成吉思汗・ジュチ一党の覇権 (2-4) 

“アルタン・ウルク/黄金の家・ジュチ家”の正嗣が栄光

 アイン・ジャールートの戦い(Battle of Ain Jalut)は

1260年9月3日、シリア・パレスチナのアイン・ジャールート河畔で行われた会戦

クトゥズ率いるエジプト・マムルーク朝軍が

キト・ブカ率いるシリア駐留のモンゴル帝国軍およびキリスト教徒諸侯連合軍を破り

大蒙古帝国の西進を阻止した

ジュチ一党2-4-1

 アイン・ジャールートの戦いの後、マムルーク朝軍はシリアを北上し、モンゴル軍の残党や、シリアに再侵入してきた部隊を破りつつ シリアのほぼ全域を平定した。

しかしアレッポを回復したところで、先の戦いの功労者であるバイバルスと、総司令官であるクトゥズの対立が再燃した。

バイバルスはアレッポの総督に任命されてこの地方に自立することを目論んでいたが、クトゥズは 彼の独立をして 自分の地位を脅かすことを怖れ、これを拒否した。

このためにカイロに戻る途上でバイバルスによる軍中クーデターが勃発し、クトゥズが殺されてバイバレスが新しいマムルーク朝のスクターン(君主・宗教上の指導者)となった。

バイバルスは大蒙古の侵攻をはねのけた英雄として首都・カイロに凱旋し、エジプト・シリアの王として確固たる地位を築いた。

その後も毎年のように行われたモンゴルとの戦争で連戦連勝を重ねたバイバルスは、中央アジアからやってきた余所者であるマムルーク(奴隷傭兵)たちを安定政権の主とすることに成功し、事実上のマムルーク朝の始祖となったのです。

一方、“アイン・ジャールートの戦い”を前に帰還を開始した大蒙古帝国のフレグはアゼルバイジャンのタブリーズにおいて、

次兄のクビライと弟のアリクブカが皇帝位(大ハーン)の位を巡って内紛を始めたことを知ってこの地に留まり、イラン・イラクを勢力圏として自立した。

やがてフレグの子孫によって世襲されるようになるイランにおけるモンゴル政権をイルハン朝(イル・ハンン国)と呼ぶように成ります。

“アイン・ジャールートの戦い”の結果、シリアはマムルーク朝の領域となり、その後もイルハン朝とマムルーク朝の間でこの地方を巡って長く対立が続くものの膠着状態に陥った。

両国の角逐はジュチ・ウルス(キプチャック・ハン国)やビザンツ帝国、西ヨーロッパ諸国を巻き込み、13世紀の後半を通じて激しい外交戦が繰り広げられることになります。 さて、・・・・・・・・・

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この戦いは、ムスリム(イスラム教徒)が蒙古帝国軍と正面から衝突して、初めてこれを破った戦いとして非常に名高い。

しかし、ムスリム政権の軍がモンゴル帝国軍に勝利した前例は、すでに1221年にホラムズシャー朝のジャイラールッディーン(ホラムゥシャーの太子)の軍団がシギ・クトク率いる3万騎強を撃ち破ったアフgサニスタンの“バルワールの戦い”があり、厳密に言えば「初めて」ではありません。

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モンゴル側の立場としては、この戦いに参加した大蒙古帝国軍は、フレグの帰還にともなってシリアに残された全軍のうちの一部の部隊であったのが敗因でしょうが、

過日では モンゴル帝国軍が敗退した戦闘は、後日にモンゴル側から反撃を受けて敗走、討滅させられている場合がほとんどなのです。 モンゴル軍団の敗北はこの“アイン・ジャールートの戦い”ほどには印象が薄い、いや 稀有なのです。

“アイン・ジャールートの戦い”が印象的である理由は、恐らくその後のモンゴル側の政情が著しく変化し、シリア奪回の機会が失われ、結果的にこの地域がマムルーク朝の統治下に置かれることが確定した戦いであったから、東欧の大蒙古帝国軍勢への印象を変え得るインパクトを与えました。

事実、イルハン朝では1260年以降フレグ、アバカなどはジュチ・ウルスとはアゼルバイジャン地方で、チャガタイ・ウルスとはホラーサーン地方での境域紛争に忙殺され、バイバルスによる度重なるシリア境域地域の侵攻には対策が後手に回り続けている。

イルハン朝の歴代の君主たち カザン・ハンなどシリア地域に幾度か遠征軍を派遣しているが、大抵の場合、軍の規模もせいぜい3万前後がほとんどでアレッポ以南の地域への征服はほぼ失敗している。

クビライとアリルブケの大蒙古帝国帝位継承戦争の後も モンゴル帝国自体、王家間の紛争が長期化・続発して帝国全体での軍事行動が不可能になったことも、大蒙古帝国がシリアにおける失地挽回の機会が失われた根本的原因であったのでしょう。

いずれにせよ、西方におけるモンゴル帝国の際限のない拡大が停止したのが“アイン・ジャールートの戦い”あった1260年であるのは確かであり、その意味で象徴的な戦いと言えるでしょう。

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トダ・モンケ(生没年不詳)は、ジュチ・ウルスの第7代宗主(ハン;在位1280年?-1287年)。

バトゥの孫、バトゥの次男トカクンの三男にあたり、先代のモンケ・テルム・ハンの同母弟である。

トダ・モンケとモンケ・テルム・ハンの母はオイラト部族のカルチュ・ハトゥンであるり、カルチュ・ハトゥンの父はチンギスハーンに帰順したオイラト部族の首長クドカ・ベキ将軍の息子でトレルチという人物であった。

カルチュ・ハトゥンには他に姉妹がおり、モンケ・カアン(第四代大蒙古帝国皇帝)の第2正妃で大ハトゥンと称されていたオグルガイミシュ皇后と、フレグの第4正妃であったオルジェイ・ハトゥンが知られています。

1280年頃、第6代ハンであるモンケ・テルムが死去した後は、彼の息子が後継者となるはずであったが、ジュチ家の最有力王族である右翼諸軍(バトゥ・ウルス)代表ノガイと、左翼諸軍(オルダ・ウルス)の統帥コニチの両首脳によって擁立された。

トダ・モンケはモンケ・テルムの同母弟であり、バトゥ家の実質的な最長老格であった。

1280年頃は“シリギの乱”によってクビライの皇子ノムガンとココチュが兄モンケ・テルムの許に拘留されており、この時 バヤン(大蒙古帝国の将軍、元を開いた大ハーン・クビライの重臣 ジンギスハーンが最も信任した将軍)の西方派遣で中央アジアの国際情勢は緊迫していたため、

ジュチ・ウルスは クビライ皇帝との 微妙極まる困難な問題に直面していた。

このためジュチ家のノガイ、コニチ両首脳はこれらの情勢にモンケ・テルムの嗣子たちでは対応が難しいであろうとの判断によって トダ・モンケを擁立したと考えられている。

1282年に シリギがバヤンに降伏し、トダ・モンケ・ハン、ノガイ、コニチの三者は協議の結果、クビライの両皇子を大元ウルスへ送還しています。

しかし、この即位に不満を持っていた、モンケ・テルム、トダ・モンケの異母兄で父トカウンの長子あったタルトゥの息子トレ・ブカとその弟コンチュク、モンケ・テルムの長子アルグイとウズベグ・ハンの父である十男トグリルチャの4人の王族たちが、

トダ・モンケがイスラーム神秘主義に傾倒していることを理由に分別を失ったと称して、1287年にサライでクーデターを起こし 廃位してしまった。

この後 このトゥラ・ブカをハンとし、コンチェクを共同統治者とする4王族によるジュチ・ウルス中央の支配と、アルグイの同母弟トクタ、トクタを保護したノガイらによって権力闘争が始まります。

甥のトレ・ブカたちによる廃位後のトダ・モンケ・ハンの消息は良く解っていませんが、ハンガリー方面に亡命したとも言われる。

トダ・モンケ・ハンには正妃である皇妃(ハトゥン)が2人おり、コンギラト部族出身のアルカチとアルチといった。

また 側室もひとり知られておりトレ・クトルグと称し、 息子も3人知られており、アルカチからウズ・モンケが生まれ、トレ・クトルグがチュチュクトを生んでいます。 庶子にトベディという息子がおり、母は判明していません。

公子達は クーデター以降消息不明で トダ・モンケ家は断絶した模様です。

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トゥラ・ブカ( ? – 1291年)は、ジュチ・ウルスの第8代宗主(ハン:在位1287年-1291年)。

バトゥの次男トカクカンの長男ダルブゥの長男。 バトゥの曾孫で、モンケ・テルムとトデ・モンケの甥に当たる。

弟にゴンチュクという人物がいた。 トゥラ・ブカは中世モンゴル語発音ではトレ・ブカの表記のあります。

1287年 トゥラ・ブカは 弟のゴンチェクと、先代のモンケ・テルム・ハンの遺児アルグイトグリルチャと謀って、ジュチ・ウルス右翼の最有力者ノガイと左翼オルダ・ウルスの統帥コニチによって擁立されていた叔父トデ・モンケ・ハンを廃位した。

トゥラ・ブカはサライを中心とするジュチ・ウルスの中央部を掌握してハン位に即き、クーデターを決行した四者による協力体制によって独裁政治を行なうようになり、

さらにクーデターに参加せず、自らのハン位を脅かす存在であったトクタ(マング・ティムールの五男でアルグイの同母弟)の存在を疎ましく思い、これを殺害を企てた。

クリミア方面にウルス(所領)を有していたトクタは、ドナウ河河口部一帯のジュチ・イルス西部境域を鎮撫していた有力王族ノガイと手を結んだ。

ノガイは仮病を使ってトレ・ブカ等 クーデターを実行したゴンチョクと、アルグイ、トグリルチャの他にトゥラ・ブカカに同調したアルグイの兄弟ムラガン、カダン、クトカン等 王族たちを自らの陣営におびき出し、そこで待ち伏せていたトクタに襲撃させた。

こうして1291年にトクタによってトゥラ・ブカは兄弟もろとも殺され、位も奪われてしまったのです。

1291年にはマムルーク朝が十字軍の最後の拠点のアッコを陥落させています。 エルサレム王国も滅亡し、全てのパレスチナはイスラム勢力下に入った年です。

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ジュチ・ウルスは豊かな草原・キプチャック、ヴォルガ流域を擁する遊牧民の理想郷です。

しかし 西に強大な オスマン帝国が東ローマ(ビザンチ帝国)を駆逐し、南に チャガタイ・カン国系統のティムールがフレグのイルハン朝を崩壊させティムール帝国を築く、北にはロシアの勢力がジュチ・ウルスを侵食し始めることになります。

= 中央ユーラシア東部の覇者であった柔然可汗国はその鍛鉄奴隷であった突厥によって滅ぼされる(555年)。 突厥は柔然の旧領をも凌ぐ領土を支配し、中央ユーラシアをほぼ支配下においたが、

モンゴル高原では東突厥を滅ぼした回紇(ウイグル)が回鶻可汗国を建て、中国の唐王朝と友好関係となってシルクロード交易で繁栄したが、内紛が頻発して黠戛斯(キルギス)の侵入を招き、840年に崩壊した。

ウイグルは西に走り、天山山脈を中心に新王国・天山ウイグル王国を築き 西突厥を西方に追いやった。

西走した突厥はモンゴルがキプチャックに現れるまで カスピ海西北部で勢力を維持していたのです。

オスマン帝国は この突厥の系統です =

________続く________

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