成吉思汗・ジュチ一党の覇権 (2) 

“アルタン・ウルク/黄金の家・ジュチ家”の正嗣が栄光 

ジュチ一党2-1

【 12世紀の世界 】

ジュチ一党2-2

【 チンギス・ハーンの世界 】

・・・・ 前記載の紀行記に 一部 記述済みですが ・・・・・

2004年にオックスフォード大学の遺伝学研究チームは、DNA解析の結果、チンギス・ハーンが世界中でもっとも子孫を多く残した人物であるという結論を発表した。

ウランバートル生化研究所との協力によるサンプル採取と解析の結果、彼らによれば、モンゴルから北中国にかけての地域で男性の8%、およそ1300万人に共通するY染色体プロポタイプが検知出来たという。

この特徴を有する地域は中東から中央アジアまで広く分布し、現在までにそのY染色体を引き継いでいる人物、すなわち男系の子孫は1600万人にのぼるとされる。

研究チームはこの特有のY染色体の拡散の原因を作った人物は、大蒙古帝国の創始者チンギス・ハーンであると推測している。

この研究を主導したひとりクリス・ティラー=スミスは、チンギス・ハーンのものと断定する根拠として、このY染色体は調査を行った地域のひとつ、ハザラ人やパキスタン北部のフンザの例をあげている。

フンザではチンギス・ハーンを自らの先祖とする伝説があり、この地域はY染色体の検出が特に多かったという。

さらに、彼は東洋で比較的短期間に特定のY染色体を持つ人々が広がった根拠として、これらの地域の貴族階級では一夫多妻制が一般的であり、この婚姻習慣はある意味で、生殖戦略として優れていたためではないか、と述べているのです。

ジュチ一党2-3

オックスフォード・アンセスターズの遺伝学者ブライアン・サイクスも 2003年に出版した著書『アダムの呪い』で上記の研究を紹介しているが、「状況証拠は有力だが、残念ながら証明はできない」としながらも、検出されたY染色体についてチンギス・ハーンのものであるとほぼ断定している。

同氏は人類の繁殖と拡大にはY染色体による男性の暴力的な性格や支配欲が密接に関係しているとする見解に立っており、チンギス・ハーンに対する人物評についても

「チンギス・ハーン本人が、みずからのY染色体の野心によって突き動かされ、戦でも寝床でも、勝利することになった」という見方をしている。

また、女性の意に添わぬ交渉では男児が生まれ易い、とする見解も述べている。

これら同氏の議論に対しては、「英国人のアジア系遊牧民への人種的民族的偏見・羨望」に基づいているという批判もされていますが、

同書で大蒙古帝国やチンギス・ハーンについて、『集史』や『元史』といったチンギス・ハーンの親族情報についての歴史文献学的な研究や、

モンゴルの当時の部族社会や家族形態、婚姻習慣、モンゴルにおける女性の地位などの文化人類学的な研究などが 緊急に充足する必要があると 諸学会で言及されるべき と言及している。

・・・・・ある日、チンギス・ハーンは重臣の一人であるボオルチェ・ノヤンに「男として最大の快楽は何か」と問いかけた。

ノヤンは「春の日、逞しい馬に跨り、手に鷹を据えて野原に赴き、鷹が飛鳥に一撃を加えるのを見ることであります」と答えた。

チンギスが他の将軍のボロウルにも同じことを問うと、ボロウルも同じことを答えた。

するとチンギスは「違う」と言い、「男たる者の最大の快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その馬に跨り、その女と妻達を抱きしめることにある」と答えた。・・・・・モンゴル帝国史 より・・・・・・

ジュチ一党2-4

思いは計れば、モスクワ公はチンギス・ハーンの長子ジュチの皇子・バトゥが支配した領土内の一君主。

モスクワ公は蒙古支配に融合して バトゥ政権が命ずる諸税を納め、また 近郊の諸君主からの税金を統括してきた家柄です。 当然 ロマノフ家にはチンギス・ハーンの血が入っている。

そして ロマノフ王朝と婚姻関係にある ヨーロッパの王家にも流れているでしょう。
チンギス・ハーンの長子ジュチは 譲り受けた領地・ジュチ・ウルスの統治を確立する前に 若くして他界した。 40歳前後であったろう。

1224年、父・ジュチの死により バトウがジュチ家の当主となった。 17歳の若き君主です。

異母兄オルダは病弱がちだったため、次男で母の家柄もよかったバトゥが当主となった。 オルダの母もバトゥの母も同じコンギラト部族の出自であったが、バトゥの家督継承には彼の母オキ・フジンがコンギラト部族の宗主アルチ・ノヤンの娘であったことも大きく関係していたのでしょう。

チンギス・ハーンの正妃筆頭ボルテ(ジュチの母)はアルチ・ノヤンの妹であるため、ジュチにとって従姉妹にあたります。

ジュチの息子たちは総勢40人以上いたと言われています。 上記図を参照すれば 14世紀初頭までに子孫を残した有力な嗣子たちは、バトゥの他に

長子で異母兄のオルダ バトゥの死後にジュチ家の家督を継いだ3男・ベルケ シャイバーニー・ハーン家などの遠祖となった5男シバン

アストラハン・ハン国とウルグ・ムハンマヅ・ハーンのカザフ・ハン国、クリミヤのハージー・ギレイ家などの祖となった13男トカ・テルム など14人が知られています。

現代の中央アジアの諸国は チンギス・ハーンの末裔がモザイク模様で形成しているのです。 13男トカ・テルム家は18世紀末のロシア革命まで続いていたのです。 現代においても 皇族・貴族として その権勢は衰えていない。

また、バトゥは長子ジュチの後継者とされていたため、祖父チンギス・ハーンの命によって 孫の世代を総覧する任にあったのです。

後年 このチンギス・ハーンの命が 大西洋の岸まで バトゥをヨーロッパ遠征軍の総指揮官として 蒙古軍団を率いて行こうと リーダーシップを発揮させるのです。 壮大な夢です。

Triglav Sunset

バトゥには4人の息子たちがいた。 サルタク、トクカン、エブゲン、ウラクチです。

長子サルタクはバトゥが死去したとき モンケ(チンギス・ハーンの末子・トルイの長男)の宮廷にいたため、モンケは彼にジュチ家の家督を認証したが、ジュチ・ウルスへ帰投する途中で病没した。

かわりに4男で幼少の末子のウラクチに家督を継がせるよう勅が下った。 しかし ウラクチは程なく夭折し、実質的にウルスを統括していたバトゥの次弟ベルケへの家督継承が勅によって認証された。

以後のバトゥの血筋は次男トクカンと3男エブゲンに引継がれ、ベルケの死後にトカカンの次男モンケ・テルムがジュチ・ウルスを相続することとなっていく。

また、バトゥには 一人のハトゥン(皇后妃)と妻妾がいた。 バトゥの正妃筆頭であったアルチ・タタル部族のボラクチン・ハトゥンがただ一人のハトゥンです。

他にオイラト部族の首長トレルチの娘であったベギ・ハトゥンがいたことが分かっていますが、チンギス・ハーンの家として特異です。

このベギ・ハトゥンの姉妹には、チャガタイ家(チンギス・ハーンの次男)の当主カラ・フレグに嫁いだオルクナ・ハトゥンや、フレグ(チンギス・ハーンの末子・トルイの三男)の第四正妃オルジョイ・ハトゥン、 また バトゥの次男トクカンに嫁ぎ、モンケ・テルム、トダ・モンケの母となったコチュ・ハトウンがいます。

後年 オイラト部族の首長トレルチの血筋がチンギス・ハーンの血統と覇権を争う時代がくる。

ジュチ一党2-6

バイカル湖の南域で遊牧生活を送っていたチンギス・ハーン家が地域政権を確立し、その政権維持のために、新領地を拡大して行った。 遊牧民の生活には豊潤な草原が必要なのです。

遊牧民は生活そのものが 騎馬・射的・移動など 戦争行為の訓練でしょう。 優秀な指導者が民を組織化し 軍事化すれば 遊牧民は“一騎当千”の戦闘機パイロットです。

近代兵器(蒙古馬はその持久力で各段と優秀だった)と天性の兵士が 組織的な訓練を積んで挑んだ戦いは 各地で圧勝した事でしょう。 遊牧民同士の戦いなら指導者の力量が その勝敗を決めるでしょう。

勝利の戦いの後 指導者は当然 公平な報償を与えなければなりません。 遊牧民の掟です。

チンギス・ハーンの覇権は指導者としての才覚以上に 従う者を心服させる公平さにあったのでしょう。 しかし 征服され 財貨や豊潤な郷土を奪われた者達には 侵略者の哲理など悪魔の行為以外のなにものでもない。

バトゥの遠征軍の直接的脅威にさらされたヨーロッパ諸国の記録や、特に16世紀後半に中央アジア進出を開始するまで、ジュチ・ウルスの服属支配を受けたロシアにおいては、

バトゥの性格は極めて激しく、敵には容赦ない残虐性を持っていた人物とみなされている。

政敵はことごとく暗殺、戦場では敵を皆殺し、降伏してきた敵方の貴婦人300人を素っ裸にして首を刎ねるなど数々の処刑も行った「タタールのくびき」を体現した人物として、バトゥは悪逆非道な暴君として書かれている。

13世紀中頃にトランシルバニアからロシア草原に出てバトゥの宮廷およびカラコルム(大蒙古帝国の首都)を訪れたローマ教皇遣使ブラノ・カルビニのジュヴァンニ(カラコルムにてフレグ皇帝に謁見)も「偉大なる君主であるが、都市を容赦なく破壊する暴君でもある」と評している。

しかし、バトゥは 軍事においては、数々の困難な戦いに打ち勝ってきた。 モンゴル帝国が短期間でヨーロッパにまで勢力を拡大できたのは、バトゥの功績によるところが大きいのです。

バトゥは戦場では極めて果断かつ苛烈であった。 これは『元朝秘史』、『集史』などでチンギス・ハーンが説き求めているモンゴル帝国の君主の徳目として、

同胞や味方に対しては極力寛大に振るまい 物惜しみなく報賞を与えることを第一とし、

また、降服を拒む民や反逆する民に対しては容赦無く殲滅すべく敵に対しては妥協のない処置に望むことが美徳とされていた帝王学の「チンギス・ハーンの金言」に忠実な人物だったと言える。

支配者側 また 服従に甘んじた民は バトゥは 優れた人物で、人民に対しては寛大で宗教に対しても融和的な政策を採用して国家の安定を図り、モンゴル人からは「サイン・ハン(偉大なる賢君)」とまで称されている。

モンゴル人以外の歴史家からも、バトゥは軍人としても為政者としても高く評価されているが、ヨーロッパ遠征中にオゴディ家のグユンやチャガタイ家の諸子らと 犬猿の仲になったことが、後のモンゴル帝国分裂の一因を成すのですが・・・・・・ さて、バトゥの軌跡を追いましょう。

_______ 続く _______

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