成吉思汗・ジュチ一党の覇権 (2-8) 

“アルタン・ウルク/黄金の家・ジュチ家”の正嗣が栄光

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トウタキヤ(生没年 ? – 1377年)は、バトゥ家断絶後のジュチ・ウルスのハン(1377年)と成った。 ジュチ家トカ・テルム家出身のオロス・ハンの長男。

後にカザフ・ハン国の始祖となったケレイの祖父にあたる。 15世紀の『ムイーン史選』など、後代の歴史家によって、白帳ハンの第6代とされている。 また、ティムールの伝記である『勝利の書』では、トキタキヤはジュチ・ウルスの当主としてはジュチから数えて第21代。 16世紀初頭の『伝記の伴侶』では同じく第22代に数えられています。

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14世紀半ばにジュチ・ウルスの二つの根幹であったバトゥ家オルダ家が相次いで断絶し、ジュチ・ウルススは宗主位を巡って激しい後継者紛争が続いていた。

トキタキヤの父・オロス・ハンは オルダ家が統率していたジュチ・ウルス左翼を構成するジュチ裔トカ・テルム(ジュチの末子13男)家の王族のひとりで、オルダ家断絶後のジュチ・ウルス左翼の地域で徐々に頭角を現し、ウルス(封土)の再編を行っていた。 その過程でオロス・ハンと対立・刑死したかつてのマンギシュラク(カスピ海東岸)の長官で 同じトカ・テルム家の王族であったトイ・ホージャの遺児トクタミシュは、マーワラーアンナフルのティムールのもとに亡命し、たびたびティムールの支援を受けてジュチ・ウルスへ軍を侵攻させていた。 再三再四の侵攻に オロス・ハンは 実弟のクトルク・ブカを迎撃に派遣、撃退に成功したが、クトルク・ブカは戦死し、2度目の侵攻では 長子であるトクタキヤが迎撃に出たが敗北してしまった。 しかし、トクタミシュを負傷させ軍も撤退に追い込んだ。 3度目の侵攻には トクタミシュを支援するティムール自身が出陣したものの冬の到来によって両者は休戦し、翌年1377年春には4度目の侵攻で再びティムールが侵攻して来た。 これにオロス・ハン自身も迎撃に出たが、会戦前にハンは病死してしまった。 1377年、トウタキヤは父オロス・ハンの死で 跡を継ぐが、即位後約3か月で死去してしまった。 「公正で優しい」君主だったという 領民・側近達は悔やんだと言う。 トウタキヤ・ハンの崩御で ティムール・メリクが推戴された。 ジュチの十三男トカ・テルムの末裔であるが、彼の出自については依拠する資料によって2つの説があるのです。 トカ・テルムの子息たちのうち、キン・テルムの子アバイの子ノムカンを祖父とし、クトルク・テルムを父であるとする説、あるいはキン・テルムではなくキンテルムの兄ウルン・テルムの後裔であるオロスの子でトクタキアの弟とする説です。 「飲酒に耽って常に酩酊し、政務を放棄した」人物だったと史書にあります。 また、オスロ・ハンの正嗣男子に その名前が記載されていませんから、前説が濃厚でしょう。 マーワラーアンナフルに基盤を持つティムールは トクタミシュを支援の方針を変えずにジュチ・ウルスに侵攻してくる。 ティムール・メリクは 1376年から1377年にかけてのティムール迎撃に従軍した際、脚を負傷した記録が残っている。 1377年 ティムール・メリクは即位し 1378年 ジュチ・ウルスのハン位を欲するトクタミシュと交戦し、一度は勝利するが、同年の“カラタルの戦い”で 泥酔して昼間からで眠っているティムール・メリク・ハンに 部下たちは愛想を尽かして トクタミシュ側に寝返ったのです。 1378年の“カラタルの戦い”で ティムール・メリク・ハンはトクタミシュに敗れて戦死し、王位を奪われた。 ハン在位 1377年から1378年の短い期間でした。 1378年遅く トクタミシュがジュチ・ウルスの支配者になった。 跛行のティムールの支援だなければ、この地位には立てなかった。

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分裂後のカザフ・ハン国 緑:小ジュズ、オレンジ:中ジュズ、ピンク:大ジュズ

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 1378年、トクタミシュはティムールの支援を受けてキプチャク草原に還り左翼の支配者として、“カラタルの戦い”で、ジュチ・ウルス右翼(東部)のハン、ティムール・メリク・ハンを破り、都・サライを征服してジュチ・ウルスのハンに即位した。

1380年にはクリミヤ半島を本拠地にバトゥの西部で自立していたキヤト部族のママイを “カルカ河畔の戦い”で討ち、ジュチ・ウルスの再統合を達成した。 トクタミシュ(生没年 ? – 1406年)は、ジュチ・ウルス左翼(東部)の小王族からティムール朝の援助を受けてハンに立ち、分裂していたジュチ・ウルスの再統合と再編を果たしたが、後に 恩多大なティムールと対立し、敗れ 没落して行きます。 その経緯は、前作に記載済みですが・・・・・・・ トクタミシュは、ジュチ・ウルスの最盛期の勢威を取り戻すため、1380年にママイを破り、続く“クリコヴォの戦い”で勝利を収め、進撃止めることなく ジュチ・ウルスからの独立をはかっていたモスクワ大公国を襲い、1382年には帝都・モスクワを一時占領した。 【 “クリコヴォの戦い” ; 1380年9月8日、モスクワ大公ドミートリー・ドンスコイの率いるルーシ(ロシア)諸侯連合軍が、キプチャク・ハン国のママイ・ハン部隊とそれに同盟したリトアニア大公国・ルーシ諸侯などの連合軍とトクタミシュ・ハン(ジュチ・ウルス勢力)の戦い。 トクタミシュ・ハンが勝利する 】 さらに トクタミシュ・ハンは 1385年からティムールが 南方のペルシャへの3年戦役に出た間隙をついてティムール朝領を攻撃し、旧ジュチ・ウルス領のホラムズ(ティムールの長子が総督として駐在)を占領した。 しかし、これにより トクタミシュ・ハンはティムールと全面的な対立を余儀なくされ、1389年以来3度にわたる遠征を受けた。 1395年の侵入では、カフカスから侵入したティムールに“テレク河畔の戦い”で敗れ、首都・サライを破壊された。 敗北したトクタミシュ・ハンは没落し、マンギト部の将軍エディゲは先代・ティムール・メリク(トクタミシュが打ち破った)の子ティムール・クトルクをハンに擁立した。 ジュチ・ウルスの纏める中核がなくなり、再び “アンタン・ウルク/黄金の氏族”が個々に 分裂割拠の時代になる。 トクタミシュ・ハンは その後、ティムールと和解して再起を図ったが、1405年にティムールが死ぬ(明王朝への征服遠征途上)と後ろ盾を失い、翌年 西シベリアで流遇していたところを将軍エディゲによって殺害されたている。 15世紀に トクタミシュ・ハンの子孫は勢力を回復してエチディゲを敗死させるに至り、首府・サライのハンの座をティムール・クトルクの子孫など 他のトカ・テルム系の諸家と争ったが、トクタミシュ・ハン国を分立させることなく16世紀までには歴史から姿を消した。

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カザフ・ハン国は、15世紀から19世紀にかけて現在のカザフスタンに存在したテュルク系イスラム王朝。 ジュチ・ウルスのトカ・テルム家の子孫が建て、権勢を周辺に示した。

1446年、ウズベクのアブール・ハイル・ハンが シル川(東部よりカスピ海に注ぐ)中流域のオアシス都市スグナク,サウラン,ウズゲントを占領すると、もともとシル川中流域を拠点としていた連中(カザフと呼ぶ遊牧民)がトカ・テルム家のクレイとジャーニー・ペグを擁してアブール・ハイル・ハンに背き、モグリースタン(天山山脈一帯を支配するチャガタイ・ハン国の系統)の辺境に移住した。 1468年、アブール・ハイル・ハンが没すると、ウズペグのウルス(領地)は分裂状態に陥り、モグリースタン辺境のカザフ族のもと 多くの領民が流れ、クレイ、ジャーニー・ペグの両ハーンを君主とあおいでカザフ・ハン国を形成、その数は20万に達したといいます。 1508年から1509年にかけてシャイバーニー朝のムハンマド・シャイバーニー・ハーンが侵攻してきたが、カザフ・ハン国のブルンドゥク・ハン(在位:1473年/1474年 – 1511年)はその撃退に成功した。 【 シャイバーニー朝、或いは シャイバーン朝 ; と称されるこの王朝の名はチンギスハーンの長男ジュチの第5皇子であるシバンからきている。 従って、シャイバーニー朝と呼ばれる王統はいくつもあり、ブハラ・ハン国を始めヒヴァ・ハン国,シビル・ハン国もシャイバーニー朝ですがが、ブハラ・ハン国のムハンマド・シャイバーニー・ハーン以降の政権を特にシャイバーニー朝と呼び、 ティムール王朝を解体に導く 】 シャイバーニー朝のムハンマド・シャイバーニー・ハーンに率いられたウズベクが テームール領内のマワーラーアンナフルへ移住すると、カザフ・ハン国はキプチャク草原の遊牧民を麾下におさめ、カシーム・ハーン(在位:1511年 – 1518年)の時代に強盛となった。 彼らはシル川中流域やセミレチエ地方のオアシス都市を支配下に入れ、東西トルキスタンをしばしば攻撃して周囲の諸勢力に恐れられた。 1598年にシャイバーニー朝朝のアブドゥル・ムウミン(在位:1598年)が暗殺されると、カザフ・ハン国はその混乱に乗じて シャイバーニー朝朝に侵攻したが、シャイバーニー朝のビール・ムハンマド2世によって撃退されている。 【 ティムール朝の崩壊以降 中央アジアの蒙古・ウズペク・カザフを中心とする騎馬遊牧民族の政権は ジンギスハーンのジュチ家の血脈を核とするも、中央アジア全域を統制する“アンタン・ウルク/黄金の氏族”は現れなかった。 群雄割拠の時代が16世紀・17世紀です。 この時代、ジュチ一党の血脈を追うには 歴史資料が煩雑であり、また 分裂したジュチ末裔の諸家の史跡は ユウラシア大陸的史観では意味のないことでしょう。 以降、大筋を 記述します・・・・・・・】 18世紀前半までにカザフ・ハン国は政治的な統一を失い、セミレチエ地方の大ジュズ、カザフ草原(キプチャク)中部の中ジュズ、カザフ草原西部の小ジュズという部族連合体が形成されていった。 この頃のカザフはたびたび東のジュンガル(天山山脈とアルタイ山脈間の大草原に蒙古系の勢力)の侵攻に遭っており、特にジュンガルの1723年の侵攻は「大いなる災厄(アクタバン・シュブルンドゥ)」と呼ばれるほどの大打撃を被った。 1730年、小ジュズのアブール・ハイル・ハーン(在位:1716年 – 1748年)は、当時着々と東方に進出してきたロシア帝国(モスクワ大公国の系列)に使者を送り、服属を願い出た。 これにならって他のジュズのハーンも服属を表明し、ジュンガルの脅威に備えた。 1820年代に入ると、ロシア帝国はカザフ草原の安定化をはかるために、すでに権威を喪失していた小ジュズと中ジュズのハーンに代わって直接統治を始めた。 同じころ、新興のコーカンド・ハン国(トカ・テルム家の子孫か建国)に備えるべく、セミレチエ地方の大ジュズもロシア統治を受け入れた。 こうしてロシア帝国に組み込まれたカザフ草原は、アクモリンスク州,セミバラチンスク州,セミレチエ州,ウラリスク州,トルガイ州,シルダリア州の6州に区分され、その東半分は 1891年にステップ総督府の管轄下に置かれた。 ロシア革命・独立闘争をへて今日に至る・・・・・・・・

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_________ 続く_________

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