒否されると、アフマド皇帝の廃位を行なったのです。

宰相に就任したガーズィー・ウッディーンは 後継者にはアフマドの父・ムハンマド・シャームの従兄にあたるアラームギール2世を擁立し、アフマドは生母のウドバム・バーイーと共に目を潰されて追放された。 また、権勢を誇っていたサイイド家を排斥している。

政変の21年後 追放先で 1775年1月、51歳で死亡しています。 埋葬地はマリヤム・アカニー廟、帝国が衰退して行く道程で起きた 君主の憐れな末路です。

ちなみに アフマド・シャーは無能な人物だったと史料で伝えられている。

アフマド・シャーは優れた知性の持ち主ではなかった。 青年期から大人になるまでの期間はずっと後宮で過ごし、国事や統治に関わることは、一切経験したことがなかった

国家行政をすっかりナワーブに委ねた。 皇帝(アフマド)は、気楽に遊び暮らしていられるこの状況を好ましいと思っていた。 皇帝がゼナーナ(後宮)を大きくしたので、

後宮は1キロ半あまりの長さになった。 丸1週間、皇帝は男と全く顔を合わさずに過ごすこともあった」 と 正史の中でも醜評されています。

盲目にされて廃位した生母・ウドバム・バーイーは 後宮を彩る踊り子だった とも記載しています。 ビダル・バフト皇子が二人が設けた正嗣です。

ムガル帝国10-5

強勢を誇ったムガル帝国も 18世紀に入ると貴族階層の没落、繁栄を支えた軍事構造の崩壊が起こった。

組織の老化でしょうか・・・・帝国の崩壊の原因は、 今一度整理してみましょう。 大きくまとめて3つに要約されると思います。

1. 新興のザーミンダール(脚注)の台頭。
2. 帝国内の小王国(脚注)の君主たちの離反。
3. 地方長官の帝国からの離反。

脚注 ; ザーミンダールとは、地方を拠点とする豪族・部族の長であり、耕作農民を支配していた。 17世紀のインドは、経済的には繁栄の時代であった。 この時代において、ザーミンダールは富の蓄積を行っている。

帝国内の小王国とは、ムガル帝国に貢納はしていたが臣下とはならなかった王国群のとです。
その領土は、地理的に険阻あるいは遠隔地であった。 次第に、多くの君主が難攻不落の要塞を建設している。 その典型はラージプートですね。

長官はもともと、帝国から行政官に任命された人々。 しかし、面従腹背の姿勢を見せる地方長官が出始めた。

その典型例は、1724年に宰相・ミール・カマルディンが職を辞し、ハイデラバードに下野し、帝国軍と戦った事例が示します。

同様のことは、アワド、ベンガルなど肥沃な地方でも起きている。 ハイデラバードを中心にニザーム藩王国が形成された。 かつての行政長官は、ナワーブ(太守)と呼ばれるようになる。

しかし、彼らは徐々に、ムガル帝国に納税をしなくなり、徴収した税金は私腹するようになる。 そして、そのまま 彼らの、地方王朝が建国されていった。

西方の外圧 イランのアフシャール朝が侵略と 常に揺さ振りを仕掛けて来たことも体制を弱体化させましたが、 領内・東方の「マラータ同盟」の隆盛 が ムガル帝国崩壊への印籠を渡してしまいます。 タマータ同盟にはヨーロッパの将校が参謀に居た。
ムガル帝国10-3

_______続く_______

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