成吉思汗・ジュチ一党の覇権 (2-9)

“アルタン・ウルク/黄金の家・ジュチ家”の正嗣が栄光 

【 アストラハン・ハン国/カザン・ハン国/クリミヤ・ハン国/カシモフ・ハン国 】

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アストラハン・ハン国/カザン・ハン国/クリミヤ・ハン国/カシモフ・ハン国

 アストラハン・ハン国は、15世紀から16世紀にかけてヴォルガ川下流域、カスピ海北岸にあったジュチの末子トカ・テルム系国家。 首都はアストタハンにあった。

キプジャック・ハン国(ジュチ・ウルス)が弱体化した後、カザン・ハン国やクリミヤ・ハン国などとともに独立。

カシム・ハン(在位1466年 – 1490年)によって1466年ごろに建設された。

その後を継いだ弟アブドゥル・カリム(在位1490年 – 1504年)のときに大きく発展している。

水陸の交通、交易の要衝として繁栄したが、クリミヤ・ハン国など周辺の諸国家から絶えず襲撃を受けた、大きく発展させる君主が現れぬ間に、ロシア・モスクワ大公国に併呑されてしまう。

15世紀から17世紀にかけて、モスクワ大公国の主権下において存在するしか家系を維持できなかった。

【 イヴァン4世 ;、モスクワ大公(在位1533年 – 1547年)、モスクワ・ロシアの初代ツァーリ(在位1547年 – 1574年、1576年 – 1584年)。

イヴァン雷帝という異称でも知られる。 ヴァシーリー3世の長男、母はエレナ・グリンスカヤ。

東方への領土拡大が進められ、アストラハン・ハン国とカザン・ハン国をモスクワ国家に組み入れて、治世末期にはシビル・ハン国征服事業も成功裡に進んでいた。

しかし、西部国境で長期にわたって続けられたリヴォニア戦争(対スゥエーデン王国)は、完全な失敗に終わり、国内を激しく疲弊させる結果となった。

内政面では、16世紀ヨーロッパにおける絶対君主制の発展の中で、ツァ-リズムと呼ばれるロシア型の専制政治を志向し、大貴族の専横を抑えることに精力を傾注した。

1547年の「全ルーシのツァーリ」の公称開始、行政・軍事の積極的な改革や、大貴族を排除した官僚による政治が試みられた。

その反面、強引な圧政や大規模な粛清、恐怖政治というマイナス面も生じた。 結果的に大貴族層は権力を保持し、イヴァン4世の亡き後のツァーリ権力の弱体化に乗じ、ロマノフ朝の成立までモスクワ国家を実質的に支配することになる。

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きわめて残虐・苛烈な性格であったためロシア史上最大の暴君と言われ、「雷帝」という渾名は、彼の強力さと、冷酷さを共に表すものでしょう。

ただし、ロシア語の渾名「グローズヌイ」は「峻厳な、恐怖を与える、脅すような」といった意味の形容詞で、この単語自体に「雷」という意味はないそうです 】

ロシア・イヴァン4世(雷帝)にとって 東部方面においてカザン・ハン国征服は治世初期からの懸案であった。 正教会からもイスラームに対する聖戦として支持されていた。

当初は傀儡を立てた間接統治を目指すが失敗、1552年10月にカザン・ハン国を攻めて陥落させた。

しかし、しかし残存勢力の撃退は長引き、1557年まで続いている。

アストラハン・ハン国に対して1554年を従属国化している。 当時 アストラハン・ハン国君主・デルヴァッシュ・ハンはクリミア・ハン国と共に 共同戦線にて この一帯からのロシア人駆逐を図ったが、イヴァン4世(雷帝)は1556年軍隊を送り、アストラハン・ハン国をロシアに併合した。 そして アストラハン・ハン国は潰えた。

デルヴァッシュ・ハンはアゾフの要塞(ドン川の河口は交易上、重要な城塞)に逃亡した。

後年、ロシア・ツァーリのピョートル大帝がアゾフの再占領を開始した。 1695年の攻撃は失敗したものの、1696年に要塞を再占領した。

しかし、大北方戦争最中の1711年 ピョートル大帝オスマン軍に包囲され、解囲の交渉の際にアゾフ要塞はオスマン・トルコの管理下に置かれます。

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カザン・ハン国

カザン・ハン国は、ジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の継承国家のひとつで、15世紀から16世紀にかけて ヴォルガ川中流域を支配したテッルク系イスラム王朝。 首都はカザン。 ジュチの末子トカ・テルム系国家。

ヴォルガ川下流のサライ(ジュチ・ウルスの首府)周辺において行われたハン位を巡るジュチ・ウルス内の政権抗争に敗れた王族ウルグ・ムハンマド(通称・大ムハンマド)が、

1437年あるいは1438年にジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)領の北方辺境であったヴォルガ・ブルガリア王国の故地に退き、この地でハンを称したことにより成立した。

その領域は、現在のタタールスタン共和国、マリ・エリ共和国、チェヴァシ共和国、モルドヴァ共和国、ウドムルト共和国の一部、バシコルトスタン共和国の一部を含み、住民はタタールと呼ばれるモンゴル系・テュルク系の人々と、フィン・ウゴル系の諸民族からなってますが、ジュチを宗主とする大蒙古帝国の封土であった。

東西交易の中継地として繁栄したが、15世紀後半以降はハン位を巡る争いから常に政治的に不安定で、新興のモスクワ大公国とクリミヤ・ハン国の影響を受けた親モスクワ派と親クリミヤ派の対立が続いた。

さらに16世紀前半に ムハマド・アミーンが没してウルグ・ムハンマド直系の家系が断絶すると、親モスクワ派の擁立するカシモフ出身のハンと親クリミヤ派の擁立するクリミヤ出身のハンが頻繁に交代した結果、115年のあいだにハンが19度も交代する混乱が続いた。

1545年から、モスクワ大公国・イヴァン4世は ヴォルガ中流域に勢力を広げるため カザン・ハン国への干渉を強め、1552年にカザン市はついに陥落、カザン・ハン国はオシア・モスクワ大公国に併合された。

カザン・ハン国の遺民は1556年まで各地で戦いを続けたが、鎮圧された後のタタール人は強制移住やキリスト教への改宗を強いられるなど抑圧を受けた。

ロシア人の“タタールのくびき”への反動は陰惨を極めたと言う。 蒙古族の敗退の原因は、

大蒙古帝国時代から続く将軍や諸将が貴族化していった背景が ジュチ・ウルス総体の戦闘能力を低下させていたのでしょうか・・・・・

火器の軍事使用がオスマン帝国を始めとする新興国家の軍事的背景にあったのです。 事実、ティムールの末裔・パーブルがインド大陸に侵攻し、ムガル帝国を開き得たのは オスマン帝国からの大砲の導入が勝戦の連鎖を生んだからなのです。

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 クリミヤ・ハン国

クリミヤ・ハン国は、ジュチ・ウルスの後継国家のひとつで、クリミヤ半島を中心に存在した政権。
首都はバフチサライ。

騎馬民族の曾、スキタイが馬の轡を考案し 騎馬を強力な兵器として、遊牧騎馬帝国を築いた地域である。 しかし、火器の開発が騎馬民族国家を追い詰めていった。

蒙古・ジュチ・ウルスの領域であるクリミヤ・ハン国の支配下で、クリミヤ半島にはテュルク諸語の一種を話すムスリム(イスラム教徒)の住民が多く居住するようになった。

彼らの子孫が、現在 クリミアで少数民族となっているクリミヤ・タタール人です。

クリミヤ・ハン国は15世紀中頃に、クリミヤ半島にいたチンギスハーン後裔の王族、ハージー1世ギレイによって建国された。

6世紀前後の系譜資料によれば、ハージー・ギレイの先祖は、チンギスハーンの長男ジュチの13男であるトカ・テムルに遡る。

『集史』などのほぼ同時代の情報によれば、トカ・テルムはジュチ・ウルスの東部を統括していた兄オルダのもとにいたとみられるが、その子孫の一派はクリミアにいたらしく、13世紀後半にモンケ・テルム・ハンによってクリミヤ半島の支配権を認められたと伝承されている。

明らかな歴史では、クリミヤは 1238年にモンゴル帝国のバトゥの遠征軍によって最終的に征服され、ジュチ・ウルスの元では右翼の一派として、

ソルハット(現スタールイ・クリム)を中心として、ジュチ・ウルスに属するテュルク・モンゴル系の集団(後年に、タタールと呼ばれる人々)の主要な居住地のひとつとなっていた。

14世紀後半、バトゥ家および東方のオルダ家の断絶にともなってジュチ・ウルス(キイプチャク・ハン国)が混乱すると、特に右翼ではハンを称する者が乱立し、クリミアは次第にジュチ・ウルスの中心都市サライ(帝都)を支配するハンから自立するようになった。

クリミア半島は豊潤な地域で 経済活動は 黒海を控え、地中海を通じて エジプトやローマに直接繋がっていた。 遊牧騎馬民族の性格は薄い。

商業活動は活発で残された貨幣史料からは、バシ・テルムが、クリミアで 自らの名を刻んだ貨幣を鋳造していたことが明らかになっています。

1394年から1395年にかけて、ティムール朝およびシャイバーニー朝で編纂された系譜史料によれば、バシ・テルムは この頃のサライのハンであったトクタミッシュの再従兄弟であり、

また、後年に サライのハンを経て カザン・ハン国を建国したウルグ・ムハンマヂ(大ムハンマド)の叔父にあたるとされている。

いずれにせよ、イスラム社会では、貨幣に自らの名を刻むことは主権の宣言を意味し、この頃クリミアのタタールがサライのハンから 相当程度独立していた事実の証と言えるでしょう。

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1430年前後のジュチ・ウルスのハン位めぐる激しい内乱の後、バシ・テルムの孫でクリミアにいたハージー1世ギレイは、リトアニア大公国(ルーシ諸侯の雄)の支持を受けて自立をはかり、1441年頃、クリミアにおいてハン位を自称、独立を宣言した。

ハージー1世ギレイの死後、クリミアではハンの位を巡ってハージー・ギレイの息子たちの間で内紛が起こり、1475年にオスマン帝国の介入を受けた。

オスマン帝国は、ジェノヴァが保有していたクリミア半島南岸の諸港湾都市を奪って自領に編入するとともに、内陸部から半島以北を支配するクリミア・ハン国を従属国とした。

一方、オスマン帝国の支持を得て1478年にハンの座を最終的に確保したハージー1世ギレイの六男メングリ1世ギレイは、オスマン帝国の保護下で勢力を蓄え、1502年にはサライを攻略、分裂後のジュチ・ウルスにおいて正統政権と目されるウルグ・オルダを滅ぼした。

これにより、黒海北岸をドニエブル川下流域から北カフカスの一部まで支配し、タタールのみならずノガイの一部まで支配する王国を創り上げた。

また、ウルグ・オルダの併合は、このクリミア・ハン国政権に ジュチ・ウルスの正統な後継者としての権威をもたらしのです。

その後 クリミア・ハン国のハン位を独占したメングリ1世ギレイの男系子孫はみな名前の後半に「ギレイ」の名を冠したため、この王家は「ギレイ家」と通称され、 1532年、サーヒブ1世ギレイはバフチサライに宮殿を築き、そこへ遷都したのですが、

ルーシ諸侯で急激に勢力を拡大したモスクワ大公国とリトアニア大公国の勢力争い、ジュチ・ウルスの正統継承者として 対オスマン帝国やルーシ諸公国への外交問題がクリミア・ハン国の手枷・足枷となって崩落の坂を転がり落ちていくのです。

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________ 続く_________

 

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