成吉思汗・ジュチ一党の覇権 (2-11) 

“アルタン・ウルク/黄金の家・ジュチ家”の正嗣が栄光 

ジュチ一党2-11-1

【ジュチの第5子・シバンの一族】

ブハラ・ハン国は、16世紀初頭から20世紀初頭まで、中央アジアに栄えた諸テュルク系イスラム王朝を示しますが、ブハラに帝都を設けていたので“ブハラ・ハン国”と呼ばれる。

現在のウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタンの一部に存在した。

ジンギスハーンの長男・ジュチが第5皇子であるシバンからきている。

シバンはジュチ・ウルスを実質的に確立・拡大したジュチの次男・バトゥが左翼に封土を 右翼にオルダ(ジュチ・長男)が配された時、オルダ側の右翼に属していた。

シバンの後裔からは シビル・ハン国、ブハラ・ハン国、ホラムズ・ハン国が枝分かれしている。

ブハラ・ハン国は 歴史的にはシャイバーニー朝、ジャーン朝、マンギト朝の3王朝が継承して行きます。 このうちマンギト朝はハーンからアミールへ君主号を変えたので、ブハラ・アミール国とも呼ばれる。

【 アミール ; 転じてイスラム世界で王族、貴人の称号。 元来はムスリム集団の長の称号として用いられた。 カリフは「信徒たちの長」を意味するアミール・アル’ムウミニーンとも称し、正統カリフ時代には遠征軍の長、征服地の総督がアミールと称した 】

ジュチ一党2-11ー2

シャイバーニー朝は ジュチの子シバンから7世の子孫ダウラト・シャイフの子であるアブール’ハイル・ハーン(生没年1412年 – 1468年)が遊牧集団ウズベグの統一後、モンゴル時代から名の知れたブルクト部の支援を受けてハーンに即位(在位:1428年 – 1468年)し、

シバン家の反対勢力を倒して宗主であったサライ政権(ジュチ・ウルス)からの独立を果たした初代ハーンです。

1468年にアブール’ハイル・ハーンが没すると、ウズベグのウルス(領土)は分裂状態に陥り、その多くはケレイ・ハンとジャニベグ・ハンの支配するカザフ・ハン国に流れた。

アブール’ハイル・ハーンの孫であるムハンマド・シャイバーニーは各地を転々とし、流浪・亡命生活を送る。

15世紀直前、ムハンマド・シャイバーニーはティムール朝の内部抗争に乗じてシ河中流域に拠点を置き、ウズベグ集団の再統合に成功し、即位する。

1500年、ムハンマド・シャイバーニー・ハーンはサマルカンドを占領し、マーワラーアンナフルの支配権を得、一時はティムール家のバーブル(放浪の末、ムガル帝国をインド大陸に樹立)にサマルカンドを奪われるが3カ月余りで奪還している。

彼は イラン・イラク地方を支配したシャー・イスマイルとの戦いに敗れ、の頭蓋骨は金箔を貼られ、盃(髑髏杯)にされていますが、彼・ムハンマド・シャイバーニー・ハーン8世代後、

1557年に、シャイバーニー朝のイスカンダル・ハーン(在位:1561年 – 1583年)の代に 帝都は サマルカンドからブハラに遷都した。 以降、シャイバーニー朝はブハラ・ハン国と呼ばれるようになりますが、本文ではシャイバーニー朝で進めます。 シャイバーニー朝の詳細は下記にて・・・・

シャイバーニー朝はアブドウッラーフ2世(在位:1583年 – 1598年)の治世下において最盛期を迎え、バルフ及びフェルガナ(1573年)、タシケント(1576年)、ホラサーンのヘラートとマシュハド(1582年 – 1583年)、ホラズム(1593年 – 1594年)を征服した。 シルクロードの要地を押さえ、富を収握している。

この時、ロシア・ツァーリ帝国との接触も起こっている。

ジュチ一党2-11-3

ジャーン朝

ビール・ムハンマド2世(在位:1598年 – 1599年)の死後、シャイバーニー家が断絶したため、シャイバーニー朝はバーキー・ムハンマドにハーン位を譲り、ジャーン朝(別名、アストラハン朝 1599年-1753年)に代わった。

1611年頃に即位したイマーム・クリ(在位:1611年 – 1642年)は国内の治安と経済の発展をはかり、首都ブハラに各地から著名な学者を招いて学芸の振興に努め、ジャーン朝の最盛期を築いた。

このことは 中央アジアの暗黒時代における唯一の光明となった。

しかし、イマーム・クリの死後は後継争いが相次ぎ、次第に荒廃していった。

1740年、アフシャール朝(イラン/ペルシャの王朝)のナーディル・シャーが中央アジアに侵入すると、アブール’ファイズ・ハン(在位:1711年 – 1747年)は ナーディル・シャーから贈り物を受け取り、婚姻関係を結んでアフシャール朝の従属下に入った。

この頃から宰相の地位にあって権力を握り始めたのがマンギト部族出身のムハンマド・ラヒームであった。

彼はアブール’ファイズ・ハンの後を継いだアブドゥル’ムウミン・ハン(在位:1747年 – 1748年)を 1748年に暗殺して権力を掌握し、1756年には最後のハーンであるアブール’ガーズィーを廃して自らハン位に就き、ジャーン朝を滅ぼしてマンギド朝を創始した。

【 ナーディル・シャー(生没年1688年10月22日-1747年7月20日); アフシャール朝の初代シャー(在位:1736年-1747年)。

きわめて短い期間だがアナトリア東部からイラン、中央アジア、インドにおよぶ広大な領域を支配下に入れた。 イラン史では一代の梟雄とされ、その武勇は「ペルシャのナポレオン」、「第二のアケクサンドロス」と言うわれている。

ナーディル・シャーには粗暴・冷酷な面があったとされる。 デリーでの3万人の虐殺や 1740年に主君タフマースブとその二人の子を処刑していること、さらに1741年、

暗殺未遂事件を受けてホラサーン太守とした長子・リダー・クリー・ミールザーを盲目にし、さらにそれを知った人々を処刑したことなどがある 】

ジュチ一党2-11-4

マンギド朝

1756年のブハラ・ハン国は ムハンマド・ラヒームに政権を略奪された。 ムハンマド・ラヒームはハーンを僭称した。

ムハンマド・ラヒームはチンギスハーンの男系男子の系統ではなかったため、チンギス統原理の意識から初期の君主・ムハンマド・ラヒームはハーン位を名乗ることを躊躇した。

以降も、マンギド朝では、ハーン位を名乗ったりアミール位を名乗るなどして君主号が一定しなかったが、シャー・ムラード(在位:1785年 – 1799年)の時にアミール(アミール・アル’ムウミニーン:信徒の長)を正式な君主号としたので、以降をブハラ・アミール国と呼ぶことがあるのですが、

歴代カリフ(預言者ムハンマド/マホメット亡き後のイスラーム共同体、イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号)であるカリフの称号であった「アミール・アル’ムウミニーン」を採用したこの事実は

マンギド朝は 草原の民・騎馬遊牧民の理念からイスラーム理念に変革した事を示します。

シャー・ムラード以降の君主もハーンを名乗らずアミールを名乗り続けた。 ジュチの一党から離脱したのです。

19世紀においてバルカン半島から中央アジアに至る広大な地域を舞台に イギリスとロシアとの間で 所謂「グレート・ゲーム」が展開された。

北から侵攻してくるロシア帝国は1876年にコーカランド・ハン国を占領し、1868年にはサマルカンドを占領してブハラ・アミール国を、1873年にはヒヴァ・ハン国を占領して 中央アジアにおける3ハーン国をロシア・ツァーリ帝国の保護国とした。

1920年10月、労働者の蜂起が起こり、赤軍が首都を攻撃した。 蜂起後、国王は逃亡し、革命委員会が権力を掌握し、独立国家と承認された。

1924年、民族派共産党員の大部分が更迭され、ブハラ人民ソビエト共和国(後年、ブハラ社会主義ソビエト共和国)と ブハラ・ハン国は変遷していった。

【 コーカランド・ハン国 ; ウズベグと称されるジュチ・ウルス系の遊牧民が中心となって建設された 所謂「ウズベグ3ハン国」のひとつであるが、他の2ハン国と異なり建国時から一貫して君主はチンギスハーンの血を引かないミング部族の出身です 】

【 ヒヴァ・ハン国 ;シャイバーニー朝・シビル・ハン国と同じくジュチ・ウルスのシバン家に属す王朝です。
シャイバーニー朝の祖・アブール’ハイル・ハーンの大叔父であるアラブ・シャーから分岐した家系で、その曾孫ヤーディガールの時代にホラズム地方を領有した 】

ジュチ一党2-4

アブール’ハイル・ハーンのシャイバーニー朝の開闢

アブール’ハイル・ハーン(上記)、遊牧集団ウズペクの指導者であり、ウズベク・ハン国(ウゥペク・ウルス)の初代ハーンであった。 チンギスハーンの長男ジュチの第5子であるシバンの一族であり、テュルク系イスラムである。

1412年、シバン家のダウラト・シャイフの息子として生まれる。

1428年に 26歳で 遊牧集団ウズベクの統一、有力蒙古部族・ブルクト部の支援を受けてハーンに即位し、シバン家の反対勢力を倒して宗主であったサライ政権(トカ・テルム系のトクタミッシュ)からの独立を果たした。

1430年/1431年、アブール’ハイル・ハーンはティムール朝領ホラズムに遠征して略奪をおこない、1446年にはキプタク草原東部(旧オルダ・ウルス)の統一に成功した。

同年、アブール’ハイル・ハーンはシル河中流域のオアシス都市アウグナク,サラウン,ウズゲントを占領して政治的・軍事的拠点とするとともに経済的基盤を固めた。

しかし、もともとシル河中流域を拠点としていた連中が トカ・テルム家(ジュチの末子)のケレイとジャニベグを擁してアブール’ハイル・ハーンに背き、モグーリスタン(東方、天山山脈に基盤を持つ、ジャガタイ・ハン系)の辺境に移住した(この移住後の定着民をカザフと呼ぶ)。

1451年、アブール’ハイル・ハーンは ティムール朝のアブー・サイード(第7代君主(在位:1451年 – 1469年、初代君主ティムールの三男で 王朝中興の祖・ミーラン・シャーの孫)の救援要請に応じ、サマルカンド奪取を援助した。

しかし、アブー・サイードは アブール’ハイル・ハーンの戦闘能力や顕性欲を恐れて場外に留め、莫大な贈り物と、ウルグ・ペグ(ティムール朝第8代君主・偉大な学者)の娘であるラビア・スルタン・ベギムを贈って引き揚げさせている。

1456年、アブール’ハイル・ハーンは中央アジアに進出したカルマク(オイラト・モンゴル)軍と戦って敗れたため、その権威が失墜したものの、しばしば ティムール朝の内紛でその王子・皇太子たちからの救援要請を受け、支援に赴いた。

1468年、ティムール朝ヘラート政権(一時、ティムール朝は分裂)のスルタン・フサイン(在位:1470年 – 1506年 ティムール朝を再統合)は アブール’ハイル・ハーンの支援を求めて 一週間におよぶ酒宴でアブール’ハイル・ハーンを応接するも、酩酊しなかった。

あらゆる手段を用い、また ラビア・スルタン・ベギムの口添で ようやくアブール’ハイル・ハーンから援軍の約束を取りつけたが、その年・1468年 アブール’ハイル・ハーンが没した。

ティムール朝のスルタン・フサイン政権は 再統一を果たすも、アブール’ハイル・ハーンの死亡に伴い零弱な政権となり お家騒動が絶えなくなって行く。

アブール’ハイル・ハーンの死後 ウズベクのシャイバーニー・ウルス(領土)が分裂状態に陥り、その多くはケレイ・ハーンとジャニベク・ハーンの支配するカザフ・ハン国(ジュチ・ウルスのトカ・テルム家の子孫が建国)に流れた。

シャイバーニー朝は凋落した。 アブール’ハイルの長子シャイフ・ハイダル(在位:1468年)は政権を一年で投げ出し、王族は四散した。

アブール’ハイル・ハーンの孫であるムハンマド・シャイバーニーは父・シャー・ブダグと亡命・流浪の生活を余儀なくされるも、1496年/1497年、ティムール朝の内部抗争に乗じてシル河中流域に拠点を置き、ウズベク集団の再統合に成功する。

王朝再興を果たした時、49歳 約30年間の流浪な旅を経験していた。

ジュチ一党2-11-5

_______ 続く _______

                         *当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】  http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】  http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】  http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

※ 前節への移行 ≪ https://thubokou.wordpress.com/2013/04/19/ ≫

※ 後節への移行 ≪ https://thubokou.wordpress.com/2013/04/21/ ≫

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中