成吉思汗・ジュチ一党の覇権 (4) 

“アルタン・ウルク/黄金の家・ジュチ家”の正嗣が栄光 

ジュチ一党4-1

1236年春2月、モンゴル帝国第2代ハーン・オゴデイの命を受けて モンゴル帝国の次の時代を担う皇族・諸侯・部族長の若者たちが西に向かった。

アルタイ山脈は南 ジュンガルを渡り、天山山脈北麓を西に進み 海抜4000余メートルの峠を越えて イリ渓谷に進んで行った。

平時において、モンゴル帝国内の遊牧民は 千人隊は1,000人、百人隊は100人、十人隊は10人の家長を統括責任者として 組織していた。

千人隊長は十人の百人隊長を収握し、百人隊長は十人の十人隊長を収握する十進法で社会構成を組織化していた。

この組織構成は 兵士を動員することのできる軍事単位としても扱われ、その隊長たちは戦時に 彼が収握する員数の兵士を引率して参集しなければならない責務を負っていた。

例えば、 ジュチがチンギス・ハーンからジュチ・ウルスを分与された折 5000人隊が与えられている。 5000家族と共に、蒙古高原中央部からアルタイ山脈西方の新天地に ジュチたちは移動し 新領土建設に励んだのです。

戦時においては、 この千人隊長がモンゴル帝国軍の将軍となるよう定められていた。 チンギス・ハーンが定めた軍法です。

また 各隊の兵士は遠征においても家族と馬とを伴なって移動し、一人の乗り手に対して3 – 4頭の馬を準備する事。 兵器は各自を携える事。 兵糧は百人隊長が滞りなきよう賄う事 とうも定められていた。

このために 移動・進軍する兵士たちは 日常生活の延長に戦いがあり、消耗していない馬を移動の手段として利用できる態勢になっていた。

そのため、大陸における機動力は当時の世界最大級となり、爆発的な行動力をモンゴル軍は生活の中に秘めていた。

チンギス・ハーンが健在の頃には、千人隊は高原の中央に遊牧する皇帝直営の領民集団を中央として左右両翼の大集団に分けられ、左翼と右翼には高原統一の功臣ムカリとボオルチェがそれぞれの万人隊長に任命されて、統括の任を委ねられた。

モンゴル帝国第2代ハーン・オゴデイの時代 ヨーロッパ遠征に向かう軍団は ジュチ家の家督を担うバトゥが
統括の任・総指揮官であるが、第2代皇帝ハーン・オゴデイの指揮下であり

オコデイ家、チャガタイ家、トルイ家の各々の皇子は 腹中に己が利害を秘めて参戦していた。

千人隊長ははともかくとして、 多くの百人隊長は戦勝で勝ち取った新しい土地に住みつき、蒙古高原には再び 帰らなかった。

新しい領土の所有権は統括の任・総指揮官であるバトゥが権限で公平に差配される。 千人隊長は 戦いへの貢献度に応じる益を 十二分に甘受して、帰国の途に就く。

遊牧民の指導者にとって、千人隊長にとっては 外部への侵略と占有は 領民を富ませる有効な手段と成っていた。

ジュチ一党4-2

遠征軍はこの年の夏中を移動で過ごし、秋までに当時のジュチ家のオルド(幕営・宮廷地)があったイリ方面≪イリ渓谷、前記載写真≫にまで到着した。

1236年から1237年までの冬季に、遠征軍はまず アス人とブルガリアブ人の征服に取り掛かった。

宿将スブタイはヴォルガ・ブルガール地方に入るとブルガル市を攻撃。 その首長バヤン、ジクらが 遠征軍のモンゴル王侯らに帰順を表明してきた。

スブタイがこれらの服属工作を任され、これを達成している。 スブタイは やはり チンギス・ハーンの“4匹の狗”です。

1237年の春、遠征軍はキプチャク草原全体に囲い込み作戦を実施にし、左翼をモンケに任せた。

モンケの左翼軍はカスピ海沿岸を進軍し、キプチャクの有力首長バチュマンとアスの首長カチャル・オグラと交戦、捕殺した。

遠征軍はこれによりカスピ海沿岸地域で夏営した。 この時期にカスピ海沿岸からカフカス北方までの地域にいたブルタス族、チュルケス族、サクスィーン人)アストラハン周辺)などが帰順・征服された。

ジュチ一党4-4

モンゴル軍のキプチャク草原への侵攻は 1229年、スブタイとジュベの指揮の下、ブルガールに侵略した事に始まる。 この侵攻は 1221年に開始されたチンギス・ハーンの親征の一環であった。

中央アジアの中枢トランスオクシアナを支配するホラズム・シャー朝への詰問に端を発する戦いで ホラズム・シャー・アッラーウッデーン・ムハンマド皇帝はカスピ海西岸方面に逃亡した。

スブタイとジュベはホラズム・シャー皇帝を追撃し、見失う。 他方 ホラズム・シャー皇帝は幾ばくかに従者と共に、カスピ海の孤島に逃れが、死亡する。

スブタイとジュベはカスピ海を一巡して帰還するが、その帰路途中にて ジュベは病死してしまった。 戦勝記念として ジュベはチンギス・ハーンに白馬100頭を送ったと言います。 白馬一頭は100頭の馬に相当するのです。

そして 1232年には、再び モンゴル騎兵軍がバシキリア南東部を征服し、ヴォルガ・ブルガール地方の南部をも手に入れた。

この危機にあたって内戦を続けていたヴォルガ・ブルガールの武将や首長たちは、共通の敵に対して連合を組むことに失敗していた。

そこへ 1236年の大規模侵攻が バトゥ率いるヨーロッパ遠征軍がイリ渓谷を出て まず ヴォルガ・ブルガール地方に襲い掛かり、首都ビリャルに45日間にわたる攻城戦を展開、これを陥落させ市民数万と守備軍を全員処刑した。

さらに ブルガール、スアル、ジュケタクをはじめ、主だった都市や要塞を モンゴル軍は陥落させた。

住民の多くは殺されるか奴隷に売られていった。 ブルガールの武将たちは次々とモンゴル軍に帰順した。

しかし モンゴル軍がヴォルガ・ブルガール地方を離れてルーシ(ロシア)侵攻に着手すると、帰順したはずのヴォルガ・ブルガールの武将らは反乱を起こした。 バヤンとシクは反乱を起こし 西走した。

また キプチャクのオルベルリ部の首長バチュマンも ヴォルガ流域で盛んに反乱を起こした。 包囲網を引いた バトゥ、モンケ、スブタイらにせいあつされた。

ヴォルガ・ブルガール地方はジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国、金帳汗国)の一部に編入され、ジュチ・ウルスの支配下でいくつもの公国に分割されてしまった。

以降 これら小さな公国はおのおの自治を享受し、ジュチ・ウルスへの貢納を行う属国となった。

14世紀半ば、ブルガール人貴族が統治するヴォルガ・ブルガール地方のいくつかの公国はジュチ・ウルスからの独立性を高め、独自硬貨を作るまでになります。

1420年代には カザン・ウルス(カザン公国)が半独立状態になり、ジュチ・ウルスから亡命した王族(ジュチの末子トカ・テルムの曾孫)を迎えてカザン・ハン国となる。

また ジュチ・ウルス内の抗争に敗れた王族ウルグ・ムハンマド(大ムハンマド)が、1437年あるいは1438年にカザン・ハン国の故地に退き、この地でハン(王、君主)を称したことにより 独立国として成立した。

しかし 後年のカザン・ハン国は 1552年の9月から10月、新興のロシア・ツァーリ国のイヴァン4世(雷帝)が15万の兵力でカザンを包囲し、砲撃と攻城戦の末、ついにカザンを占領された。

カザン・ハン国は屈服させられ、住民の多くは虐殺され市街地も城塞もすべて破壊された。

現代のタタールスタン共和国がカザン・ハン国の継承です。

ジュチ一党4-3

バトゥ・スブタイに率いられた35,000人の弓騎兵からなる蒙古西征軍はヴォルガ川を越え、1236年の秋にヴォルガ・ブルガールへの侵略を開始。

この後 一年に及ぶ戦いで、ブルガールやビラルといった都市は陥落し、キプチャク草原のキプチャク人は包囲殲滅され、カスピ海から北カフカスまでの諸民族が征服・帰順された。

以後、ヴォルガ・ブルガール人、キプチャク人、アラン人の抵抗は根絶された。 キプチャク征服後の1237年11月、バトゥはウラジーミルのウラジーミル・スーズダリ大公国大公ユーリー2世の宮廷に使者を派遣し、モンゴルに服従するよう求めた。

その一ヵ月後、モンゴル軍はリャザン公国の首都リャザンへの攻城戦を開始した。

6日間に及ぶ激戦の末、リャザンは陥落し完全に破壊された。 この戦いの知らせを受けたユーリー2世は息子たちをモンゴル軍討伐に赴かせたが、討伐軍は完敗を喫した。

コロナムとモスクワを焼き払ったモンゴル軍は、1238年2月4日にウラジーミルに対する攻城戦に着手した。

3日後、北東ルーシの大国であるウラジーミル・スーズダリ大公国の首都ウラジーミルは陥落し徹底的に破壊された。

大公の家族は燃える聖堂の中で全員殺され、かろうじて北へ逃げ延びた大公はヴォルガ川の北で新たに軍を編成してモンゴル軍に再度立ち向かったが、3月4日のシチ川の戦いで完敗し戦死した。

ジュチ一党4-5

バトゥ軍による1238年のスーズダリ略奪。 その悲惨さは 16世紀に書き写された年代記の細密画にて伝えられている。

バトゥはこの後、広いルーシ(ロシア)のステップ地帯を完全かつ効率的に攻略するため、軍をより小さな部隊に分けた。

モンゴル軍の各部隊はルーシ各地へと散り、国土を略奪し 荒廃させた。

ルーシ北部の14の都市 – ロフトフ、ウグリチ、ヤロスラヴリ、コストロマ、カシン、スクニャティノ、ゴロデツ、ハールィチ(ガーリチ)、ベレスラヴリ・ザレスキー、ユーリエフ・ボリスキー、ドミトロフ、ヴォロコラムスク、トヴェリ、トルジェークは破壊と略奪にさらさルれた。

一方でモンゴル軍を苦しめたのはコゼリスクという小さな都市で、年少の公ヴァシーリーおよび住民は7週間にわたって激しく抵抗した。

モンゴル側は4,000人の犠牲を出し、バトゥは このコゼリスクを忌まわしい町だと漏らしている。

ルーシの都市の中で、蒙古軍による破壊を免れたのは モンゴルに服従と貢納を約束した西部の大都市スモレンスクと、森林や湿地、春の悪路によって守られた北西部の大都市ノヴゴロチドとブスコフだけであった。

荒廃したルーシ南部のステップ地帯の住民は、ヴォルガ川とオカ川に囲まれたルーシ北東部の、土壌の貧しい森林地帯へと移り住んでいった。

ルーシの伝説上の町キーテジは、モンゴル軍を避けるために住民全員とともに湖に沈み、以後その姿を見せることがなくなったと言い伝えられている。

蒙古軍の殺略・破壊・略奪の恐怖は 矢のように四方に飛んだ。 “タタールのくびき”です。

ジュチ一党4-6

  _______ 続く _______

 *当該地図・地形図を参照下さい

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