成吉思汗・ジュチ一党の覇権 (5) 

“アルタン・ウルク/黄金の家・ジュチ家”の正嗣が栄光

ジュチ一党5-1

ルーシを支配していたキエフ大公国は 11世紀頃から 国内の権力闘争で 分裂の兆しが見え始めた。

一旦は統一を取り戻したムスチスラフ1世が1132年に没すると、ますます分裂の傾向が鮮明になり、首都キエフも破壊され国土の中心であったドニエブル川流域は荒廃していった。

このような時代に、東方から未知の大軍が到来し、きわめて暴力的な侵略を開始したのです。

当時のルーシの年代記作者は、この悲劇を「われわれの罪のせいで」ときしている。

尚 続け・・・「見知らぬ民が現れた。彼らの故郷も、彼らがどこから来たかも、彼らの神は何者なのかも知る者はなかった。 神だけが知っていることであり、もしかすると 賢者は本を読んで知るかもしれない。」

まさしく 蒙古軍の襲来は 晴天の霹靂であった。

1220年代のはじめ、ルーシ諸侯は、まず キプチャク草原の遊牧民族・クマン人の戦士たちからモンゴルの到来を知らされた。

クマン人は ルーシの辺境の集落を略奪するため ルーシ諸侯とは 盛んに対立していた時代もあったが、当時は両者の関係は平和であり、クマン人は隣人に警戒すべき敵の到来を知らせている。

ルーシ諸侯にすれば 東方への緩衝遊牧地帯であったが 「この恐ろしい異邦人はすでに我々の国を奪おうとしている。 もし諸君が我々を助けに来なければ、明日には諸君らの国が奪われるだろう。」 と 東方からの侵略を知らせてきた。

これに応え、ルーシ諸公のうち、ムスチスラフ・ムスチスラヴィチおよびムスチラスフフ3世が連合軍を組み、 クマン人と東へ向かい侵略軍を迎え撃った。

これが1223年のカルカ河畔の戦いです。 チンギス・ハーンの「四狗」の内の二人、ジュペとスブタイは イスラムシャー王朝のムハンマド皇帝を追討して、カスピ海西岸を北上していた。

ルーシ連合軍は東へ進み、アゾフ海の北岸、カルカ河畔で ジュペ・スブタイのモンゴル軍を迎え撃った。

モンゴル軍は事前にクマン人の一部や「ブロドニキ(放浪民)」と 総称される特定の領主を持たないルーシ人を味方に引き入れていたが、数量ではまだまだ劣っていた。

しかし、もともと急造の連合軍である上、大軍である驕りもあってキプチャク・ルーシ連合軍は 偽って退却を始めたモンゴル軍に対し安易に攻撃をしかけ、 戦線が延びきってしまった。

モウゴル軍は 逆に 包囲し 大勝を得た。 数で優勢だったルーシ連合軍はモンゴル軍の前に大敗したのは 蒙古軍団の戦法にはまったからなのです。 この戦いは、ルーシ諸侯の記憶に留まらなかった。

ジュチ一党5-2

この“カルカ河畔の戦い”の後、モンゴル軍はルーシ連合軍を追うのをやめてヴォルガ・ブルガールヘと向かい、クルネクの戦いでブルガールに敗れ、やがて東へと去ってしまった。

モンゴルの脅威は 何時しか 忘れ去られ、ルーシの諸公はまた前のように互いに抗争を続けた。

その13年後、再びモンゴル軍が ルーシの前に姿を現した。 しかも 今回は前よりも大軍で、前よりも容赦がなかった。

1237年秋、バトウ指揮のヨーロッパ遠征軍は ルーシ(ロシア)方面に侵攻。

12月下旬にはリャザン、コロムナが劫略された。 1238年に入り2月にはウラジーミル大公国を攻略し3月にはウラジーミル大公ユーリー2世と交戦しこれを討ち破って戦死に追いやった。

ルーシ北部諸国の多くが征服される一方で ノヴゴロド公国のアレクサンドル・ネフスキーや ガリーチ公ダニールらの帰順を受けている。

この征服戦でまだ小村であったモスクワも攻略された。 その後遠征軍は南に進路を転じてコゼリスクを陥落させ、カフカス北部方面へ一時撤退、諸軍を休養させた。

この年の4月から翌1239年にかけてはカフカス北部の諸族の征服を行っている。

この頃 司令官バトゥは グユン、ブリらと論功行賞などで激しく対立。 その報告を受けた蒙古帝国第二代皇帝・オコデイが 実子・グユンとトルイ家のモンケに 帰還命令をくだし、急ぎ召還させた。

帰還命令が降った グユンとモンケは 1239年の秋には遠征軍を離れてモンゴル本土へ出発している。

当時 キエフは大公位を巡って ルーシ諸国全体が争奪を激しくしており、モンゴル軍の侵攻に対処できなかった。  また モンゴル側ではコルゲンがコロムナの包囲戦で戦死している。

1238年の夏、南へ転じたバトゥはクリミヤを襲い、さらに東部のモルドヴィア、ルーシ東部、ヴォルガ・ブルガリアールも破壊した。

1238年の冬にはモンゴル軍は一旦休養のため 北カフカスに移り現地の諸民族の征服を行っている。

1239年の冬には再びルーシ南部へと進み、チェルニーヒウ公国の首都チェルニーヒウとベスヤースラウ公国の首都ベスヤースラウを陥落させ略奪し、ルーシの有力国家であった両国を滅ぼした。

1240年初春には、ヨーロッパ遠征軍は ルーシ南部に侵攻し、ルーシ南西部に向かったバトゥ軍は1240年の11月28日から12月6日にかけてキエフを包囲した。

これを完全に破壊してキエフ大公国を名実ともに滅亡させた。

最後のキエフ大公ダヌィーロ・ロマーノヴィチは本拠地であるルーシの強国ハールィチ・ヴォルィーニ大公国を守るため頑強に抵抗したが、バトゥ軍に中心都市であるハーおよびヴォロディームィル・ヴォリィーヌスクィイを占領された。

ルーシ諸国を ほぼ破壊したモンゴル軍は、「地果て海尽きるところ」まで行くことを決意し、ハールィチ・ヴォルィーニの地で分かれてハンガリーとポーランドへと侵入して行く。

ジュチ一党5-3

モンゴル人は侵略が終わっても去ることはなく、ヴォルガ川の下流にサライの都を築いてキプチャク草原およびルーシに対する支配を続けた。

モンゴル帝国の西方を管轄するジュチ・ウルスは サライに黄金のオルド(陣営)を建て、モンゴル高原のオルホン渓谷のカラコラムに居を置く大ハーンの名のもとに支配を行った。

1243年にはサライにヤロスラフ2世を呼び出し、ウラジーミル大公位を認めて「ルーシ諸公の長老」として扱った。

これ以後、3世紀にわたりサライのハーンたちがルーシ諸国の公らを臣従させ、ウラジーミル大公や各国の公としての地位を承認し、貢納させるという関係が続いた。

ノヴゴロド公国、スモレンスク公国、ハールィチ公国、ブスコフ公国など ルーシ西部の諸国も含め、ルーシ全ての国が ノンゴル帝国に従っている。

ジュチ一党5-4

この臣従関係は 「タタールのくびき」と言われている。 ルーシ人がモンゴル人の苛烈な支配下に置かれたことを示唆するものです。 300有余年間に及ぶ 屈辱の支配です。

実際には、征服初期の臣従しない国や都市への殺戮や略奪の時期を除けば、一般的に考えられているほど残酷で抑圧的な貢納を強いたというわけではないようです。

まず、モンゴル人は征服した土地にまばらにしか住み着かなかった。 また モンゴルは征服地の土着民族に対して直接支配を行わず、土着民族の長を通じた間接支配を行っている。

農耕民族の生活様式を取り入れて融合してしまうことを防ぐようにという、チンギス・ハーンが子孫たちに対して残した訓戒に、ジュチ・ウルスの支配者たちは従った。

十分な貢納が行われ続ける限り、被支配民族は日々の営みに干渉されることはなく、普通は支配者に攻撃されることもなく、それまで通りの農耕や商業が続けられる柔軟性で統治した。

チンギス・ハーンの軍が懲戒的に灌漑施設を破壊し、将来にわたっての農耕もできないようにさせた、中央アジアでの強圧支配統治ではなかった。

また ルーシは中央アジアからのステップを通じた交易路が通る場所であり、モンゴル帝国による交易の庇護によって、ルーシを通じた東洋と西洋の間の貿易が機能し、ルーシはここからも利益を得た。

たしかに モンゴル帝国の征服戦争は苛烈だったが、ひとたび支配が確立すると、たとえば 宗教に関しては比較的寛容だった。 チンギス・ハーン宗教には無関心のようでしたが・・・・・

モンゴル帝国の支配層はテングリ信仰を主とするシャーマニズムを信じていたが、征服活動や支配に当たって宗教的な狂信性とは無縁であった。 イスラム教徒や正教徒に偏見・拘りは持たなかった。

ジュチ・ウルスは ルーシ人に対し、サライに正教会の主教を置くことを認めている。 さらには ジュチ・ウルスの有力者・ノガイ(ジュチの第7子ボアルの長男)は 東ローマ帝国皇帝の娘と結婚し、ノガイも娘をルーシの公に嫁がせている。

ジュチ一党5-5

ロシアの近代の歴史家「ユーラシア主義者」は、むしろモンゴルの「ロシア支配」などなかったという仮説を提唱している。

この説では、ルーシ諸国は、西方のドイツ騎士団などローマ・カトリックからのより現実的な脅威に対して、東方のモンゴル諸国と 防衛のための同盟を結んだ、とされる。

≪ 誠に 端倪すべからぬ 卓論ですね、歴史認識が逆転する ≫

ロシア革命後にチャコチェコやアメリカに亡命したユーラシア主義者のジョージ・ヴェルナツキーよれば、分裂が進んだルーシは モンゴルから専制や支配制度を学び、後のロシア・ツアーリ国はモンゴル帝国の後継国家としてユーラシアを支配する国になったと 極論している。

だがしかし、肯定的な側面を持つ ジュチ・ウルスが サライに定住してからは 貢納を受け取る単なる貴族となったモンゴル人は、ルーシに対して暴力的な側面も見せている。

ジュチ・ウルスに属する遊牧民が 辺境にいるかぎり、ルーシは遊牧民の侵入や略奪から免れ得なかった。
侵入は実際には頻繁ではなかったものの、侵入がひとたび起こると、おびただしい数の犠牲者が出て、土地は荒廃し、疫病や飢餓も蔓延した。

ルーシ諸国は以後も 南方のステップからの遊牧民の襲撃に対する防衛に国費の多くを割かれることになった。

またルーシの人々は 固定額の貢納 – 人頭税を払わされた。 当初は、ルーシの各地にバスカク(代官)がやってきて人々から大雑把な額を集めていくだけだった。

1259年ごろからは人口調査に基づいて貢納額が定められ、 最終的には地元の公らに貢納の権限が一任された。

以後、ルーシ諸侯・公が 自領のルーシの民に 貢納のための重い税を課し、ルーシの民は公らを支配するジュチ・ウルスの貴族や役人らに直接会う機会はなくなったと言う。

ジュチ一党5-6

ルーシの侵攻で多くの都市や町が焼き払われたが、以後は都市の再建は停滞し、ステップ地帯などでは数百年にわたり都市の再建が行われなかった。

モンゴルに向かうローマ教皇の使者ブラーニ・カルビニは、途中に通ったキエフが骸骨の散乱する廃墟であり残った人口が僅か200世帯だったことを記録している。

ヴォロネジの再建は16世紀になり、リヤザンの再建は断念され 55km離れたベレスラヴリの町に中心が移り、現在のリャザンになっている。

都市や、都市間を結ぶ交易路が打撃を受けて衰退し長年再建されなかったことは、ルーシ諸国の商業や手工業の停滞だけでなく農村社会の停滞にもつながった。

ジュチ一党5-7

_______ 続く _______

 

 

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