成吉思汗・ジュチ一党の覇権 (2-5)

“アルタン・ウルク/黄金の家・ジュチ家”の正嗣が栄光

トクタ・ハン(生没年 ? – 1312年)は、ジュチ・ウルスの第9代ハン(君主在位:1291年-1312年)

 第6代ハン モンケ・テルムの五男

 母は、トルイ家(大元ウルス クビライ・ハーンが宗主)の王女ケルミシュ・アカ・ハトゥンと

ジュチ家所属のコンギラト部族の首長サルチダイ・ノヤンの娘オルジェイ・ハトゥン

同母兄にはモンケ・テルムの長男アルグィがいる。 バトゥの曾孫のひとりです

ジュチ一党2-5-1

マムルーク朝の歴史家ヌワイリーによると、ハンに即位した従兄弟のトレ・ブカと西方の有力者ノガイが対立したときノガイと手を結び、ノガイの協力によってトレ・ブカと一味を殺害してハンに推戴された と記述している。

トクタがノガイを頼った理由についてヌワイリーの資料に言及は無いが、『集史』はトレ・ブカ兄弟に命を狙われたため、トクタはノガイを頼ったと記しています。

即位後トクタは岳父のウイグル人サルジダイを重用した。 サルジダイとノガイは縁戚であったが、両家は互いの信仰の違いで対立していた。

ノガイは敵対するサルジダイの引き渡しをトクタに要求するが、トクタ・ハンはこれを拒絶した。

またトクタの元から逃亡した将校の処遇をノガイが保護したことで両者の関係は 更に 悪化し、ヒジュラ暦697年(1297年-1298年)にトクタ・ハンとノガイの軍事衝突が始まった。

1299年、トクタ・ハンはノガイを殺害、ヒジュラ暦701年(1301年-1302年)にノガイの末子トライの処刑をもってノガイ一族との内戦を終結させている。

トクタ・ハン本人はムスリム(回教徒)ではなかったが、宗教に対しては公平であり、ムスリムの学者を信任していた。ウイグル族はムシリムです。

財政面ではジュチ・ウルス初となる紙幣を発行して財政を潤わせています。 また、外交においてもイルハン朝(フレグ・ハン国)に対してはガサン、オルジェトゥ(フレグの曾孫、前君主・アルグンの長男、次男)の即位に祝賀の使節を送り、モンケ・テルム以来の血族友好政策を維持した。

更には カッファのジェノヴァ人と北方の異教徒が自国の児童をさらってイスラム諸国に奴隷として転売しているという領民の訴えを聴くと、その報復としてカッファへ派兵する善政を行なっている。

しかし、家庭的には不幸な人物であった。 トライ(ノガイの末子)に唆されてトクタ・ハンに反旗を翻した兄サライ・ブカを処刑、サライ・ブカと共に反乱を起こした別の兄弟ブルルクは国外に亡命する事件を起こされています。

兄弟での権力闘争は 世の常でしょうが 重なる不幸は 2人の息子が実父・トクタ・ハンの統治政策に反対して内乱を起こし、国を追われているのです。

彼の死後、甥のウズベク・ハンが跡を継いだが、ウズベクの簒奪を記録する史料は少なくないのです。 善政を敷くも、権力の亡者に取り囲まれた君主だったのか。

ジュチ一党2-5-2

 マムルーク朝の歴史家ドゥクマクが伝える『シャイフ・ウヴァイス伝』・『モンゴル帝国史』には、

ウズペクが イル・バサルをはじめとするトクタの一族を殺害してハンに即位したとあります。

ウズペクの即位に好意的である『ドスト・スルタン史』は、トクタは子のイル・バサルに跡を継がせるため兄弟、また イル・バサル以外の子孫を根絶やしにするが、イル・バサルは早世し、粛清から生き延びたウズペクを後継者に指名したと伝えいる。

さて、偏狭さの故に 兄弟や実子に反旗を翻させたのか 資料は何も答えてくれませんが、ただ 彼の性格の一端を覗う史実は・・・・・・・

ジュチ一党2-5-3

トクタの即位前、ベレヤスラヴリ公ドミトリーとゴロジェッツ公アンドレイーが ウラジーミル大公の位を争い、ドミトリーはノガイ、アンドレイーはサライのトレ・ブカの支援を受けていた。

即位直後の1292年に アンドレイーを筆頭とするルーシ諸侯(ロシア諸侯王)は、トクダ・ハンにドミトリーへの制裁を請願した。

トクタ・ハンは 即位当始 支持者であり協力者であったノガイと同じく ベレヤスラヴリ公ドミトリーの支持を考えていたが、ドミトリーがルーシ内(旧キエフ大公国)で優位を確立しつつある状況をふまえてゴロジェッツ公アンドレイーに与し、兄弟のトデゲンを指揮官とする軍隊をウラジミールに派遣した。

総指揮官トデゲン、ゴロジェッツ公アンドレイー、ヤロスラヴリ公フェオドルたちはウラジミールを占領し、スーズダリ・ベレヤスラブリ・モスクワなど周辺の14の都市を破壊、略奪した。

このトデゲンの侵入は、バトゥの大遠征、以来ルーシ諸侯がモンゴルより受けた軍事的制裁の中で最大のものであった。

この史実を鑑みれば、自己以外は信用しない偏狭さが濃厚な君主であったと思われます。 トクタ・ハン家は断絶してしまいます。

= バトゥの大遠征;1237年秋、ルーシ(現ロシア)方面に侵攻。 12月下旬にはリャザン、コロムナが劫略された。 1238年に入り2月にはウラジミール大公国を攻略し 3月にはウラジミール大公ユーリー2世と交戦しこれを討ち破って戦死に追いやった。

ルーシ北部諸国の多くが征服される一方でノヴゴロド公国のアレクサンドル・ネフスキーやガリーチ公ダニールらの帰順を受けている。

この征服戦でまだ小村であったモスクワも攻略され、反攻する城郭は徹底的な略奪・破壊が行なわれ、死の町に帰したと見られている。

その後遠征軍は南に進路を転じてコロゼリスを陥落させ、カフカス北部方面へ一時撤退、諸軍を休養させた。

この年の4月から翌1239年にかけてはカフカス北部の諸族・諸侯の征服を行い、怒涛の勢いで ハンガリー・ポーランドを侵攻。

1241年12月21日にオゴディ・ハーンが死去し、1242年3月にバトゥは大蒙古帝国第二代皇帝オゴディ・ハーンの死去にともなう遠征軍全軍の帰還命令を受けると、ただちにポーランド領エステルゴムを陥落させ、

将軍カダアンにポーランド王国ベーラ4世の追撃を命じ、自軍と蒙古軍団を ウィーン近郊のノイシュタットまで迫ったようだが、引き返した。 =

ウズペクの父トグリルチャは 長兄であるアルグイとともにトレ・ブカ(第8代宗主トレ・ブカ・ハン)、ゴンチェク兄弟によるクーデター事件に加担してトデ・モンケ・ハン(第7代宗主)を廃位させた中心人物です。

ジュチ・ウルスは このクーデターの結果 一時期この4者による共同統治が行われた。

『集史ージュチ・ハン紀ー』によれば 上記のように トデ・ブカ・ハン(は ノガイの計略によってトクタ・ハン(第9代宗主)に殺害された と記所述べている。

この時トレ・ブカ・ハン(第8代宗主)は 生母の忠告に従って弟のゴンチェクとノガイの幕営へ訪れており、マムルーク朝の歴史家ヌワィリーによればトグリルチャも兄のアルグイなど他の兄弟たちの過半とともに同行していたように記しています。

このヌワィリーの情報によれば、ノガイの命によりトレ・ブカ(第8代宗主)は他の兄弟たちとともに捕縛されていたように覗えるが、 その後の消息が掴めないので トレ・ブカはアルグイら他の兄弟たちとともに処刑されたと思われるのです。

しかし、ティムール朝(モンゴル帝国の継承政権のひとつで、中央アジアからイランにかけての地域を支配(1370年 – 1507年)したイスラム王朝)の歴史家ナタンズィーは

トレ・ブカ・ハンは ジュチ・ウルス右翼・青帳(キク・オルダ)の初代当主であるとしているため、あるいは助命されていた と言っています。 しかし、トレ・ブカ・ハンは トクタ・ハン(第9代宗主)にハン位を略奪されたことは事実です。

ウズペクは 叔父に当たるトクタ・ハン(第9代宗主)が存命中は、ジュチ・ウルスの一軍を任されていた将軍でした。

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彼・ウズペクは 『集史』によるとモンケ・テルム・ハン(第6代宗主)の十男で末子であったと思われるトグリルチャが父であり、 ジュチ家の王族としてはベルケ以来 イスラームに帰依し、信仰したことで知られている人物です。 スルターン・ムハンマヅ・ウーズベク・ハーンと称されている。

1312年 トクタ・ハン(第9代宗主)が死去すると、ウズペクは ハンに即位した。

ウズペク・ハン(生没年 ?-1340年)は、ジュチ・ウルス(キプチャック・ハン国)の第10代当主(ハン)として 在位期間は30年に及びます(1312年-1342年)。 バトウの玄孫に当たるわけです。

父・トグリルチャの正室バヤルンとホラズム地方(ペルシャ北部)の有力者クトルク・テルムの支援を受けたウズペクが、自分がムスリムであることに反感を抱いて暗殺を企てた将軍を殺害して、トクタ・ハンの息子イル・バサルより王位を奪ったと伝える史料は多いのですが、

【第7代宗主、トダ・モンケ・ハン以降 トレ・ブカ・ハン(第8代宗主)、トクタ・ハン(第9代宗主)と続いたジュチ・ウルスの宗主はジュチ・ウルス分裂の過度期にあって、分裂した後の諸家が自分に都合がいい歴史を記しているようです。 以降、ウズペク・ハンの即位経緯を 筆者なりに 整理して書き綴ります。】

後継者争いを恐れたトクタ・ハン(第9代宗主)は イル・バサルを除いた兄弟子孫を殺害するが、正嗣ノイル・バサルが早世してしまった。

トクタ・ハンは その後 かつての粛清を悔い、個人的な遺恨で将軍じけんを起こしたウズペクを母親・バヤルンがカフカース山脈に匿って居る事実を知ると 彼を後継者に指名したようです。

ウズペクが帰国する前にトクタ・ハンは他界した(1312年)。 前記のように マムルーク朝の歴史家ドゥクマクは ウズペクが イル・バサルをはじめとするトクタの一族を殺害してハンに即位したとありますが、

ウズペグが帰国した時には 非チンギスハーン裔のトク・ブカがハンを称しているのを知り、ウズベクは“トク・ブカ一家”を討って 即位したのが史実でしょう。  ここには《チンギス統原理》が働いています。

ジュチ・ウルスでの最高実力者ノガイですら ハン位に付こうとはせず、キング・メーカーに徹した結果 トクタ・ハン(第9代宗主)に殺害されています。

= チンギス統原理 ; 中央ユーラシアのモンゴル・テュルク系遊牧民の社会において広くみられた王権の正統性に関する思想で、民衆の支配者たるハーンの地位は、ボルジギン氏であるチンギスハーンと
その男系子孫によってのみ継承されるべきとする血統原理のことです。 従って、ノガイ始め如何なる実力者は君主に成ろうとしても 誰も従わないし、承認しないのです。

後年、ティムール朝を開闢したティムールの妃はチャガタイ・ハンの娘ですが、彼は終生“ジンギスハーンの娘婿”の称号でハン・皇帝とは名乗っていません。

そもそも中央ユーラシアの遊牧国家では、同一の男系に属する氏族のみしか君主になることができないとする血統原理を有することが古代の匈奴の頃から一般的であって、モンゴル帝国もその例外ではなかった。

ところが、モンゴル帝国が元、チャガタイ・ハン国、ジュチ・ウルス、イルハン朝など、いくつかの地域的なまとまりにゆるやかに解体・再編し、さらにそれぞれの地域でチンギスハーンの血を引かない有力者が実力を持つようになった14世紀後半以降に至っても、

モンゴル帝国の支配した地域では、チンギスハーンの血を引くものでなければハーンになることはできない、という観念“アンタン・ウルク/黄金の氏族”が長く残ることになった。 20世紀初頭まで続きます。 大和民族・日本の天皇家の皇位継承も この観念が核心なのでしょう =

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_______続く _______

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