成吉思汗・ジュチ一党の覇権 (3) 

“アルタン・ウルク/黄金の家・ジュチ家”の正嗣が栄光

バトゥ(在年;1207年 – 1256年) は、ジュチ家の第2代当主(ハン在位;1225年 – 1256年)

    キプチャック・ハン国(ジュチ・ウルス、金帳国)の実質的な創設者

チンギス・ハーンの長男・ジュチの次男

ジュチ一党3-1

バトゥは、1236年春2月、モンゴル帝国第2代ハーン・オゴデイの命を受けて ヨーロッパ遠征軍の総司令官となった。

四狗の一人であるスブタイやチンギス・ハーンの4男・トルイの長男であるモンケ、そしてオゴデイの長男であるグユクらを副司令として出征した。

 第2代ハーン・オゴデイは領民に、皇族・貴族に、将軍・武官にヨーロッパ遠征軍への参軍を布告している。

『元朝秘史』には、各王家の長子クラスの皇子たち、また領民を持っていない皇子たち、さらに
「万(戸)の、千(戸)の、百(戸)の、十(戸)のノヤン(義兄弟)たち、 多くの人は誰であっても 己が子の兄たる者(長子)を出征させよ。 王女たち、その婿どのたちは 同じようにして 己が子の兄たる者(長子)を出征させよ」 と記している。

ジュチ一党3-2

尚、参考として・・・・

 チンギス・ハーンの4頭の駿馬 ;チンギス・ハーンを支えた将軍達

ムカリ ; ジャライル部の人。 チンギス・ハーンのモンゴル高原統一に大きな功績をあげた。 1206年、モンゴル左翼(東部)の万人隊長(万戸長)に任命され、チンギス・ハーンの金遠征でも活躍した。

チンギス・ハーンのホラズム遠征にあたっては東方に残され、太師・国王の称号を与えられるとともに「五投下」と呼ばれるモンゴル高原東南部の5部族(ジャライル部、コンギラト部、ウラウト部、モンクト部、イキレス部)を配下につけられて中国の攻略を担当した。

ムカリの子孫が支配するジャライル部他五投下は、第4代モンケ・ハーンの時代に モンケの弟・第5代ハーンとなるクビライに附属され、クビライの権力奪取に貢献、元王朝における有力貴族の家系となった。

ボオルチュ ; アルラト部の人で、チンギス・ハーンの最初の側近。 少年時代のテムジン(チンギス・ハーン)が馬泥棒にあったとき、テムジンに馬を貸して 追跡を助けたとき以来の友人である。

チンギス・ハーンのモンゴル高原統一にも功績をあげ、右翼(西部)の万人隊長に任命された。

右翼を率いて主に中央アジア方面を担当し、金やホラズムへの遠征にも随行した。

チラウン ; スルドス部の人。 父ソルカン・シラは テムジンの怨敵タイチウト部の遊牧集団に加わっており、少年時代のテムジンがタイチウトに捕えられたとき、チラウン父子は彼をかくまって逃1してやった。

ソルカン・シラはタイチウト部がモンゴル部に滅ぼされた後 チンギス・ハーンに迎えられ、千人隊(千戸)を与えられた。

チラウンは数々の戦役に従軍して功をあげ、父の死後千人隊を引き継いだが、外征にあまり活躍することなく早くに没した。

ボロクル ; ボロウルとも言う。 フウシン部の人。 チンギス・ハーンがジュルキン部を討伐した際、幼子だったが拾われて チンギス・ハーンの母ホエルンに育てられた。

若くして数々の戦功をあげたが、1217年にモンゴル高原北東の森林地帯に住む狩猟民トマト部の討伐において戦死した。

2012

チンギス・ハーンの4匹の狗 ;チンギス・ハーンを支えた智将達

ジェベ ; ベスト部の人で、はじめ チンギス・ハーンの宿敵タイチウト部に属していたが、タイチウトがチンギス・ハーンに滅ぼされた後 チンギス・ハーンに投降して仕えた。

元々はジルゴアダイという名前であったという。「鏃」を意味するジュペの名は、タイチウトとモンゴルの戦いで ジュペがチンギス・ハーンの乗馬を正々堂々と射たことからチンギスに与えられたと言う。

チンギス・ハーンの遠征において先鋒を務めて戦功を重ね、1218年には西遼を乗っ取ったナイマン部の王子クチュルクを討つ功績をあげた。

ホラズム遠征ではモンゴルの侵攻を受けたホラズム・シャー・アラーウッディーン・ムハンマドを追撃してイランに入り、そこからグルジアに出てカフカスを抜け、ルーシ(ロシア)まで達し、ルーシ諸侯の連合軍を破ったが、キプチャク草原を通ってモンゴルに戻る途上で病死した。

ジェルメ ; ウリヤンハイ部の人で、スブタイの兄。 ボルチェとともにチンギス・ハーンに早くから仕え、側近として活躍した。

タイチウトとの戦いでチンギス・ハーンが毒矢を受けたときは、毒を吸い出して看病したという。

スブタイ ; ウリヤンハイ部の人。 ジュルメの弟で、兄に続いてチンギス・ハーンに仕えた。 兵数10分の1の完顔陳和尚の金軍に負けたこともあるが、

数々の戦功をあげて勇士として知られ、ホラズム遠征ではジュベとともにルーシまで達する別働隊を率いた。 のちに バトゥのヨーロッパ遠征にも従軍する。

クビライ ; バルラス部の人で、早くにチンギス・ハーンに仕えた。 モンゴルル統一に貢献して「四匹の狗」に数えられ、中央アジアのカルルクを討ち、オアシス諸国を帰順させる功をあげた。

ジュチ一党3-3

バトゥのーロッパ遠征軍は 皇帝・オゴディが自らの布告とあって、帝国全土の王侯・部衆の長子たち、彼等は 次世代のモンゴル帝国の中核を担う嗣子たちが出征するという甚だ大規模なものだった。

バトゥは遠征軍に参軍する皇子たちを統括し、皇太子・グユクはそのもとで皇帝オゴデイの本営軍から選抜された部隊を統括するよう勅命がくだっていた。

『集史』によれば、チンギス・ハーンの功臣筆頭のボオルチェの世嗣ボロルタイが このバトゥの本営・中軍の宿将としてこれを率いていた。

この遠征では前述のとおり各王家の当主クラスの皇子たちが出征した。 ジュチ家からは総司令バトゥを筆頭に、その異母兄オルダと異母弟ベルケ、シバン、タングト。

チャガタイ家からは チャガタイの長子モエトゥゲンの次男ブリ、その叔父にあたるチャガタイの6男バイダル。

オゴデイ家からは長子グユン、その末弟カダアン・オグル。

トゥルイ家からは長子モンケと7男ボチェク。

そして チンギス・ハーンとその次席皇后クラン・フジンとの子であるコルゲン。

等々、この時バトゥが率いた兵力は、4個千戸隊(約1万人)だったと推定されている。

遠征軍の征服目標はジュチ家の所領西方の諸族、アス、ブルガル、キプチャクの諸勢力、ルース、ポーランド、ハンガリー方面であり、「ケラル」と称されるおそらくさらに西方のドイツ、フランス方面までも含まれていたと思われる。

陳舜臣さんは『チンギス・ハーンの一族』に この遠征軍には 十字軍の脱落者が数名 バトゥの参謀として従軍していた と 書かれています。 ドイツ人とイギリス将校です。 後に話しましょう。

2073

1235年、ハンガリーのドミニコ会托鉢修道士ユリアヌスは、東方の故郷に残ったとされるマジャール人を探すためウラル山脈方面へと旅に出て、

チュルク系遊牧民ブルガール人がヴォルガ川中流域に建てた国家ヴォルガ・ブルガールにたどり着いた。

彼はヴォルガ・ブルガールの首都から数日の場所にマジャール人らしき人々がいると教えられ、その人々と会い会話がかろうじて通じることを確認したという。

マジャールの故郷を確認したユリアヌスは、「タタール」という東方の恐ろしい民族の噂を聞きながらハンガリーへ戻り、

2年後 ヴォルガ・ブルガールを再訪した。 しかし、そのときにはすでに廃墟しか残っていなかった。 ユリアヌスは、ハンガリーに「タタール」の危機が迫っていることを知らせるために急いで戻ったという。

ヴォルガ・ブルガールが モンゴル人の軍団と遭遇したのは1223年のことであった。

スブタイおよびジュベの率いるモンゴル帝国軍は、ホラズムを出て カフカスを迂回し、キプチャク草原に入り、5月31日のカルカ河畔の戦い(現在のウクライナ東南部ドネッィク州付近)でルーシ諸国とキプチャクの連合軍を大敗させた。

この時点で、チンギス・ハーンの軍は負け知らずであった。

蒙古軍団は 分隊をヴォルガ川を遡ったところにあるヴォルガ・ブルガールへと派遣した。

しかし その年の秋、ヴォルガ・ブルガール南部のケルネク(現在のサマーラ州、ヴォルガガ川屈曲部付近)で、ヴォルガ・ブルガールはモンゴル軍を大敗させた(ケネスクの戦い)。

ブルガールの王、ガブドゥッラー・チェルビル率いる軍は、モルドヴィン人の公であるブレシュ 及び ビルガスz)の軍と連合し、スブタイ軍を待ち伏せして さんざんに打ち破ったという。

この戦いの後、モンゴル軍は中央アジアに戻り、ブルガールには戻らなかった。

しかし モンゴル軍は1229年、ククダイとブベデの指揮の下、再びブルガールに侵攻してきた。

この戦いでは、モンゴル軍は ウラル川のブルガールの前哨を破ってウラル上流の渓谷を占領している。

1232年には、モンゴル騎兵軍が バシキリア南東部を征服し、ヴォルガ・ブルガールの南部をも手に入れた。

この危機にあたって内戦を続けていたヴォルガ・ブルガールの武将や首長たちは、共通の敵に対して連合を組むことに失敗していた。

そこへ 1236年の大規模侵攻が起こる。 バトゥ率いるヨーロッパ遠征軍が イリ渓谷(新疆、天山山脈北部)を出てまず ヴォルガ・ブルガールに襲い掛かり、首都ビリャルに45日間にわたる攻城戦を展開、これを陥落させ市民数万と守備軍を全員処刑した。

さらに ブルガール、スアル、ジュケタウをはじめ、主だった都市や要塞を陥落させた。

住民の多くは殺されるか奴隷に売られていった。 ブルガールの武将たちは次々とモンゴル軍に帰順した。

托鉢修道士ユリアヌスが 再訪して 荒廃した国土に驚愕したのは このころです。

研究によれば、この征服活動でヴォルガ・ブルガールの人口の8割が殺されたというのです。 残った人口の多くは北へ移動した。

モンゴル襲来以前の都市のすべてが廃墟になったわけではなく、ブルガールやジュケタクなどの都市は 再建され交易の中心となったものの、往時の人口や繁栄は取り戻せなかった。

ブルガール人が住んでいたステップ地帯には、キプチャク人やモンゴル人などの遊牧民が代わって移り住み、農地が放牧場に変えられ、農業は衰退した。

ジュチ一党3-5

_______ 続く _______

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