成吉思汗・ジュチ一党の覇権 (2-1)  

“アルタン・ウルク/黄金の家・ジュチ家”の正嗣が栄光 

ジュチ一党1-x

バトゥ政権には 属国として、ルーシの諸公国が従えられた。 ルーシの諸公はサライのハン(君主)に対して納税の義務を負うとともに、しばしばサライへの出頭を命ぜられた。

東欧・ロシアの諸侯や公は 任免や生殺与奪をサライのハンに握られた。 ルーシ(ロシア)の人々は、ジュチ・ウルスの人々をタタールと呼んだ。 また この属国としての状況を指して「タタールのくびき 」と言った。 17世紀に成ると ジュチ・ウルスに住むモンゴル人は 迫害を受ける事になります。

・・・・・・前作シリーズ“ジュチ一党の覇権ー(8)ー ”はバトゥの欧州・ウィーン近郊まで遠征した史実を記載、以降 中断している。 筆を進めなければ、【黄金の系譜・ジュチ一党の覇権】は脱稿できかねます。  資料を整理しつつ 纏めますゆえ お付き合いください・・・・・・

ジュチ一党8-3

 1256年春にモンゴル皇帝モンケが第2回のクリルタイ(蒙古帝国国会)をオルメクトの地で開催したとき、サルタクはジョチ・ウルスの代表として派遣された。

しかし、開催地に到着する目前でバトゥの訃報が届いたため、サルタクはモンケの勅命によってバトゥの後継者に任命された。

多大な恩賜を受けてジョチ・ウルスへ帰還を許されたが、彼もまた翌年の1257年にその旅中で没した。

モンケは彼のハトゥン(皇后)たちや諸子に使者を送って慰め、改めて彼の末弟ないし息子であるウラクチにジョチ・ウルスを継がせた。

しかし、そのウラクチも数カ月後に夭折してしまったため、バトゥの次弟であったベルケがジョチ・ウルスのハン位を継ぐこととなります。

ウラクチの生涯は ペルシア語や漢語資料にはほとんど記載がないため不詳である部分が多いのですが、幸いルイ9世より派遣されたルブルクのギヨーム修道士が、

モンケの宮廷(カラコルム・蒙古高原中央部)への旅中に先立ち彼のバトゥのオルドを訪問しているため、その旅行記(欧州人の視線で蒙古王室の生活・蒙古族の風習等記載)により その若干が知られている。

ヨーロッパや中東では、サルタクがキリスト教を信奉しているという噂があり、1253年にこの確認と十字軍への支援を求めてルイ9世はルブルクのギヨームを派遣したのです。

さらに 翌1254年8月29日には ローマ教皇インノケンティウス4世が、サルタクが洗礼を受けたと言う知らせを聞いて、彼の許に書簡を送って祝意を表している。

インノケンティウス4世は 1245年、第1リヨン公会議を開催、フランシスコ会の修道士プラノ・カルピニを、東方より来襲したタタール(モンゴル帝国)の偵察と再侵入防止工作の為にタタールの居住地方へと派遣したのです。

ルブルクのギヨームによれば、サルタクのオルドはドン川中流域にありヴォルガ川から三日行程の距離にあったという。

そこでサルタクは6人の夫人がおり、彼と一緒にいた長子にもまた2、3人の夫人がついていたといい、そのオルドも豪奢であったと報告しています。

キプチャック・ハン国(ジョチ・ウルス)の実質的な創設者 チンギス・ハーンの長男・ジョチの次男である先代・バトゥの死で継承したハン位(1256年 – 1257年)は一ヵ年以内で次代のウラクチにバトンタッチしたのです。

ジュチ一党2-4

ウラクチ(?-1257年)は、ジョチ・ウルスの第4代宗主(ハン)として戴冠します(在位:1257年)、モンゴル皇帝モンケの命によってバトゥ、サルタクに継いでジョチ・ウルスのハン位を継いだのです。

彼は先代のサルタクの息子または末弟と言われています。 ジュヴァイニー(シバンの末裔)によれば サルタクの子供がウラクチであったと述べていますが、『集史』ではサルタクには子息がいなかったと述べており、詳細は不明です。

現在の説ではウラクチはバトゥの息子で、幼年でしかも末子あったためサルタクのオルドでサルタクの長子の待遇で養育されていたが、

サルタクの死によって 主人を失った彼のオルドごと バトゥの第一正妃ボラクチン・ハトゥンの管理下に置かれたのではないか、と考えられている。

1256年にバトゥがヴォルガ川河畔のオルド(サライ)で没した時、後継者に指名されていたサルタクは 同年春にモンケが開催したクリルタイに出席するため父であるバトゥの命により名代としてモンゴル本土に派遣されていた。

しかし、開催地オルメクトに到着する直前に父の訃報が届いたため、モンゴル本土に一時留まってモンケの宮廷に伺候した。

皇帝・モンケはこの知らせを聞くと、サルタクとバトゥの家族たちに弔辞と最大限の敬意をもって彼を迎え入れ、あわせてサルタクにバトゥの地位を継いでジョチ・ウルスのハン位に即く事を命じて送り出した。

サルタクはこうしてジョチ・ウルスの本営に帰還の途についたが、その旅中に彼もまた病没してしまった。

モンケは改めてバトゥ家の后妃たちや王子たちに多大なる贈り物を下賜して彼らを慰撫し、ウラクチにジョチ・ウルスのハン位を継がせるよう勅命を下した。

ただ、ウラクチはいまだ幼年であったため、 彼が成人するまでバトゥの第一正妃であり 母であろうボラクチン・ハトゥンに摂政として監督するよう モンケ命じている。

しかし、そのウラクチも数カ月後に夭折してしまったため、バトゥの次弟であったベルケがこれに代わって即位するところとなる。

1257年に ベルケ( ? – 1266年?)がジョチ・ウルスの実質の第5代君主(ハン在位:1257年-1266年)として推戴された。 バトゥの弟、ジョチの三男です。

・・・・・重複しますが・・・・・

1229年春のオゴデイ即位のクリルタイに参集したジョチ家の諸子のうちに、オルダバトゥシバンタングトトカ・テムルらと並んでベルケもその名を列ねている。

ジュチ一党1-6
ベルケは 1236年に始まるバトゥを総司令とする西方遠征にも従軍しており、キプチャク族征討に戦功を修めている。

1249年のバトゥによるモンケ擁立に際してはトカ・テムルとともにジョチ家の諸軍を率いてケルレン河畔を渡り、ソルコクタニのオルドを守護しモンケの近くに侍してバトゥとの連絡役を果たしている。

モンケ擁立の中心人物のひとりであり、後年のフレグとのアゼルバイジャンを巡る境域紛争では、イルハン朝側の対応が後手に回り勝ちであったことの原因のひとつにそのことが少なからず影響していたようである。

1256年にバトゥが没すると、モンケはこの年のクリルタイに参列していたバトゥの長男サルタクを後継者として認めたが、サルタクはジョチ・ウルスへの帰還途中で病没してしまった。

これに伴いモンケは再びサルタクの弟でバトゥの四男ウラクチ(サルタクの息子との説もあり)を後継者に命じたが、未だ幼年であったためバトゥの后妃筆頭であったボラクチン・ハトゥンに成人になるまでの間その摂政に任命した。

しかしながら、ウラクチはその後わずか数カ月で夭折してしまったために、ジョチ家の年長者であったベルケが1257年に即位する事となった。

ジュチ一党2-1-5

後年、ベルケが没した時、サルタクの次弟トクカンの遺児(次男)モンケ・テムルはすでに成人に達していたために、ベルケの家系に家督が移らず再びバトゥの後裔がジョチ家の宗主を継いでいくこととなります(上記図参照)。 ベルケ自身に子息がいたかどうかは不明なのです。

ベルケはモンゴル王族においてイスラム教徒(ムスリム)であったことが確認できる最も早い人物のひとりです。

ベルケはジョチがブルガール方面へ遠征したときに生まれ、ジョチはそのわが子をムスリムにすることを望んで、へその緒を切る役も乳母もムスリムの人物に託したという。

また、幼少時代からムスリムとしての教育を信頼に足るムスリムの学者に任せ、コーランの知識をマーワラーアンナフルの都市ホジェンドで敬虔なムスリムから教授されたといい、

適齢期には割礼も行い、成長してジョチ家で軍民を統率する立場を得ると、ジョチ・ウルス麾下のムスリム部隊の全てが彼の指揮下に置かれた、と伝えられています。

その軍団の規模はバトゥの統治時代からムスリムの騎士3万人であったといい、彼の軍団は常に礼拝を欠かさなかった。

一方 1233年頃にベルケは インド北部の奴隷王朝へ友好使節を送ったが、奴隷王朝の君主・イルトゥトゥミシュはこれを偵察か策略のたぐいと疑い使節を追放した史実があります。

後年 蒙古族のティムール その末裔バープルが奴隷王朝を継承する印度大陸にムガル王朝を開闢するのはユーラシア史の綾ですね。

ジュチ一党3-2

ベルケ在位の(1257年 – 1266年)期間、領内の治世・モンゴル本土の後継闘争・対外政策 等 ムスリム(回教徒)の蒙古ハン・ベルケの生涯を次回に話しましょう。

------ 続く ------

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