成吉思汗・ジュチ一党の覇権 (2-6)

“アルタン・ウルク/黄金の家・ジュチ家”の正嗣が栄光 

Kranjska Gora

バトゥの玄孫に当たるウズベク・ハンは 1312年 ジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の第10代当主(ハン)に推戴され、即位した。 在位期間:1312年-1342年 の四十年間。

ジュチ・ウルスの実質的な創設者バトゥの政権は31年間(1225年 – 1256年)ですから、最長年間 宗主として君臨した。

軍事的にはマムルーク朝や東ローマ帝国と同盟を結ぶことでイルハン朝と対抗し、カフカースのデルベントを挟んでイルハン朝をうかがい、対峙した。

デルベントは、カフカス地方において、戦略的に重要な場所に位置している。 カスピ海とコーカサスの山々との間では、幅が3キロメートルしかない。 天下の腱

歴史的に、この地・デルベントは、ユーラシア草原と中東を結ぶ交通の要衝であったため、様々な民族の衝突の舞台となってきた。

デルベントの首長国は、1239年のモンゴル帝国による侵攻まで繁栄したが、北のジュチ・ウルスと南のイルハン朝 南北にモンゴル政権が対峙していたのです。

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1318年、ウズベク・ハンは 自ら軍を率いてイルハン朝侵入、若年のアブー・サィード・ハンと対陣するが、イルハン朝・将軍チョバンが二万有余の軍を率いて進軍している報告を受けると撤退している。

1334年8月に再び親征するが、翌1335年に新たにハンに推戴されたアルバ・ケウンに攻撃を阻まれた。 しかし、再三度 ウズベク・ハンは軍勢を南に向ける。

1335年11月、イルハン朝第9代の君主、アブー・サイードがカスピ海南西のアッラーン地方にあるカラバグで陣没した。 前年、ジュチ・ウルス・ウズベグ・ハンがカスピ海西岸のダルバンド経由で南下し、イルハン朝の領域に侵攻を準備しているとの知らせから親征したものだったが、彼は他界したのです。

アブー・サイードには嗣子が無かったため彼の死によってフレグ宗主の正嗣の嫡流が断絶してしまった。

このため、ラシードゥッディーン(第7代君主ガザンから次代オルジェイトゥ、アブー・サイード治世のもとで活躍した政治家)の息子での宰相(ワズィール)だったギヤースッディーン・ムハンマドらイルハン朝の諸臣は ジュチ・ウルスとの戦いで軍が動揺することを恐れて 遠縁にあたるアルバ・ケウンを即位させていたのです。

アルバ・ケウンは、トルイ家のアリクブケの次男メリク・テルムの子ミンガンの子ソセの子です。

言い換えれば、イルハン朝の初代君主であるフレグの同母弟で、大元ウルス・クビライ皇帝との後継者争いで敗れたアリクブケの玄孫。

アルバ・ケウン“カイドゥの乱”終息の後に大元朝に降服し、カイシャン(大蒙古帝国(元)の第7代皇帝)即位にともない皇位簒奪の嫌疑で処刑された安西王アナンダに連座して刑死したメリク・テルムの曾孫にあたります。 まさしく それぞれの血を引く“アンタン・ウルク/黄金の一族”です。

北方の勢力に対し ウズベク・ハンはジュチ・ウルスに対して反感もしくは独立の気配を見せていたモスクワ大公国をはじめとするルーシ諸国に対して軍事的に圧力をかけ、なおもジュチ・ウルスの勢威を示した。

特にマムルーク朝・モスクワ大公国に対しては、婚姻を通じての関係の強化を図っていた。

1316年にマムルーク朝のスルタン、ナースィル・ムハンマドが公女との結婚を求めたときには 結納をめぐって交渉は決裂したが、1319年にウヅベグからの強い申し出によってナースィル・ムハンマドとベルケ・ハンの娘との結婚が成立し経緯など ウズベク・ハンの政治的意図が見え隠れする。

また、西北ルーシで自立の意思を見せていたトェリヴ公ミハイル・ヤロスラヴィチに対しては、ミサイルと敵対するモスクア大公ユーリー3世に 実妹クンチェクを嫁がせ、モスクワ公にトヴェリ攻撃に際しての軍事的支援を約束しているなど、近隣の諸勢力にパワー・バランス外交を実践している。

前頁の絵は「モンゴルの皇帝(ウズベク・ハン)の前に引き出されたミハイル・ヤロスラヴィチ公」;ヴァシリー・ヴェレシチャーギン画 ですが、モスクワのユーリー3世のライバルとしてサライで ウズベク・ハンに粛清された様子です。であり、首府・サライで処刑された。 トェリヴ公ミハイル・ヤロスラヴィチは正教会の聖人として崇められています。

問題は同族との覇権競争だった。

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内政面においては積極的にジェノヴァ共和国やヴェネッア共和国からの隊商が来訪してくることを奨励し、彼らと通商関係を結ぶことで財政を大いに潤わせた。

また、首都のサライに壮大なヨーロッパ式の建築物・イスラムの宗教施設を多く創建している。

国民に対してもイスラム教をはじめとする宗教の保護を認め、ジュチ・ウルスの全盛期を築き上げたのです。

遊牧民の改宗が ウズベク・ハンの政治的な特異性でしょう

自己への暗殺を事前に阻止しての即位の経緯から分かるように領内のムスリムの数は少なく、ウズペクは 領内の非ムスリムに武力による改宗と服従を迫った。

力ずくでの改宗と保護政策により、彼の治世から王族や諸侯はじめジュチ・ウルス領内全域でも遊牧諸勢力のムスリム化が顕著になっていきます。

後年のティムール朝やムガル朝などの モンゴル系の君主・宗主 なた ジュチ家系列ノシャィバーニー朝の君主はじめジュチ・ウルス系の諸勢力に対し、
ペルシャ語、アラビヤ語資料は、「ウズベキヤーン(ウズベクの者たち)」という名で呼んでいます。

これは、14-15世紀にかけてムスリム化が促進したジュチ・ウルス内部の諸勢力が、自らのアイデンティティをジュチ家の系統かつムスリム(回教徒)であることを標榜し、その権威をジュチ・ウルスの宗主ウズベク・ハンに因んで呼んでいる、他称ないし自称でしょう。

ジュチ・ウルスの全盛期を築き上げる時間は十二分にありました。 しかし、ウズベク・ハンの後継者は凡庸であり、 バトゥ宗家はつ凋落の淵を彷徨います。

他方 同族のライバル・イルハン朝もティムール朝そ創始者“ビッコのティムール”とシャィバーニーに解体され終焉を迎えるのです。

後嗣 ティーニー・ペグ ジャーニー・ペグ ヒドル・ペグの三名を残して 1342年3月 ウズベク・ハンはサライにて 帰らぬたびに立った。

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ティーニー・ペグ(生没年?-1342年)が、ジュチ・ウルスの第11代当主(ハン、在位:1342年)として即位した。

先代のウズペク・ハンの長子である。 次代のジャーニー・ベグ・ハンの同母兄弟で、母はウズペグ・ハンの4人いた正妃(ハトゥン)のうち第一正妃で 大ハトゥンであったタイ・ドゥラであった。

バトゥの6世の子孫にあたります。 タナー・ベグ、ティニベグなどとも書かれている。

1334年頃 ウズベク・ハンの宮廷を訪れたイブン・バトゥータの旅行記には、両兄弟について記述している。

【 イブン・バトゥータ
モロッコのタンジェ生まれのイスラム法学者・旅行家(1304年2月24日 – 1368年)

1325年、21歳のときにメッカ巡礼に出発し、エジプトを経てマッカ(メッカ)を巡礼し、さらにイラン、シリア、アナトリア半島、黒海、キプチャック・ハン国、中央アジア、インド、スマトラ、ジャワを経て中国に達し、泉州・大都を訪問した。

1349年故郷に帰還したのちも、さらにアンダルシア(イベリア半島)とサハラを旅し、1354年にマリーン朝の都・フェスに帰った。 特にイスラームの境域地帯(スグール)を広く遍歴した。 稀代の旅行家 】

彼・イブン・バトゥータの著作によると、ウズペク・ハン在世中 金曜礼拝のときには、父やその妃たちが座す玉座の段に下、右側に第一王子としてティーニー・ペグが、左側に第二王子として弟のジャーニー・ペグが座していたという。

彼は 伝えている。 ティーニー・ペグは容姿秀麗な人物で、父ウズペグ・ハンから 次代のジュチ・ウルス当主として後継者に指名され、敬意を表される地位にあったと記載している。

イブン・バトゥータは 更に 紀行記に後の伝聞として、ティーニー・ペグは父の死後に当主として即位し、しばらくジュチ・ウルスを統治していたが程なくして殺害され、その後をジャーニー・ペグが継いだと 書き綴っている。

マムルーク朝の歴史家シュジャーイーの年代記によると、ヒジュラ暦742年(1341年-1342年)にウズペグ・ハンはチャガタイ・ウルスへ大軍とともにティーニー・ペグを派遣したが、 同年シャッワール月(1342年3-4月)にウズペグ・ハンはサライで亡くなり、

宮廷にいたジャーニー・ペグは策略を巡らして弟のヒドル・ペグともども兄のティーニー・ペグを殺害させ、即位したと書いている。

在位年月日が短いためか父ウズペグと弟ジャーニー・ペグの間から 後の文献では省かれる場合もあり、即位後に 殺害されたのでしょう。

【 ヒジュラ暦 ; ヒジュラ紀元は、主にイスラム教社会で使われている暦法および紀年法です。

第2代正統カリフウマル・イブン・ハッターブが、預言者ムハンマド(マホメット)がマッカ(メッカ)からマディーナへ聖遷(ヒジュラ)したユリウス暦622年を「ヒジュラの年」と定め、ヒジュラ暦元年とする新たな暦を制定した。

なお、ヒジュラがあったとされる正確な日付は同622年7月16日(ユリウス通日1948439日)であす。

ヒジュラ暦は太陰暦で、約29.5日である朔望月に合わせて、1か月が29日の小の月と30日の大の月という大小月をおおむね交互に繰り返す。 従って1年はおおむね354暦日となるので、1年ごとに11日ほど太陽暦とずれる。

そして、ヒジュラ暦は純粋太陰暦なので、日本の旧暦のような太陰太陽暦と異なり、閏月を置かず季節ないし太陽暦とあわせることをしない。

このように、季節を反映しないので、農事暦や財務暦としては不向きで、現代ではイスラーム圏でもグレゴリア暦が併用されていることが多く、イラン、アフガニスタンなど、紀元をヒジュラ暦元年に置く太陽暦であるヒジュラ太陽暦を併用する地域もあります 】

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________ 続く_________

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