成吉思汗・ジュチ一党の覇権 (2-14) 

“アルタン・ウルク/黄金の家・ジュチ家”の正嗣が栄光 

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《 騎馬遊牧民族の終焉 》

 1800年、コーカランドの君主アーリムは中央アジア有数の大都市・タシュケント、当時 中央アジアに進出しつつあったロシアと東方とを繋ぐ中継基地として経済的に繁栄しつつあったタシュケントを征服、フェルガナを越えてカザフ草原にまで進出した。

この成功により、アーリムは支配下の諸部族によってハンに推戴され、長らく中央ユーラシア世界においてハンの称号を名乗るのに必須の条件とみなされていたチンギスハーンの血を引かないままハンの座についた。

≪ この政権が「ハン国」と称されるのは、これ以後 中央ユーラシア世界で 君主がハンを称する所以に 成ります。≫

1810年に即位したアーリムの弟・ウマン・ハンのとき、コーカランド・ハン国は最盛期を迎えた。

軍事的には カザフ族居住地域の主要都市・テュルキスタン市を征服して周辺のカザフ人やキルギス人に宗主権を認めさせ、その勢力圏は北はバルハシ湖、西はシル河流域に及んだ。

通商面では清朝への朝貢関係に加えてロシアとの間でも、通商関係を結び 東西交易の通商路を拡大してハン国に大きな経済的利益をもたらした。

特に清とは緊密な関係を結び、コーカンドド商人は新疆における東西交易に独占的な地位を得た。

コーカンドは中央アジア最大の交易国となり、金銀装飾品や武器、日用品を中央アジアの遊牧民たちに供給し、茶、絹、陶磁器などの中国製品をブハラなど西方に中継した。

ハン国の経済的成長にともなってその中心地方であるフェルガナはそれまで長らく続いた辺境の地位を脱し、軍事・宗教・商業施設や水路などの社会資本の整備が進み繁栄を極めた。

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ハン国は繁栄の一方で、国内政治では支配層内部における対立やカザフ、キルギスの遊牧民たちの反乱は絶えず、政権は常に不安定であった。

そして、1842年、ブハラ・アミール国(前記、ブハラ・ハン国の後身)のナスルッラー率いる軍団の攻撃を受けて コーカランド・ハン国君主・ムハンマド・アリー・ハンとその家族がことごとく殺害されるに至りった。

コーカランド・ハン国はブハラ・アミール国のブハラ総督の支配下に入った。

首都・コーカランドはブハラの軍によって占領され、コーカランドのハンにはブハラ政権が擁立した傀儡が立てられた。

その後、結局 ブハラの支配はコーカランド・ハンの一族の間から出たシェールアリー・ハンによって覆され短期間に終わったが、以後のハン国ではハン位をめぐる争いが激化して国内政治はますます混乱し、またカザフやキルギスをはじめとする遊牧民たちが勢力を増してハン国の権威を脅かした。

さらに北方ではロシア・ツァーリが カザフ草原に進出して勢力を南進させ、ウズベグ3ハン国のうちもっとも北方に位置する このコーカランド・ハン国に対する軍事的圧力を強めた。

コーカランド・ハン国は 当時の世界で最大最強のイスラム教国であったオスマン帝国や、さらにはインドから北進して中央アジアをうかがっていたイギリスと友好関係を結んで ロシアに対抗しようとしたが、

弱体化したコーカランド・ハン国は、もはやロシアの南下の圧力に抗する力を持たなかった。コザックが怒涛のように侵攻してきた。

また 同じ19世紀半ばには隣接する東トルキスタン(現代の新疆地域)では 清の支配が弛緩し反乱が続発、コーカランド・ハン国の繁栄を支えた中継貿易が衰えを見せ始めた。

1864年にクチャ(天山山脈南麓の中核都市)で起こった反乱は瞬く間に新疆全土に拡大する。

コーカランド・ハン国はカシュガル(パミール高原へのキャラバン基地の城郭都市)で樹立された在地のムスレムによる自立政権の要請に応じ、カシュガル・ホージャ(領主)の子孫とコーカランド・ハン国の軍を派遣した。

カシュガルに入ったコーカランドの軍隊の中からは軍人・ヤークブ・ベクが混乱に乗じて新疆のほとんど全域を支配する大勢力に成長していたが、コーカランド・ハン国からはほとんど独立してしまい、

かえって混乱のためにコーカランドの繁栄を支えた新疆貿易の利益を滞らせていく。

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ヤークブ・ベクらをカシュガールに派遣したのと同じ1864年、ロシア・ツアーリは コーカランド・ハン国への侵攻を開始し、1865年にハン国北部の経済都市・タシケントを征服した。

1868年3月、コーカランド・ハン国はロシア帝国との間に保護条約を締結し、ロシアの属国に転落する。

敗戦に伴う政変によってコーカランド・ハン国の君主となったフダーヤール・ハンは、コーカランド市内に ロシア様式を取り入れたハンの新たな宮殿を造営するなど、ハン国の再建と専制の増強をはかったが、ハン国の瓦解をとどめることはできなかった。

やがて ブハラ・アミール・ハン国の攻撃と支配下にあった遊牧キルギスたちの反乱が勃発し、1875年 フダーヤール・ハンは退位を余儀なくされた。

反乱者たちはナースィルッディーンをハンに擁立したが、この擁立には 前ハンによって保護を求められたことを 政治的な介入の口実としたロシア軍のさらなる侵攻を招いてしまった。

ロシア軍は 翌1876年2月19日に王府・コーカランドに入城、コーカランド・ハン国を滅ぼし、フェルガナ盆地の全域を支配下に収めた。

コーカランド・ハン国の旧領は完全に植民地化され、タシュケントにはロシア帝国の中央アジア支配の拠点となるトルキスタン総督府が置かれ、その支配下にコーカランド・ハン国の旧領に ヒヴァ・ハン国およびブハラ・アミール・ハン国国から奪った領土を加えてシルダリア州およびフェルガナ州が設けられた。

中央アジアの大草原に栄華を誇った騎馬遊牧民族の国家は ジンギスハーンの長子・ジュチが創建したキプチャック・ハン国(ジュチ・ウルス)の後裔王朝・“イナク王朝”が ロシア革命の1920年まで継承されたが、

ホラズム人民ソビエト共和国の成立と共に ウズベグ3ハン国の最後王国・ヒヴァ・ハン国の滅亡で政権を失った。

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ヤークブ・ベク

1864年、東トルキスタン各地のムスリムが清朝支配に対する大反乱を起こすと、翌年の1865年 ヤークブ・ベクが コーカンド・ハン国から派遣された。

ヤークブ・ベクは兵を率いて タムリ盆地に入り、カシュガル、エンギシェールなどの清軍駐屯兵を破り、天山山脈南麓のオアシス都市を東に進軍した。

さらにまた、インド・アフガニスタンに向かうカシュガル南方の要路(河西南路)のヤルカンド、ホータンを1866年に占領した。 タムリ盆地西部を掌握した。

ヤークブ・ベクの軍団には インドを植民地にした大英帝国の中央アジアの市場・富を独占しようとする北進計画のもと 軍需品・兵站の支援が十二分にあった。

1870年には シルクローヂの最重要オアシス 天山南路・天山北路の分岐点であるトルファン市、さらには天山山脈を越えたウルムチ市をも攻略、翌年には 天山山脈北部のイリ地方も占領して、清朝の勢力を現在の新疆地方主要部から追い落とした。

当時、大英帝国とロシア帝国は中央アジアの支配をめぐって角逐を繰り広げており、ヤークブ・ベクは英領インドから大量の武器援助を受け、1874年には英国と正式に条約を結んでいる。

英国はカシュガルに領事を常駐させた。 この条約でヤークブ・ベクは カシュガルとヤルカンドのアミール(イスラム世界で用いられる称号、君主号のひとつとしても用いる)と称し、コーカンド・ハン国からの独立を宣言した。

カシュガル王国の君主として 西トルキスタンのブハラ・ハン国やトルコのオスマン帝国とも通交している。

特にオスマン帝国とは、ヤークブ・ベクの政権に対するオスマン帝国の宗主権を認める代わりに武器の援助や軍事顧問の派遣を求める交渉を行い、オスマン帝国から正式に“アミール(君主)”に任じられるなどの一定の成果を得ている。

ヤークブ・ベクは、イスラーム的な価値を重視・強調することで地元住民からの支持を得ようとした。

その現れとして、東トルキスタン(新疆)において モスクや聖者廟に対する保護や寄進を盛んに行っている。

≪ 現在のシルクロード観光は彼の功績が寄与しています≫

イスラム教の厳格な保護者であったが、 その一方では 暴力的な統治も行った。

戦乱によって交易による収入に影響が出たため、これを補うべく高額の税金を搾取したことから、地元のテュルク系住民は「アンディジャンのごろつき」とさえ呼んだと言う。

一説には混乱の中で20万人のヂンガン人と 5万人のテュルク系住民が殺されたともいわれます。

このため、その支配は短命に終わり、1875年清朝の欽差大臣左宗棠が4万の兵力を率いて討伐に来ると、あっけなく滅びた。

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ヤークブ・ベクが新疆にカシュガル王国を建国するまえに 強勢いを誇ったジュンガルのオイラト・モンゴル政権清朝・乾隆帝に完膚なきまで破壊されていた。

この“ジュンガル”の史実は記載済み ≪天山南路・北路の紀行記、及び そのエピローグ≫ に詳細を述べています故、重複は避け この章にて 【 ジュチ一党の系譜 】を終えます。

次回は第三部 【チャガタイ一党の系譜】に筆を進めます・・・・・・・・

______ 続く ______

 

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