成吉思汗・ジュチ一党の覇権 (8)

“アルタン・ウルク/黄金の家・ジュチ家”の正嗣が栄光

ジュチ一党8-1

1240年春、バトゥはカルパチア山脈の手前で遠征軍を3軍団に分け、ポーランド方面とワラキア方面、カルパチア正面からトランシルバニア経由でハンガリー王国へ侵攻した。

右翼のオルダの支軍が ポーランド王国(ビャスト朝)に侵攻し、3月にはクラクフを占領。 バイダル率いる前衛軍が 1241年4月には“ワールシュタットの戦い”でポーランド軍を破って、ポーランド王ヘンリク2世を敗死させた。

同年3月には バトゥのヨーロッパ遠征軍本隊は トランシルバニアからハンガリーに侵入し、ベーラ4世に降伏勧告を行った。

やがて モラヴィアから バイダル、カダアンおよびスブタイが合流し、ペシュト市を陥落させている。

ティサ川流域のモヒ平原でハンガリー国王ベーラ4世と対峙、宿将スブタイおよびシバンの前衛部隊が 夜ベーラ4世の幕営を急襲して破り、ベーラ4世は オーストリア経由で アドリア海へ敗走した。

こうして 蒙古遠征軍は ハンガリー全土を支配・破壊していった。 ヨーロッパ遠征軍総指揮官バトゥの行くところ、敵無しの状況が至るとこれで 展開された。

続く1241年 カダアンらによるトランシルバニア全域の征服や、クマン人、マジャール人などのハンガリー王国の残存勢力の掃討などが行われた。

夏から秋にかけては バトゥの本隊はドナウ川河畔に幕営し、冬に 凍結したドナウ川を渡って オースリア領内のエステルゴム市を包囲攻撃した。

ジュチ一党8-2

しかし 1241年12月21日 オコデイが死去すると、モンゴル高原のカラコラムンゴル帝国の首都 ウランバートル西方にあり現在は廃墟)から 一頭の馬が西に向かった。

鬼神のように 広大なモンゴル帝国を踏破して行く。 アルタイ山麓を走り抜け 天山山脈の峠を越え イリ渓谷から カスピ海 地球を半周りするほどの距離を駆け抜けた。

口から流れる血は後方に飛び、 食べることは叶わず 昼夜の区別を厭う 余裕などはなく ただ ひたすら 鬼神のように・・・・・・

10日間で 馬198頭を乗り潰し その任務を果たし 息絶えた と司馬遼太郎さんは書いてる。(司馬遼太郎の初期の名作、題は“疾風”だったかな?)

≪ それにしても、蒙古帝国の伝令の通信組織 その完備さに 驚かされる ≫

バトゥが指揮するヨーロッパ遠征軍はウィーンに迫っていた。 また 彼は「地尽き、海果てる地点」まで遠征軍を推し進め 征服する気概があった。

ほどなく バトゥの本陣にもその訃報が届いた。 1242年3月にバトゥはオコデイの死去にともなう遠征軍全軍の帰還命令を受けると、ただちに エステルゴムを陥落させた。

モンゴル軍の一部はウィーン近郊のノインシュタットまで迫った。 帰還せねばならない総司令官バトゥには この城塞都市を落とし 地歩を固めて オーストリアを征服するには時間が足りなかった。

ヨーロッパ遠征軍は この地域の征服は諦め、ドナウ流域を経由して キプチャク草原への撤退を開始した。

バトゥ指揮下のモンゴル帝国西方遠征軍は、ハンガリー王国の支配を放棄して帰国することを余儀なくされた。 しかし、バチゥの支配したカルパチア山脈以東のルース(ロシア)諸国を中核とする東欧の領土は、その後のジュチ・ウルスの基盤となったのです。

≪ 後年 ノガイが ポーランド・ハンガリーと攻め込んでいる史実を書いておきましょう ≫

ノガイ(生存; ? – 1299年)は、ジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の有力者。 チンギス・ハーンの長男ジュチの血を引く王族。 ジュチの七男ボアルの長男タタルの子。 ジュチの曾孫です。

バトゥ・ハンの時代から、ジュチ・ウルス右翼諸軍に属していたボアル家の後継者として活躍する。

ベルク・ハンの時代、1260年にフレグ(チンギス・ハーンの末子・四男の三男、クビライの弟)西征軍が中央アジアからペルシャ・アラビヤ半島に遠征した。

このフレグ遠征軍に参加していたノガイの従兄弟でるトタルが反乱罪の嫌疑で処刑され、シバン(ジュチの四男)の4男バラカンやオルダ(ジュチの長男)の次男クリが不審死する事件が起きた。

これら一連の事態をフレグの陰謀と見たベルク・ハンは フレグの本拠地となっていたカフカス山脈以南のアーザルバーイジャーン地方へ遠征軍3万騎を派遣し、ノガイを遠征軍の指揮官とした。

ノガイは フレグ・ハンやその後継者であるアバカ・ハンなど草創期のイルハン朝(フレグ王朝)の軍団と交戦し多くの武功を建て、また 西方の地 ポーランドやハンガリーに攻め込んでいる。

史書には 後年 ノガイの息子たちは イルハン朝に追われ ハンガリーのノガイの所領へ逃げ延びたが、その血脈はいつしか途絶えた と記している。 ジュチ一党の領地がハンガリー王国内にあったのです。

ジュチ一党8-3

モンゴル帝国第二代皇帝オオゴディ・ハンの死後、バトゥとルーシ遠征中に険悪な仲となったグユンが第3代皇帝(ハン)になろうとした。

バトゥは これに強硬に反対してモンケ(チンギス・ハーンの末子・四男の長男、フレグの兄)を擁立しようとした。

グユクの生母・ドレグネは グユクの推戴を狙いモンゴル帝国全土の王族たちに、オゴディ没後の摂政として自らの主導でクリルタル(部族長会議、遊牧民の国会)の開催を執拗に説いて回った。

バトゥは オゴディが後継者と指名していたのはシムレン(皇帝オゴディの三男クチュの長子)であったことを主張し、帝国西方の重鎮として不参加を表明した。 ドレグネの動きを牽制し 対立した。

尚 皇帝オゴディは 三男・クチュの英知に 後継者として期待されていたが、1236年2月に南宋攻略の途上で クチュが陣没した。 このため 孫のシムレンが後を継ぎ、オゴディの後継者として期待されていた。

しかし 1241年にオゴディが死去すると、若年で後ろ盾も無かったシムレンには力が無かったため、伯父のグユンが第3代を継ぐ。

グユンの治世が短命に終わると、第4代をめぐる権力闘争で有力候補になりながらもトルイ家の当主モンケが第4代を継いぐ。 モンケの時代にチンギス・ハーンの大蒙古帝国は4分割したと言える。

長男のジュチ家は東欧・ロシア・中央アジア北部、次男のチャガタイ家は中央アジア・中近東 そして 後年のムガル王朝(インド亜大陸)、三男のオゴディ家は消滅して行く、末子・トルイ家はモンケ皇帝排出後

モンケの次の弟・クビライが大元王朝を漢中で開闢、弟・フレグが中近東でイルハン王朝を開くが、大蒙古帝国の第三代皇選出の権力闘争が ユウラシア大陸の歴史を彩っていくのです。

ジュチ一党8-4

大蒙古帝国は 5年近く大ハーン位が空位のままという状態に陥った。 1246年 ソルコクタニ・ベギをはじめとするトルイ家の皇子たちや東方のテムグ・オッチギン(チンギス・ハーンの末弟)らがドレグネのクリルタイ開催要請を承諾して参加を表明した。

バトゥも急ぎクリルタイへの参加を表明するが、しかし バトゥは オゴディ家、チャガタイ家、トルイ家の王族たちのほとんどが参加し帝国各地の諸侯や帰順王侯が参加するココ・ノウルでの開催期日に間に合わなかった。

ジュチ家は 既にモンゴル本土に来着していたオルダやシバン、ベルケ、トカ・テルムら兄弟たちの参加のみで当主バトゥの不在のまま、クリルタイは グユンを蒙古帝国第3代大ハーンに推戴した。

このため、バトゥはクリルタイの決定に不満を抱き 大ハーンに即位した後も、臣従の誓約に来朝せよとの グユク・ハーンからの再三にわたるモンゴリ本土への召還命令を受けていたが、病気療養を理由に拒み続けた。

一時は、グユン・ハーンの宿敵として危険視され窮地に追い込まれたが、ソルコクライ・ベキらがモンゴツ中央の動静を逐一彼に伝えて 朝廷への対処を進言してくれていた。

1248年、グユン・ハーンは 以前から患っていたリューマチの療養のため エミル近辺の父・オゴディの放牧地へ行幸すると称し、グユン自ら遠征軍を率いて討伐しにやって来た。

しかし 同年4月にグユンがビシュバリク(ウルムチ北郊)付近で急死したため、モンゴル帝国は最有力王族とモンゴル皇帝との内戦という最悪の事態を回避することができた。

この グユン・ハーンの死について 『集史』では彼の父オゴディと同様に平時からの過度の酒色を原因としているが、

緊迫した状況下でジュチ家・トルイ家にとって都合の良い時期の死であるため、バトゥによる暗殺説も 一部の研究者は有力視しているようです。

グユン死後、 バトゥは モンケを新たなハーンとして推挙し、モンケを強行的に即位させた。 このとき、バトゥを次代のハーンになるべきと望む声もあったが、

バトゥはあくまで帝国の影の実力者に徹して、ついにモンゴツ帝国の皇帝になることは望まなかった。

バトゥは ユチ・ウルスの領土統治に尽力し、ヴォルガ河下流域 過日栄えたイティル王朝の周辺の冬営地サライを キプチャク・ハン国(金帳ハン国)の首都として定めた。

バトゥの宮廷を訪れたウイリアム・ルブルック(ローマ法王庁派遣特使)によると、バトゥの宮廷は季節によって南北に移動し、春にはヴォルガ河東岸を北上してブルガール方面に留まり、8月には南に戻っていたと言う。 黄金のテントであったと言う。

ジュチ一党8-5

1256年、バトゥ・ハンは ヴォルガ河畔のアライにおいて死去した。 享年48歳。

バトゥ・ハンが死去する前年の1256年は、春に大蒙古帝国皇帝モンケ招集の第2回のクリルタイを開催された。 嫡子のサルタクはこのクリルタイに派遣されていた。 クリルタイでは中国本土に侵行する議題が決議されていた。

訃報はただちにモンケの宮廷に伝えられ、モンケはサルタクをバトゥの後継者に任命した。 しかし サルタクはジュチ・ウルスヘ帰還中に病没し、さらに モンケがその後継者に追認した末弟ウラクチも その半年後に夭折したため、最終的にはバトゥの次弟であるベルケが継いでいる。

1206年、チンギス・ハーンが大ハーンとして即位し、モンゴル帝国を興すにあたって、長男ジュチにアルタイ山脈方面に4個の千人隊からなるウルス(領土)を与え、イルティシュ川流域に遊牧させたのがジュチ・ウルスの起こりです。

1224年頃、ジュチが父に先立って死去した後、次男のバトゥが ジュチ家の家長となり、ジュチがチンギス・ハーンに命じられていた、南シベリアから黒海北岸に至る諸地方の征服の任を受け継いで領土を拡げた。

1235年、クリルタイでの決定に従って、第2代大ハーン・オコデイは バトゥを総司令官とするヨーロッパ遠征軍を派遣し、バトゥはヴォルガ中流域のブルガール、草原地帯のキプチャクなどのチュルク系,フィン・ウゴル系の諸民族、北カフカスまで征服して支配下に置き

また カルパチア山脈西部のハンガリー王国に攻め込み ウイーンにまで迫った。

1242年、バトゥは皇帝・オゴディの訃報を受けて引き返し、オゴディの後継が決まらず紛糾するのを見て、ヴォルガ川下流に留まることを決め、サライを都とするとともに、周辺の草原地帯を諸兄弟に分封して自立政権を築いた。

Kranjska Gora

バトゥ政権には 属国として、ルーシの諸公国が従えられた。 ルーシの諸公はサライのハン(君主)に対して納税の義務を負うとともに、しばしばサライへの出頭を命ぜられた。

東欧・ロシアの諸侯や公は 任免や生殺与奪をサライのハンに握られた。 ルーシ(ロシア)の人々は、ジュチ・ウルスの人々をタタールと呼んだ。 また この属国としての状況を指して「タタールのくびき 」と言った。 17世紀に成ると ジュチ・ウルスに住むモンゴル人は 迫害を受ける事になります。

_______ 続く _______

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