成吉思汗・ジュチ一党の覇権 (2-7)

“アルタン・ウルク/黄金の家・ジュチ家”の正嗣が栄光

ジュチ一党2-7-1

ジャーニー・ペグ

ジャーニー・ペグ( 生没年?-1357年)は、ジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の第12代当主。 宗主在位:1342年から1357年の15ヵ年。

先々代のウズペク・ハンの息子。 先代のティーニー・ペグの同母兄弟で、母は父・ウズペクの4人いた正妃(ハトゥン)のうち 第一正妃で大ハトゥンであったタイ・ドゥラ・ハトゥン。 バトゥの6世の子孫にあたります。

名前の「ジャーニー」とは、ペルシャ語で「魂」「親愛さを」を意味する「ジャーン」 から派生した「霊」「精神」という意味の単語“ジャーニー”に由来しており、 兄のティーニーは「肉体の」「有形の」の意味と 対になる意味で命名されたらしい。

“名”は態・体を現すとか、父・ウズベグ・ハンが推し進めたジュチ・ウルスの領民のイスラーム化を更に推進する為であろうか 兄と弟を謀殺し、ハン位を市手中に収めると イスラーム化を強権で推進した。

その結果、実子に殺害されてしまうのですが・・・・・・

1334年頃にウズペク・ハンの宮廷を訪れたイブン・バットゥータの旅行記について 前日 話しましたが、彼は、両兄弟について述べられており、ジャーニー・ペグについて書いている。

敬虔なムスリムとして知られた人物で、 異教徒たちの寺院を破壊し、モスク(イスラム寺院)やマドラサ(イスラム・アカデミー)を建設して 父ウズペクが推進していた国内のイスラーム化に尽力を尽くす人物である。

また イブン・バットゥータによると、彼・イブン・バットゥータのイスラームについての教育は最高の人物だったようで、イブン・バットゥータは宮廷では 彼らジャーニー・ペグ配下のムスリム高官たちから 主人ジャーニー・ペグの方が人格的により好ましいからと勧められ、「彼の帳戸に滞在していた」とも書いているのです。

ジュチ一党2-7-2

カッファ包囲戦

ジャーニー・ペグ・ハンは ジェノハヴァが領有するクリミヤ半島の都市カッファを占領するため数度の攻撃をかけている。

紀元前6世紀ころ、ギリシャの植民市テオドシアとして カッファは建設された。 ギリシャの諸ポリスなどへ穀物を輸出する港として重要な役割を果たしていたが、その後 ゲルマン民族の攻撃を受けて一旦荒廃した。

13世紀、第4回十字軍によって東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が一時的に滅亡したこともあり、地中海東部・黒海におけるイタリア商人の影響力が強まった。 こうした中、テオドシア(カッファ)はジェノヴァの支配下におかれ、カッファと改称し ジュチ・ウルス君主の交易 また 略奪の対象となっていた。

1347年にカッファを包囲した際、軍内にペストが蔓延して撤退を余儀なくされた。 いざ撤退しようとするとき、ジャーニー・ペグ・ハンは ジェノヴァ軍に呪詛の言葉を叫んで、ペストに感染した兵の死骸を町の中に投げ入れたという。

実際にそのような行為に ジャーニー・ペグ・ハンが出たかの真偽は定かではないのですが、この事件は 噂の伝聞として イタリア・ローマでは誇張され、オスマン帝国の台頭・ルーシ諸侯の離反へと繋がって行きます。

他方では、イスラーム化に邁進する父親に後嗣・ベルディ・ペグが離反していくのです。

ジュチ一党2-7-3

1355年にジャーニー・ペグ・ハンがチュバン朝の支配下にあったアゼルバィジャンを占領した。 この占領の際、アゼルバイジャン総督として 後嗣・ベルディ・ペグが駐屯を命じられた。

本国に帰還したジャーニー・ペグ・ハンが重病に罹った。 報告を受けると、ベルディ・ペグはアミール(貴族)のアヒジャクにアゼルバイジャンの統治を委ねて本国に戻った。

かねてから、ジュチ・ウルスのイスラーム化を進める父と対立していたベルディ・ペグは、側近と共に ]遂に 父・ジャーニー・ペグ・ハンを殺害して王位を奪った。 1357年の事件であった。

玉座に座ったベルディ・ペグ・ハンは しかし 父だけでなく、12人にも及ぶ兄弟を殺害するなど反対派への粛清を徹底した。 だが、粛清から逃れた弟・クルナに 1359年に暗殺されてしまう。

その経緯、その後のクルナの動向など 詳細は歴史の闇の中です。

ベルディ・ペグ・ハンの死後、ジュチ・ウルスは大混に陥り、バトゥ家は断絶します。

ベルディ・ペグ( ? – 1359年)は、ジュチ・ウルスの第13代君主(在位;1357年 – 1359年)。 第12代君主のジャーニー・ペグの子。 バトゥ7世の子孫だった。

各地に ジュチの子息達(バトゥの兄弟)の継承家“アンタン・ウルク/黄金の氏族”が各地に君主が乱立することになった。

ジュチ一党2-7-4

バトゥ家の実質最後のハンであった第13代君主ベルディ・ペグ・ハンが死去した14世紀半ば以降、ジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の二つの根幹であった。 ボトゥ家オルダ家です。

オルダはジンギスハーンの長男・ジュチの長子、バトゥは次男です。 領土・ジュチ・ウルスを右翼・左翼に分割して宗主・ジュチより拝領し、継承した。

バトゥはヨーロッパ遠征以降、大蒙古帝国内で万全の地位を固め キプチャク草原に君臨した。 ジュチの正嗣子13名は右翼・左翼の両家に従属していた。

オルダ家は何時しかバトゥ家に吸収され、ジュチの正嗣子13名の一部は戦いの為 家名を継ぐ事ができず、相次いで断絶していった。

1360年当時(バトゥ家断絶の頃)ジュチの五男“シバン”と末子の13男“トカ・テルム”の血筋のみが隆盛であった。

1359年に起きた、クルナの兄・ベルディ・ペグ・ハン暗殺事件で ジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)は その宗主位を巡って激しい後継者紛争が勃発した。 いや ウズベク・ハン ・第10代宗主の推戴に その火種があった。

オロス・ハンはオルダ家が統率していたジュチ・ウルス左翼を構成するジュチ裔トカ・テルム家の王族のひとりであった。 クトルク・パジャの子。

オルダ家断絶後のジュチ・ウルス左翼の地域で徐々に頭角を現して 左翼ウルスの再編を行っていた。

1368年、シグナムででハン位につくと、バトゥ家とオルダ家が断絶して以来混乱の続くジュチ・ウルスを統合し、ウルスの左右両翼の再編を目指し、1372年 首府サライを占領する。

しかしヴォルガ河流域を支配していたママイ(ロシア・ルース系)の勢力とは争わず、シンダリヤ方面(アラル海)に帰還した。

1376年、ティムールの支援を受けたトクタミシュ(ウルス左翼の小王族、ティムール朝の支援を受けて勢力拡大するも、ティムールへの信義を欠き 凋落する)の数次にわたる侵攻を受ける。

以前、オスロは 同じトカ・テルム家ウルン・テルム裔のサリチャの曾孫でマンギシュラ(カスピ海東岸の王族)の長官トイ・ホージャと対立し、彼を殺害していた。

ティムールと結んだトクタミシュは このトイ・ホージャの息子であり、オロスはトクタミシュを年少の所以をもって助命したが、トクタミシュは脱走と帰順を繰り返した後に アラル湖南方のマーワラーアンナフル地帯で支配権を確立した新興のティムールの元に亡命していた。

ティムールの支援軍団を同行したトクタミシュの1度目の侵攻に オロス・ハンは子のクトゥルカ・ブカに迎え撃たせ、トクタミシュの撃退には成功したものの、クトゥルカ・ブカ が戦死を遂げたのです。

2度目の侵攻では長子のトクタキアヤが敗北するも、トクタミシュを負傷させ撤退に追い込んだいます。

3度目の侵攻はティムールが自ら兵を率いて攻めて来たが、オロス・ハンは部隊をオトラル(歴史的都市遺跡
)に派遣し、

オロス・ハン自身は シグナク城塞を固めて持久戦に持ち込んだ。 冬の到来によって両者は休戦し、ティムールは 故里のケシュ(サマルカンド市近郊)に帰還した。

【 オトラル ; スイル川中流の右岸、支流アリス川との合流点近く 現カザフスタン領南部 ジンギスハーン西遠征はこの街で起きた事件に端を発する。

13世紀にモンゴル帝国により攻略され、徹底的な破壊を受けた。 その後復興して数百年にわたって栄えたが、のちに衰亡し、現在は内城の廃墟が残るのみでした 】

翌1377年春、オロス・ハンは ティムールの再度の侵攻を迎え撃ち、ウストユルト台地で戦ったが、対陣中に没した。 死因については自然死、あるいは負傷がもとで戦死したとする説がありますが・・・・

オロス・ハンは 祖父のエルゼンにならってシグナルに多数の建築物を寄進しているほか、ヒジュラ暦776年(1374年-1375年)とヒジュラ暦779年(1377年-1378年)に 首府・サライで鋳造し 流通させた貨幣が現存しています。

尚、正嗣男子は トクタキヤ、クトゥルク・ブカ、トゥグルク・ブーラード、クユルチュク、ロクタ・ブーラード、サイイド・アフマド、               サイイド・アリー の七名 (トクタギがハン位を継承)

皇女女子は、メングリ・ベク、シカル・ベク、スディ・ベク、イーラーン・ベク、メングリ・トゥルカンの 5皇女

ジュチ一党2-7-5

“跛行のティムール”

若い頃のティムールは軍人階級の子弟として乗馬や弓術を学び、軍人としての鍛錬も受けていた。
しかし、裕福な階級出身ではない。

叔父に勇猛で知られるハッジー・バルラスがおり、彼の師事を受けたという。

この頃 チャガタイ・ハン国(ジンギスハーンの次男の封土)は東西に分裂しており、混乱に乗じて ティムールは 悪友・従者を率いて家畜の略奪を行う盗賊のようなことをしていた。

しかし 徐々に優れた軍事指揮者としての才能をあらわして次第に人望を集め、20代の始め頃には300人の騎馬兵を従える西チャガタイ・ハン国(西トルキスタン南部)の有力者へとのし上がっていった。

1359年、西チャガタイ・ハン国のスルダス部とバルラス部の貴族が蜂起した。 ティムール 雇われて、これ等の蜂起を鎮圧している。 翌年には バルラス部の総監を追放している。

1360年、ティムールは部族の指導者にのし上がった。 同じ年に東チャガタイ・ハン国(現在の新疆地区のモグーリスタン・ハン国)のトゥグルク・ティムールが侵攻してくると、ティムールはこれに従属してバルラス部の旧領を与えられた。

同時期にカラウナス部のトゥグルク・ティムール(蒙古貴族・地方総督)の妹を娶り姻戚となっている。

1361年、ティムールは トゥグルク・ティムールより正式に部族の指導者として認められ、トゥグルク・ティムールの信任を得て 皇子のイリヤース・ホージャの養育係を授けられ、マーワエアーアンナフル地方の摂政、1万人隊の指揮官となった。

しかし、それから間もない1361年に 理由は不明ながら家族や極少数の供回りを連れて故郷のバルラス部、ケシュへ逃亡した。

この次期に 義兄のトゥグルク・ティムールと共に マーワエアーアンナフルの奪還を謀って雌伏するティムールは モグーリスタン・ハン国シースタンの王子から傭兵として各地の反徒鎮圧の仕事を受けるが、報酬を受け取る段になってシースタン側は反徒と結託、待ち伏せ攻撃を受ける事態に陥っている。

この時の戦いで片手片足を負傷し「跛行のティムール」を意味する “チムールレング”のあだ名で呼ばれることとなる。

その後、ティムール帝国(ティムール朝)を開き、中央アジアに君臨する。 そして、彼の五代目の皇統のパーブルが ムガル帝国を開闢する。

・・・・・・前記載 西域人物伝“ティムール伝”・“ティムールの系統”シリーズを参照下されば 幸甚・・・・・・

ジュチ一党2-7-6

__________ 続く___________

 

 

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