ティムールの系譜“ムガル帝国”(12)

“アルタン・ウルク/黄金の家”の正嗣が栄光 

ムガル帝国12-1

1772年1月までに 宮廷内の混乱を なんとか抑え込んだムガル帝国・第15代皇帝シャー・アーラム2世だったが・・・・・・

イラン系貴族のミールザー・ナジャフ・ハーンが国政を掌握した。 彼は軍人政治家であり、イギリスなどの有能な士官を招聘して軍事制度の近代化を図った。

彼の改革は成功し、シーク教徒やロヒラ族など反ムガル帝国勢力を次々と駆逐してハンジャーブからジャイブルにまで及ぶ国土の回復を果たした。

しかしミールザー・ナジャフ・ハーンが1782年に亡くなると、その有力な部下4名が権力者の地位をめぐって抗争する。 シャー・アーラム2世はこの4人の抗争に対してマラータ族のマハジー・シンディアの援助を得て介入し、1784年までに平定している。

そのため、マハジー・シンディアを摂政・軍務長官に任命せざるを得なくなる。 しかし 1787年、マハジー・シンディアはラルソトの戦いでラージプート軍に大敗して 権威を急速に失う。

かたや ロヒラ族の族長であるグラム・カーディルがイスラム教徒と結託して ヒンドゥー教徒のマハジー・シンディアを失脚させた。 王庭内での権力闘争が再燃した。

国政を握ったグラム・カーディルは、第12代皇帝のムハンバド・シャーの妃であるマリカ・イ・ザマーニーと親交があった。 グラム・カーディルとマリカ・イ・ザマーニーは結託して 皇族のビダル・パフトを擁立しようとした。

ビダル・パフトは皇帝シャー・アーラム2世より若年であり、 またグラム・カーディルには 10年前にミールザー・ナジャフ・ハーン(失脚させた前任宰相)にロビラ族の城砦を略奪されていたことから 皇帝シャー・アーラム2世に報復しようと考えていたのです。

グラム・カーディルの行為は残忍で、首都デリーに4000の兵士を配置し、宦官を殺戮し、女官を犯して拷問して皇帝シャー・アーラム2世の周辺から側近を追い払った。

皇帝や皇子がこの行為に不満を述べると、彼は画家を呼び出し、

「直ちに俺(グリム)の肖像を書け。 短刀を持って、皇帝(シャー・アーラム2世)の胸にのしかかり、 奴の目を抉り出しているところをだ」と言うと、グラム・カーディルは皇帝と3人の皇子の目を潰してしまった。

しかもグラムは従者に対して、「皇帝や皇子らに食事も水も運んではならない」と命令した。 しかもグラム・カーディルは 自らの行為を正当化し、床に横たわっていた皇帝シャー・アーラム2世の髭を掴み上げると、

「わし(グリム)がこういう行為をするのも、お前が過ちを犯したからだ。 命だけ助けているのは、神の思し召しだ。  さもなければ、お前の手足を引きちぎってやるところだ」

とまで言い放った。

その後もグラム・カーディルの残忍な行為は続き、皇子らの鼻をそぎ落とした直後、治療もしていないのに踊り歌うことを命令した。

何日も放置されて遂には死亡してしまった皇族を弔うことなくそのまま埋めるように命じたりした。 また女官を部下の前で犯しては その女官を部下のアフガン人に与えたり、財宝を独占したりした。

だが、あまりに無惨な行為は部下の反発を招いて、グラム・カーディルは孤立する。 更には 1788年10月には深刻な食糧不足に陥り、グラム・カーディルはデリーから退去せざるを得なくなった。

ムガル帝国12-2

その後に、マラータ同盟・マラータ族のマハジー・シンディアがデリーに入城して復権し 宰相職に復位します。 マハジー・シンディアは 皇帝の命令としてグラム・カーディルとその一党の追討を行なった。

グラム・カーディルは5ヵ月後に殺害され、その眼球と鼻と耳が皇帝シャー・アーラム2世のもとに送られたと 史書は記載しています。

1784年、英国議会は、印度を直接統治の植民地にすることを決議した。 インド総督に 大英帝国軍・総司令官ジェラルド・レイクを派遣した。

1803年、ジェラルド・レイク総督は デリーでマラータ同盟軍(グラム・カーディルの死後、ムガル帝国を支持していたインド諸侯の連合)を破り、皇帝(シャー・アーラム2世)は以後、イギリスの保護下に置かれることになった。

同年の秋 インド支配権を事実上握ったジェラルド・レイク総督は 年老いた皇帝(シャー・アーラム2世)に拝謁したとき、あまりの没落ぶりに 涙を禁じえなかった と言います。

「偉大なアクバルやアウラングゼーブの子孫が、年老い、盲目となって、 権威を剥ぎ取られ、貧しい境遇に追いやられて、ぼろぼろになった小さな天蓋の下に座っている。

この天蓋は皇帝の威儀のかけらであり、人間の誇りの形骸である」
≪ジェラルド・レイク部下の記述より≫

ムガル帝国・第15代皇帝シャー・アーラム2世は 1806年11月10日、79歳でその生涯を閉じた。

埋葬地はバフティアル・カー聖廟の近くにあります。 跡を子のアクバル・シャー2世が継いだ。

シャー・アーラム2世の時代に英国のインド支配が確立したといってもよいでしょう。 だが アーラム2世がイギリスに送った書簡

「強者が弱者を支配し、欺瞞と策略に満ちたこの時代にあって、余がその務めや忠誠心を信頼できる者は、イギリスの長官以外は誰1人いない」と心情を吐露しているようにシャー・アーラム2世自身は それをむしろ頼りにしていたのでしょう。

成吉思汗・ティムール・バープル・アクバル・アウラングゼーブと流れ来た“黄金の血統”の正統なバーディシャー(正統の君主)として あまりにも純粋すぎた いや 時代が大きく変革する巨大なエネルギーに飲み込まれてしまったのでしょう。

ムガル帝国・第15代皇帝シャー・アーラム2世の宗室
; アーラムギール2世(父、第14代皇帝) ズィナト・マハルル(母)

アクバル・シャー2世(長子、第16代皇帝)  ジャワン・バフト(第二子)
スレイマーン・シュコー(第三子)         アフサン・バフト(末子)

ムガル帝国12-3

アクバル・シャー2世(1760-1837年)が、ムガル帝国の第16代皇帝(在位:1806年 – 1837年)の座に登った。

ウルドゥー詩に長じた文学者でもあった。 1806年に父シャー・アーラム2世の死をうけて即位し、1837年に死去するまで帝位にあった。 ミールザー・アクバルともよばれる。

先帝シャー・アーラム2世の晩年より ムガル帝国はすでにデリー周辺を支配するだけの小勢力となっていた。 一方でシク教国やマラータ族、ラージプート族を制圧しつつあった英国東印度会社の勢力が増大していた。

そんな中、宮廷ではウルドゥー語を用いた文芸活動が流行し、ムガル皇帝・皇族たちもまた数々のウルドゥー詩を詠んだ。 アクバル・シャー2世も例外ではなく、政治を諦め、一地方勢力としてそこに落ち着き、詩作にふけって日々を送っている。

ムガル帝国の存在が形骸化する一方で、イギリスの統治勢力は確実に勢力を増大させ、1818年には帝国にとって長きにわたり目の上のたんこぶとなっていたマラータ王国を滅ぼした。

イギリスの植民地支配は印度亜大陸全域に拡大して行く。 20年後にはムガル帝国本体に攻撃の矛先が向けられることになるのです。

1837年 ヒンドゥー教徒の勢力と列強諸藩の勢力が入り乱れた。 アクバル・シャー2世ムガル帝国・第16代皇帝は なす術もなく 帝国の権威を回復する術も見当らず、混乱する帝国を座視して 77歳で死亡した。

帝位は子のバハードゥル・シャー2世が そのまま引き継いだ。

インド内部は デリー周辺以外の各地で 地方勢力や欧州列強が入り乱れる沈滞した社会となっていた。

ムガル帝国12-4

バハードゥル・シャー2世(1775年10月24日-1862年11月7日)が、実父である先帝アクバル・シャー2世の死をうけて、 ムガル帝国・第17代皇帝(在位:1837年 – 1858年)戴冠した。

1837年、バハードゥル・シャー2世は62歳の高齢で帝位を継承したのです。 この頃すでにムガル王朝の権力はデリー周辺にしか及ばず、デリー以外の各地域は ムガル政権以外の地方勢力やイギリス東インド会社を筆頭に欧州列強が入り乱れる沈滞した社会となっていた。

特に、1757年のブラッシーの戦い(ベンガル・カルカッタ北部)でフランスからインド植民の権利を勝ち取ったイギリス東インド会社の勢力は、インド半島全域で大幅に拡大してきていた。

そんな情勢の中、 1784年に大英帝国の国策企業となったイギリス東インド会社は 1845年から1849年にかけてシク戦争を起こしてシク教国を滅ぼし、いよいよ英国が印度全体の支配者になろうとしていた。

ムガル帝国の衰退に乗じてイギリス東インド会社がインドにおいて勢力を拡大していた。 そのイギリスにとって精強な洋式軍隊を抱えていたシク教国は脅威であった。

強力な指導者・ラジプート・シング(ラジット・シン)を失って内乱を起こしていたのを侵略の好機とばかりに 1845年から侵攻を開始し 第一次シク戦争を起こした。

シク教国では さすがに内紛をひとまず収束させて イギリス軍と戦ったが、内紛の傷跡は深刻で連携がとれず、また強力な指導者を欠いていたために 1846年のソプラーオンの戦いでイギリス軍団に敗れてしまった。

ラホール条約を締結して降伏・講和することを余儀なくされています。 この条約でシク教国はカシミール地方をイギリスに譲渡し、またイギリスの駐在官を受け入れその施政を受けることを余儀なくされたのです。

《 現在、カシミール地方は外国人は入域禁止ですが、 山仲間の遭難、家内との旅、放浪の旅 など 私は四度訪れている。

20世紀初頭に活躍した探検家の多くはスリナガールを基地にしています。 彼等は当地域に駐在した武官でした。 大谷瑞光探検隊も 当地でイギリスの関係所管に 世話に成っています。

この地は印度のスイス 当時の建物がホテルに成り、インド国内の富豪が集まります 》

このため シク教国で反英感情が高まり、1848年にイギリスに対して反乱を起こした(第二次シク戦争)。

だが、一次と同じく強力な指導者を欠いていたシク教国軍は連携が取れず またしも イギリス軍に敗れ、 残りの領土を全てイギリス領として併合された上 イギリス本国の命令で小国に分割され、植民地となり、シク教国は事実上 滅んだのです。

ムガル帝国12-5

いよいよ 大英帝国が インド全体の支配者になろうとしていた。 沈滞した社会の中、イギリス東インド会社の抱えるセポイ(傭兵)の間では、奇妙な噂が流れた。

イギリスス軍では 新たにエンフィールド銃が導入され、その銃が 彼ら・セポイ(傭兵)にも配給されるというのです。

そのエンフィールド銃の薬莢の紙袋には、インドの気候でも 最低3年は乾ききらないといわれていた牛と豚の脂が濃厚に塗ってあった。

当時の弾薬は薬莢を口で噛み切らなければつかえなかったので、もしこのような銃を用いるとしたら、セポイ達は戦闘時に宗教的禁忌を犯すことになります。

彼らはついに怒って 反乱の狼煙を上げ、セポイの乱という緊急事態に至った。

= 乱文にお付き合い下されありがとう、 拙文【ティムールの系譜“ムガル帝国”】はこの節にて筆を置きます。

 引き続く 【ジンギスハーンの系譜(五部・50節)】をもお付き合い下さい =

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