成吉思汗・ジュチ一党の覇権 (2-12) 

“アルタン・ウルク/黄金の家・ジュチ家”の正嗣が栄光 

ジュチ一党2-12-1

カリスマの“イスマイール/イスマイール1世”   ・・・・・・【ジュチ一党の系譜】からは 脇道ですが・・・・・

 1501年の秋 イスマイール1世はタブリーズ制圧後、かつて白羊朝に従っていた勢力は、ウズン・ハサンの孫にあたるイスマイール1世を支持するようになった。

サファヴィー朝軍は分裂状態にあった白羊朝の諸勢力を撃破し、イラン高原西部とメソポタミア平原の大部分を支配下に置いた。

1508年に最後に残った白羊朝の君主ムラードを倒してバクダードを制圧し、サファヴィー朝は白羊朝を滅ぼした。

【 白羊朝 ; バヤンドル部族から出た君主を中心とする部族連合をもととする遊牧国家であった。

バヤンドル部族は14世紀半ばまでに東部アナトリアを中心とする地域で勢力を蓄え、部族連合を形成した。 実質上の王朝の始祖となるカラ・ユルク・オスマンは、ティムールが東部アナトリアに侵攻してきた際にティムール朝に服従し、アナトリア・ディヤルバクル地方の支配権を認められて勢力を確立し、ティムール朝の冊立国となった。

しかし、1404年にティムールが没するとティムール朝と敵対して勢力を衰えさせていたライバルの黒羊朝部族連合が勢力を拡大させ、1435年にはカラ・ユルク・オスマンが黒羊朝との戦いで戦死した。

その後、黒羊朝とティムール朝がカスピ海南西部の支配を巡って激しく争うとその間隙を縫って 白羊朝は再び勢力を拡大し、1453年に即位した英主ウズン・ハサンのもとで最盛期を確立した。

ウズン・ハサンは、はじめ黒羊朝の最盛期を築いたジャハーン・シャーに服属していたが、黒海岸のキリスト教国・トレビゾンド帝国の皇女と結婚して同盟を結んで勢力を蓄え、1467年にジャハーン・シャーを急襲して殺害、それから数年のうちに黒羊朝の旧領を併呑した。

1469年には ティムール朝のアブ・サィード(ティムール朝第三代ハン)を破ってイラン西部における覇権を確立し、東部アナトリアからイラク、アゼルバイジャン、イラン西部にまで及ぶ 白羊朝・大帝国を築き上げる 】

一方、サファヴィー朝の成立と同時期に、東方ではトランスオクシアナからホラサーンにかけての地域を支配するウズベクのシャイバーニー朝が勃興していた。

サファヴィー朝・イスマイール1世とシャイバーニー朝・ムハンマド・シャイバーニー・ハンは、書簡を通して互いに相手の信仰を非難しあい、1510年の秋にイスマイール1世はホラサーン地方に進軍した。

シャイバーニー・ハンの軍団がサファヴィー朝軍との会戦を避けてメルブに立て籠もると、イスマイール1世は退却したと見せかけて後退し、ウズベク軍を城内から誘き出した。

追撃を行おうとして城内から出たウズベク軍はイスマイール1世の伏兵から攻撃を受けて大敗し、司令官のムハンマド・シャイバーニー・ハンは戦死した。

イスマイール1世の元に届けられたシャイバーニー・ハンの首は金箔を貼られて酒杯にされ、オスマン朝のスルタン・バヤズィスト2世の元に送られた。

戦後、シャイバーニー朝の支配領域はアム河の北岸まで後退し、ホラサーン地方はサファヴィー朝の支配下に置かれた。

ジュチ一党2-12ー2

 スルタン・バヤズィスト2世統治下のオスマン朝で推進されていたスンナ派・イスラームに抵抗を感じていたシャイバーニー朝の統治下に移ったアナトリアの民衆の中には、イスマイール1世の宣教を受け入れる者も多くなった。

1511年に、アナトリアで「シャー・クル(サファヴィー朝のシャー」の奴隷)」を名乗る人物がオスマン朝に対して反乱を起こし、鎮圧に参加したオスマン側の指揮官(大宰相ハドゥム・アリー・バシャ)等のように戦死した者もいた。

1512年に・バヤズィスト2世を廃位して即位したスルタン・セリム1世は、即位直後にアナトリアのシーア派に対して弾圧を行った。

セリム1世によって処刑されたアナトリア・シーア派の数は40,000人以上にも達した と言い、シーア派の弾圧はサファヴィー朝とオスマン朝の対立を決定的なものとした。

1514年3月にセリム1世はイラン高原に親征を行い、イスマイール1世もオスマン軍を迎え撃つために出陣した。

オスマン軍との戦いの前夜、西方のディヤルバクルでオスマン軍との戦闘を経験していた将軍ムハンマド・ハーン・ウスタージャルーはオスマン軍(60,000人から212000人 鉄砲隊・砲兵・イェニチェリ等で構成)が体制を整える前に夜襲をかけることを提案した。

ヘラートの太守ドルミーシュ・ハーン・シャムルーは正面決戦を主張した。 イスマイール1世は正面決戦を採用し、1514年8月23日にアナトリア東部のチャルディラーンの平原でサファヴィー朝とオスマン軍が衝突した。 “チャルディラーン戦い”が幕を切った。

オスマン軍に配備された大砲とイェニチェリ部隊が装備した鉄砲によってサファヴィー軍(12,000人から40,000人のキジルバシ)の騎兵隊は打ち破られ、

最後まで戦場に留まって指揮を執っていたイスマイール1世は負傷し、身代わりを立てて戦場を離脱した。

戦闘の結果、ムハンマド・ハーン・ウスタージャルーら将校や従軍していた文官の多くを失い、イスマイール1世の妻もオスマン軍に捕らえられた。

戦後、イスマイール1世は黒い服を着、軍旗も黒に染めて喪に服したと史書にあります。

イスマイール1世は“チャルディラーン戦い”まで、自らが指揮を執った戦闘では一度も敗れたことが無かった。

この「無謬の救世主」の敗戦は イスマイール1世の神性を打ち消し、教団の信者であったキジルバシと教主の関係を一般の臣下と王の関係へと変化させることになり、

サファヴィー朝の体制に変化をもたらす。 そして、教主に対する無私の奉仕の精神を失ったキジルバシたちは、自分が所属する部族の勢力拡大のため、互いに争うようになって行きます。

ジュチ一党2-12ー3

晩年のイスマイール1世は “チャルディラーン戦い”の後、外部への積極的な軍事行動を控えるようになった。

政務を大臣のミールザー・シャー・フサインに委ね、宮殿内に引き籠ることが多くなる。 政治に関心を失って飲酒と狩猟に耽るようになったと伝っています。

旧来、詩作に用いられなかったアゼルバイジャン語で 幾多の詩作を行い、自らに神性が宿ると信じ、また初代イマーム・第4代正統カリフのアリーの血統に属しているとも考えていたようです。

幼い息子タフマースブを溺愛していた。

1524年8月23日にイスマイール1世没し、アルダビールに建てられたサフィヴァー教団の聖廟“シャイフ・サフィー・アッディーン廟”に埋葬された。

イスマイール1世の存命中はキジルバシ同士の抗争は本格化しなかったが、王子のタフマースブが跡を継ぐと抗争は激化し、サフィヴァー朝は外部への拡張が停滞する「危機の時代」を迎えた。

タフマースブ1世(1514年3月3日 – 1576年5月14日)は、サフィヴァー朝の第2代シャー(在位:1524年 – 1576年)としてイスマイール1世の跡をついだ。

1524年、父のイスマイール1世の死により、10歳でシャーの座につく。

当初は幼少であったため帝国に支配をいきわたらせることができず、キジルバーシュの暴動が発生した。 しかし、成人するとキジルバシを統率することに成功している。

彼・タフマースブ1世の治世は オスマン帝国とウズベク人との抗争に明け暮れた。

現在のイラクに当たる地方がオスマン帝国の領土となったのもこの時期です。 屈折の後、1555マン帝国との間に“アマスィヤの和約”が結ばれ、

ムハンマド・ホダーバンデ(サファヴィー朝の第4代君主)の治世に破棄されるまで30年近く平和が続いた。

また彼は亡命したムガル帝国のフマーユーン(バープルの長子・ムガツ帝国第二代皇帝)を保護しています。
その結果、ムガル帝国に対するサファヴィー朝の影響力が強まり、ペルシャから亡命した一族に 一時期 国政を乱されます。

タフマースブ1世は長期間にわたって在位したのち、自らの妻によって毒殺されたという。 孫のムハンマド・ホダーバンデ(サファヴィー朝第四代君主)がサファヴィー朝の内政改革と版図回復が進むことになる。

タフマースブ1世の長子・イスマーイール2世が跡を継いだ。 しかし、彼によって一族の間で激しい後継者争いが勃発し、多くの王族が殺害された。

弱視であった上に政治的意欲も希薄なイスマーイール2世は 王族間の殺し合いから免れていたものの、即位の翌年に毒殺されたため、第4代君主として擁立されたのがムハンマド・ホダーバンデです。

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・・・・・・・ ここで、本論に立ち戻って【ジュチ一党の系譜】を書き進めますが  ジャーン朝の継承国家・マンギド朝はジンギスハーンの“アルタン・ウルク”ではありませんので 概略のみとします・・・・・・

1756年のブハラ・ハン国は ムハンマド・ラヒームに政権を略奪された。 ムハンマド・ラヒームはハーンを僭称した。

ムハンマド・ラヒームはチンギスハーンの男系男子の系統ではなかったため、チンギス統原理の意識から初期の君主・ムハンマド・ラヒームはハーン位を名乗ることを躊躇した。

以降も、マンギド朝では、ハーン位を名乗ったりアミール位を名乗るなどして君主号が一定しなかったが、シャー・ムラード(在位:1785年 – 1799年)の時にアミール(アミール・アル’ムウミニーン:信徒の長)を正式な君主号としたので、以降をブハラ・アミール国と呼ぶことがあるのですが、

歴代カリフ(預言者ムハンマド/マホメット亡き後のイスラーム共同体、イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号)であるカリフの称号であった「アミール・アル’ムウミニーン」を採用したこの事実は

マンギド朝は 草原の民・騎馬遊牧民の理念からイスラーム理念に変革した事を示します。

シャー・ムラード以降の君主もハーンを名乗らずアミールを名乗り続けた。 ジュチの一党から離脱した。

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ヒヴァ・ハン国

シャイバーニー朝の祖・アブール’ハイル・ハーンの大叔父であるアラブ・シャーから ヒヴァ・ハン国は分岐し、建国した。 アラブ・シャーの曾孫・ヤーディガールの時代にホラズム地方を領有していたらしい。

1512年、ムハンマド・シャンバーニー・ハンがメルビで敗死したとき、ヤーディガールの孫イルバルス・ハンは、サファヴィー朝に一時奪われていたホラズム地方を奪回している。

麾下のウズベク諸部族を中核として、トルクメン系遊牧民、オアシス都市のイラン系、テュルク系の定住民を支配下に置き王朝を樹立した。

アブール’ガーズィー・ハーン(在位:1644年 – 1663年)は 名君として中央アジアに歴史に名を残しています。

ヒヴァ・ハン国の当初はウルゲンチを中心としていたが、17世紀末に このウルゲンチ・ハン国は、アムガリア川の河床の変化と関連して、首都をウルゲンチから移転してヒヴァを本拠にしたため、ヒヴァ・ハン国と呼ばれ始めた。

20世紀初頭まで このジュチ一党の王室は脈々と続いていきます。

 

________ 続く _________

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