成吉思汗・ジュチ一党の覇権 (6) 

“アルタン・ウルク/黄金の家・ジュチ家”の正嗣が栄光 

Battle near Liegnitz (Wahlstatt) on 9th April 1241 (The Mongols under Orda defeat the Polish-German knights' army under Duke Henry II. of Silesia).-"Great defeat of the Christians, which they suffered from the Tatars".-Copper engraving b.Matth?s Merian t.Eld. From: J.L.Gottfried, Historische Chronica, 1630, p.583; later coloured.

モンゴル帝国・第2代皇帝オゴデイは 1235年のクリルタイ(部族長会議、国会)で諸国への遠征を決議した。

当時、モンゴル軍は チンギス・ハーンの時代に中央アジアのホラズム帝国を征服し、西は黒海沿岸のグルジアまで達していた。

西方遠征軍の総大将となったジュチ家の当主・バトゥには5万の戦闘経験の豊かなモンゴル人と2万人の徴用兵、さらに中国人とペルシャ人の専門兵が与えられた。 バトウは十字軍の脱落将校、イギリス貴族やフランス将校をも 幕僚に加えている。

1237年から1240年にかけてルーシ(ロシア)侵攻を行い、ヴァルガ・ブルガールやルーシ諸国を完全に圧倒した。 モンゴル高原を出立したバトゥ・ヨーロッパ遠征軍は、キプチャク草原やキエフ大公国をはじめとするルーシ諸国を征服した。

モンゴル軍はこれで征服を終えることはなく、さらに西を目指し、ポーランドおよびハンガリーへと 「地果て海尽きるところ」まで行くことを決意したバトウ総司令は 西に進軍した。

モンゴル軍団は ヨーロッパ遠征軍を3軍団に分けている。 そのうちの1団はポーランド攻撃に従事し、その後に主力軍によるハンガリー侵攻に合流することになっていた。

ポーランド侵攻軍は チャガタイ家のバイダル将軍(チンギス・ハーン・次男の第五皇子)、オコデイ家のコデン将軍(皇帝の次男、グユンの弟)、ジュチ家のオルダ将軍(バトゥの異母兄)の3人の将軍に率いられ、1239年後半には偵察活動に入っていた。

モンゴルのポーランド侵攻は、1240年後半から1241年にかけて続いた。 モンゴル軍はヨーロッパに攻め込み、シロンスク公ヘンリク2世率いる大勢のキリスト教徒司令官の同盟軍を壊滅させた「トゥルスクの戦い」、「フミェルニクの戦い」、「ワールシュタットの戦い」など 欧州諸国制圧の幕開けとなる。

1240年春、バトゥは カルパチア山脈の手前で遠征軍を5つに分け、ポーランド方面とワラキア方面、カルパチア正面からトランシルヴァニア経由でハンガリー王国へ侵攻した。

まず 西方では右翼のオルダ将軍の支軍がポーランド王国(ビャスト朝)に侵攻し、3月にはクラクフクフを占領。

続いてバイダル将軍の率いる前衛軍が 1241年4月に ワールシュタットの戦いでポーランド軍を破って ポーランド王ヘンリク2世を敗死させた。

西方のシレジア、モラヴィア地方も バイダル将軍によって制圧された。 カダアン(チンギス・ハーンの甥)、ブリ(チャガタイの孫)率いる軍はカルパチア山間に居住していたザクセン人を破り、ボチェクの軍は山脈のワラキヤ人の集団を撃破している。

一方 同年3月にはバトゥの本隊はタランシルバニアからハンガリーに侵入し、ベーラ4世に降伏勧告を行った。

やがて モラビィアからバイダル、カダアンおよびスブタイ(チンギス・ハーンの四狗)が合流し、ペシュト市を陥落させている。

ティサ川流域のモヒー平原で ハンガリー王ベーラ4世と対峙、宿将スブタイおよびシバン(ジュチの第五子)の前衛部隊が夜半にベーラ4世の幕営を急襲して破り、ベーラ4世はオーストリア経由でアドリア海へ敗走した。

こうしてモンゴル軍はハンガリー全土を支配・破壊していった。 まさに バトゥの行くところ、敵無しの状況だったのです。

ジュチ一党6-2

モヒの戦い

1236年に始まった「バトゥの西征(ヨーロッパ遠征)」で モンゴル軍はまずクルマン諸族、ルーシ諸国を征服し、その後 モンゴル軍は 全軍をいくつかに分け東欧に侵入した。

その中でバトゥ率いる本隊は カルパチア山脈の峠を守るハンガリー軍を駆逐し、バンノニア平原に入った。

知らせを聞いたハンガリー王ベーラ4世は シロンスクク公ヘンリー2世が北方でバイダル率いるモンゴル軍の支隊を引き付けている間にモンゴルル軍の主力を叩くことを決意し、十万の大軍を招集し出撃した。

ハンガリーに侵入したモンゴル軍は バトゥ率いる部隊とスブタイ率いる部隊に分かれており、バトゥ軍はドナウ河まで進んだ頃 ハンガリー軍と遭遇した。

数に大きく劣るバトゥの部隊は撤退を始め、これを追ってハンガリー軍はサヨ川とヘルナッド川の合流地点近くのモヒ平原に入った。

一方、スブタイ率いる部隊は バトゥの部隊とそれほど離れていなかったが、ハンガリー軍を包囲するため バトゥが使った石橋以外のサヨ川渡河地点を探して南方に進んだ。

ベーラ4世はモヒ平原に到着すると、素早くモンゴル軍の前衛部隊を撃破し、サヨ川の石橋を奪い東岸に橋頭堡を得た。

その東岸の橋頭堡で ベーラ4世は 西岸に主力部隊とともに強固な防御円陣を築き野営した。

ハンガリー軍は 正面のバトゥ率いるモンゴル軍が自軍より数ではるかに劣るのに安心していたが、バトゥは翌朝7台のカタバルト(投石機)を前線に投入し、サヨ川東岸のハンガリー軍の橋頭堡に石弾と矢弾の集中攻撃を行った。

「耳を裂くばかりの爆音と閃光」をともなって行われたこの射撃と連携して、モンゴル軍は騎馬隊を突撃させた。

ハンガリー軍は後退を始め、バトゥは石橋を再び奪取した。 石橋を得たモンゴル軍は続々とサヨ川を渡り進撃したが、 数に勝るベーラ4世はモンゴル軍をサヨ川に追い詰めようと主力を投入し、激戦が行われた。

ジュチ一党6-3

ハンガリー軍の騎馬隊は何度も突撃を繰り返したが、そのたびにモンゴル軍は投石機と弓矢でハンガリー軍を撃退し、疲労させた。

この時 ようやくスブタイ率いる別働隊が戦場に到着し、ハンガリー軍を完全に包囲した。 大軍を動かすにはモヒ平原は狭すぎた。

身動きの取れなくなったハンガリー軍は モンゴル軍からあびせられる大量の石弾と矢弾によって壊滅的打撃を受けた。 しばらくして スブタイは西方のみ包囲を解き、意図的にハンガリー軍のための逃げ口を作った。

ハンガリー軍のうち 少数は武器や防具を放棄して包囲を脱したが、馬を乗り換えたモンゴル軍の軽騎兵に追いつかれ、ほとんどが討ち取られた。

ベーラ4世は 辛うじてモンゴル軍の追撃を逃れ、ダルマチア沖の孤島に避難したものの、この戦闘でハンガリー軍はほとんど壊滅し、ハンガリー全域はモンゴルの占領下に入った。

しかし翌年の1242年 大ハーン・オコディの死による遠征軍の帰還命令を受けると バトゥはやむなく ハンガリーを放棄し、モンゴル軍はハンガリーから撤退する事に成るのですが・・・・・後に 話しましょう・・・

≪ 尚 蛇足として 蒙古帝国第二代オコデイ・ハーンの崩御の伝令 カラコラムからウィーン城塞を攻略するバトゥの下に伝令に出た勇者の話 司馬遼太郎さんが書いておられます。 初期の作品です ≫

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バトゥのヨーロッパ遠征は 続く1241年までは カダアンらによるトランシルバニア全域の征服や、クマン人、マジャール人などのハンガリー王国の残存勢力の掃討などを行っている。

夏から秋にかけては バトゥの本隊はドナウ川河畔に幕営したのち、冬には凍結したドナウ川を渡ってエステルゴム市を包囲攻撃した。

他方 1240年2月13日 バルタイ将軍(チャガタイ家、第五皇子)率いる分隊は、ポーランド領内に深く進攻、トゥルスクにて ポーランド王国の軍団と「トゥルスクの戦い」で激突した。 この戦いも蒙古軍団の勝利におわる。

駆け付ける援軍もことごと 撃沈され ポーランド領内 東欧諸国は震撼した。

ドナウ河を渡れば オーストリヤ・ドイツは目前です。

ジュチ一党6-5

1241年に入り、モンゴル軍は凍結したヴィスワ川を渡り、サンドミェシュを掠奪している。

サンドミェシュは、ポーランド南東部に位置し ポーランドで最も古い街の一つです。 第二次世界大戦の破壊を免れ、中世の美しい街並みを今にとどめている。

当時 12世紀にはポーランド王国の主要都市の一つとして記録されています。 モンゴル軍の侵攻・略奪で また 14世紀にはリトアニア系住民の暴動により 街は荒らされたが、その度に修復されてきたそうです。

バトゥのヨーロッパ遠征は その年の四旬節のはじまる2月13日頃に多数の捕虜と戦利品とともに一時軍を退いた。

クラクフの諸侯たちはこれを追撃に出たが ことごとく返討ちにあった。

サンドミェシュで バトゥの西征軍は 部隊をふたつに別かれた。 北上させて ポーランド中部のウェンチツァや中西部の中心都市クヤヴィ方面へも向かわせ、 バルタイ将軍(チャガタイ家、第五皇子)率いる分隊と合流する。

バトゥ率いる本隊は「地果て海尽きるところ」を目指して 西に軍団を進めた。 退却路の途上にあるカルパチア山脈一帯は 完全に制圧し、各分団は 西へ西へと駒を進めて行く。

1241年3月18日 バイダル将軍率いる分隊は、ポーランド王国のクラクフ公ヴォジミエシュ・フミェルニクと ごく少数の将兵で戦い、勝利 城塞を打ち壊している。 「フミェルニクの戦い」です。

3月18日の“フミェルニクの戦い”に挑んだクラクフ侯ボレスワフ5世は、クラクフ北側のフミェルニク付近でのモンゴル軍との戦闘で 自軍・ポーランド軍が多数の死傷者を出して敗北したため、

母と夫人とともにカルパチア山脈の麓の城塞に避難することを決め、さらにモラヴィアへ退避した。

この結果 クラクフ地方の有力者は都市を放棄して ドイツ方面などへ避難し、その他の住民たちは山林などへ逃亡する事態となった。

1241年4月1日 モンゴル本隊・バトゥ総指揮官は クラクフに到着し、彼はほぼ無人状態のこの都市に火を放った。 その後さらに北上してシレジアに入った。

モンゴル軍はオイドラ川を筏や泳いで渡ったが、ポーランド軍はまだ兵力が足りなかったため後退し、モンゴル軍は シレジアの州都であるヴロッワフまで直進した。

そのとき、北部諸侯を召集したシロンスクのヘンリク2世の軍勢が、レグニツァでヴァーシラフ1世率いるボヘミヤ軍の到着を待っているという情報がもたらされた。

バトゥ・ヨーロッパ遠征総指揮官は そこでモンゴル軍は攻撃目標を切り替え、レグニツァにて 各地を散開的に進軍・集結しつつある軍勢を 集結させて ドイツ・ポーランド連合軍を討つことにした。

ワールシュタットの戦い」の激戦へ 時の歯車が回って行く。

ジュチ一党6-6

_______ 続く _______

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