成吉思汗・ジュチ一党の覇権 (7) 

“アルタン・ウルク/黄金の家・ジュチ家”の正嗣が栄光

ジュチ一党7-1

ハンガリー王国のベーラ4世は モヒ平原で バトゥ率いるヨーロッパ遠征軍に敗れ、ダルマチア沖の孤島に避難した。 1241年4月11日の敗戦でハンガリー王国は壊滅した。

他方 カルパチア山脈から北上 ポーランド領内を東進したバトゥ・ヨーロッパ遠征軍の別働隊は ポーランド王国のクラクフ公ヴォジミエシュと「トゥルスクの戦い」で激突、

バイダルの精鋭隊は 少数部隊で撃破 援軍も撃退していた。 東欧諸国は震撼した。

ヨーロッパ遠征軍の別働隊・バイダルは1241年2月13日、トゥルスクの戦いでヴォジミエシュの率いるポーランド軍に勝利した後、

3月18日には 再び 「フミェルニクの戦い」でクラクフ市とサンドミェシュ市の連合軍を倒している。

ポーランドはパニック状態となり、市民はクラクフ市を見捨てた。 同市は3月24日にモンゴル軍によって包囲され焼き払われた。

一方、当時 ポーランドの諸公達の中で最も勢力を持っていた公の一人・シロンスク公ヘンリク2世は、レグニツァ近辺で自軍と 同盟者の軍勢を招集していた。

ヘンリク2世はさらに軍勢の規模を大きくするため、シロンスク地方で最も大きな都市の1つだったヴロツワフを見捨て、モンゴルの荒らすに任せ 時を待った。 彼は ボヘミヤからヴァーツラフ1世の率いる大軍が救援に来るのを待っていた。

ヘンリク2世ボボジュヌィは 1213年に狩猟中の事故で 兄弟の悲劇的に他界、若くして国政に携わっている。

1218年、ボボジュヌィは ボヘミヤ王オタカル1世の王女アンナと結婚している。 岳父との同盟関係によってボボジュヌィは国政への発言権は 強大になった。 1227年に事件が勃発、

ゴンサヴァで開催された諸公会議で 父・ヘンリク1世とレシェク1世は騙し討ちに遭い、レシェク1世が暗殺され ヘンリク1世も深手を負った。 この時、若いボボジュヌィの手に初めて国家統治が委ねられた。

2年後の1229年にも再び 同様の事件が起き、ヘンリク1世はマゾフシェ公コンラト1世に捕えられた。 捕囚中の父の為 岳父・オタカル1世の援助を仰ぎ、釈放に奔走し また、

早いうちから 父に国家統治を任されていた経験のおかげで、ボボジュヌィの統治は 万全なものであった。

ジュチ一党7-2

1229年から1230年にかけ ボボジュヌィは ルブシェの旧領地を回復ための遠征を行い、1233年から1234年にかけては 父のプロイセンとヴィエルコポルスカへの遠征をも精力的に援護している。

1234年、ボボジュヌィは ヘンリク2世ボボジュヌィとして 公式に 父の共同統治者と名のるようになった。 同時に、父子は公的には権力を分有することになった。

ヘンリク1世はクラクフ(長子領)とシロンスクの公を、ヘンリク2世はシロンスクとヴィエルコポルスカの公を名乗った。 そして ヘンリク1世が亡くなった1238年3月19日以降から ヘンリク2世ボボジュヌィの統治が 全面的に始まった。

父が死んだ時 ヘンリク2世は40歳前後で、いくつかの難題をも受け継ぐことになった。 最初の問題は、彼自身が父から権力を相続することに関する問題だった。 また、

ヘンリク1世の強大な権威は、血統による世襲統治地域だった低地シロンスクにしか及んでいなかった。

ヴィエルコポルスカ南部とクラクフは長子領で、その統治者の地位は 王家・ビャスト家の諸公達の中から選ばれる決まりだった。

蒙古軍団がポーランドに押し寄せる直前まで ポーランド領内は 諸侯の権勢が絡み合っていた。

ヘンリク2世ボボジュヌィは挑戦的に 諸問題を処理して行った。 彼は一族が代々続けてきた神聖ローマ皇帝家であるホーエンシュタウフェン家との同盟関係を破棄し、

教皇グレゴリウス9世と結ぶことで、教会との軋轢を直ちに収拾し、ポーランドの改革を推し進めている。

更にコンラト1世との争いを終わらせ、2人の娘をコンラト1世の息子達に嫁がせた。 長女のゲルトルダをボレスワフ1世と、次女コンスタンシィアをカジミェシュ1世とそれぞれ結婚させ ポーランドの権勢勢力を取り込んでいった。

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ヨーロッパ遠征軍本隊を率いるバトゥは 1241年4月11日の“モヒの戦い”以降 部隊を四つに分け、ハンガリー王国をカルパチア山脈の東部から北部に掛けて 諸方面から侵攻し 制圧して行った。

1241年夏までには バトウ遠征軍団の前には、敵はいないも同然で 従軍するイギリス貴族やフランス将校を斥候として各地に派遣、 また 無条件降伏・開城の折衝に当たらせている。

城塞の諸侯が それを拒めば、攻撃はその1か月後に開始された。 2月13日の“トゥルスクの戦い”、3月18日の“タルチェクの戦い”および フミェルニクの戦い”で敗れたサンドミェシュの貴族のほとんどが殺され、

犠牲者の中には クラクフ宮中伯ヴウォジミシェシュ城代クレメント・ス・ブジュニツァなどがいた。 この直後、クラクフとサンドミェシュを含むマウォボルスカ全域がモンゴルの支配下に置かれた。

他方 遠征軍の別働隊バイダルとコヂンは ヴロッワフを包囲するかを思案中に、ヘンリク2世の軍勢とボヘミヤ軍の増援が近付いているのを知った。

モンゴル軍はヴロッワフを離れ、ヘンリク2世の軍勢が ボヘミヤ軍と合流するのを阻もうとした。 モンゴル軍はレグニツァ近郊のレグニッキェ・ボーレで ヘンリク2世率いるポーランド・ドイツ連合軍と対峙した。

ポーランド・ドイツ連合軍には、主力となるドイツ騎士団、オポーレ公ミェシュコ2世の軍隊、トゥルスクとフミェルニクで敗北したポーランド軍、 そして テンプル騎士団とホスピタル騎士団のメンバー達と少数の外国人義勇兵ポーランドの加わっていた。

≪ “ワールシュタットの戦い”とは このレグニツァで1241年4月9日に開始した戦い「ワールシュタット」とは、ドイツ語で「死体の山」の意味 》

ジュチ一党7-4

ヘンリク2世は西側諸国から約束された援助を待っていた。 レグニツァの地点で マウォボルスカの残党と自らが擁するシロンスク及びヴィエルコポルスカの軍勢を 温存保持する作戦に集中していた。

ヘンリク2世ボボジュヌィの耳に ヨーロッパ諸国の統治者達は 皇帝と教皇の争いに関心を集中させており、ヘンリク2世の救援要請を無視しているとの情報が届いた。

外国から加勢しにきた軍隊は ヘンリク2世の義弟であるヴァーウラフ1世率いるボヘミヤ軍 及び テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団の混成軍だけだった。 ヘンリク2世は もはや 待てなくなった。

ドイツ・ポーランド連合軍には、優れた兵と劣った兵が混在していた。 軍を構成しているのは民兵や徴用された歩兵、封建騎士と従者、聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団からの少数の騎士、そしてドイツ騎士団だった。

この“ワールシュタットの戦い”で ヘンリク2世が集めた軍は、二万五千の将兵。 ヘンリク2世は軍を4っの大きな部隊に編成して、主力のドイツ騎士団

および 他の騎士たちを中央に前衛と後詰めに配し、民兵や徴用された歩兵はまとめて一つの部隊として騎士の後方に配置した。

一方、バイダル率いるモンゴル軍が 戦場に動員した兵力は1万人程度だった。 前列中央に陽動戦術の訓練を積んだまんマングダイ(軽装騎兵)を配置し、

両側面には騎射や槍での接近戦を行うことのできるマングダイが、後方には正面からの騎馬攻撃を得意とする重装騎兵が控えていた。

当時のヨーロッパにおける騎士の戦術は敵の中心への猛攻撃だった。 ワールシュタットの戦いは、まず前衛の騎士たちがマングダイに攻撃を仕掛けて、蹴散らされた。

しかし、前衛の騎士たちは 後詰めの騎士たちと共に態勢を建て直すと再び攻撃した。

すると モンゴル軍は中央のマングダイを偽装撤退させて 連合軍の主力である騎士団を誘い込み、両翼のマングダイによる騎射で混乱に陥れた。

そして騎士団の背後に煙幕を焚いて後方の歩兵と分断すると、完全に混乱状態にある敵軍をモンゴルの重装騎兵が打ち破った。

煙幕の向こうにいた歩兵は 逃げ惑う騎士とそれを追うモンゴル軍の姿を見ると、恐怖に駆られて敗走した

最終的に バイダル率いるモンゴル軍の軍勢は 逃げるドイツ・ポーランド連合軍を 容赦なく追撃して、おびただしい将兵が殺戮された。

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その後、モンゴル軍はオドラ河に沿った地域を掃討していき、当初の目標であったヴロッワフを完全に破壊した。

1241年4月9日の“レグニツァの戦い(ワールシュタットの戦い)”において、ヘンリク2世は大敗を喫し、戦闘中に殺された。

この敗北は、支援を断ったヨーロッパの諸王達と、予期せぬ敵陣逃亡で面目を失ったオポーレ=ラチブシュ公ミェシュコ2世に対する轟々たる非難を巻き起こした。

総司令官の ヘンリク2世ボボジュヌィは戦死、その公家が支配していたシロンスクとクラクフの公領は分裂し、ポーランドは有力な指導者を欠き 混乱に陥り モンゴル軍が残余の勢力を駆逐して行く。

この戦いの翌日には モンゴル軍の別部隊が ヘルマンシュタットでトランシルバニア軍を、三日後にはバトゥ本隊がモヒの戦いでハンガリー軍を撃破し、この三つの戦いと掃討戦で一説には 15万人もの戦士が蒙古軍団に殺されたと言う。

ポーランドの分裂状態を収拾し、国家の再統合を実現しつつあったシロンスク公ヘンリク2世ボボジュヌィの死により、ポーランドの統合は白紙に戻った。 ポーランド王国の領内は混乱し 遮蔽した。

しかし、ポーランドは幸運にも、モンゴル人はポーランドに対する占領支配を意図しておらず、彼らはレグニツァの戦いの直後に ハンガリー領モラヴィアに移り、そこでバトゥの率いる本隊との合流を待った。

ヘンリク2世の死体は 首を引きちぎられていたうえ全裸に剥かれており、未亡人アンナだけが身体上の特徴から夫を識別することが出来たと言う。 遺体はヴロッワフにあるフランチェスコ会の聖ヤコブ教会に埋葬された。

ヘンリク2世の左足には指が6本あったのです(多指症)。 この事実は1832年、ヘンリク2世の棺が開かれた時に確認されている。

僅か3年間の短い治世だったにもかかわらず、ヘンリク2世はヴィエルコポルスカとクラクフの人々に理想的なキリスト教徒の戦士・領主として 現在までも記憶されている。

≪ ちなみに 第二次世界大戦中は占領者のナチス・ドイツにより、オドラ河岸にあるボドグジェ地区に クラクフ・ゲットーが創設された。 オスカー・シンドラー(映画「シンドラーのリスト」の題材となった人物)はこの地方の工場経営者でした、 この戦場近くです ≫

しかし、その華々しい経歴は早すぎる死によって断ち切られた。 死後、遺領は長男のボレスワフ2世が継承したが、後に他の息子達との戦争に敗れて領土を分割、シロンスク・ビャスト家の領土は小規模な国家群(シロンスク公国群)に分かれてしまった。

蒙古軍団が蒙古草原・キプチャク草原に退いた後にも 王位継承問題から発した政争によってポーランドで国王を戴冠する者がいない空位時代になる。

ポーランド王国は王家であるビャスト家の公や妃によって大きく7つの地方に分割相続され、シレジア地方はそのうちシレジア公国群として モウゴル皇帝に統治された。

ワールシュタットの戦いによって、英守・シレジア公(兼クラクフ公)ヘンリク2世が戦死し、シレジア全土が荒廃すると、

それ以降は復興のため この地のビャスト家諸侯はヨーロッパ各地からの移民の入植を奨励し、農民や都市民、坑夫としてドイツ(神聖ローマ帝国)人の移民を特に積極的に誘致した。

この移民奨励策の結果、シレジアは徐々にドイツ人文化の影響を受けるようになり、ユダヤ問題を抱え込んで行く。

ジュチ一党7-6

_______ 続く _______

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