成吉思汗・チャガタイ一党の覇権 (1)

“アルタン・ウルク/黄金の家・チャガタイ家”の正嗣が栄光

チャガタイー3-1-1

NHK大河ドラマ「北条時宗」でクビライを演じた俳優のバーサンジャブは、チャガタイの末裔であるらしい。

モンゴル族の友人は多い、ジンギスハーンの末子・トルイが末裔はごろごろいる。 大元王朝に繋がり、北元王朝 そして 現代まで 脈々と継承している。 友人・知人は五指を越す。

ジュチの末裔は中央アジアでは名家として 今尚 尊敬と憧れの的だ。 三男・オゴデイ家は五代目で正嗣子は途絶えた。 次男のチャガタイ家は新疆に根を張り、中央アジアに君臨するも、チャガタイの末裔ですと聞いた事がないが・・・・・・・・

ジュチ一党1-1

モンゴル帝国の始祖ジンギスハーンは、1206年にモンゴル高原を統一し ハン(ハーン、カン、カーン、皇帝・君主)に推戴されて 大蒙古帝国を建国した。

建国にあたり、長男のジュチ、次男のチャガタイ、三男のオゴデイの3皇子に それぞれ4個ずつの千人隊(千戸、1000人の兵士を動員可能な遊牧民の集団)を所領(ウルス)として分与した。

長男のジュチには アルタイ山脈の西部より西方、可能な範囲 全域を封土した。 次男のチャガタイには蒙古高原西部よりアルタイ山脈南麓の 豊潤な草原を遊牧地に設定し、分け与えた。

三男のオゴデイの領土はサツタイ山脈北麓から蒙古高原の北部域を与えた。 蒙古族に限らず騎馬遊牧民族は末子相続の習慣があい、 末子・トルイはジンギスハーンの所領を継承した。

チンギスハーン存命中は モンゴル帝国は拡大の一途を辿り、中央アジアが大蒙古帝国の支配下に入ると、チャガタイ・ウルス(封土・所領)にはかつての西遼(カラキタイ)の遊牧民たちが遊牧地としていたイリ川渓谷を中心に天山山脈北西麓の草原が追加され、与えられた。

この時点では、天山山脈の東北麓には天山ウイグル王国が健在であった。

また 天山山脈南麓で タリム盆地(タクラマカン砂漠の盆地)北辺 シルクロードの商業都市・オアシス都市 や マーワラーアンナフル(トランスオクシアナ、パミール高原西部の大草原地域)のオアシス都市やイスラムの商業都市はジンギスハーンの直轄領であったことから、チャガタイ・ウルスに その支配権はなかった。

1226年、チンギスハーンが没すると 王族の間で次のハンを決める集会(クリルタイ、王族・各有力部族長の国会)が開かれた。

このクリルタイでチャガタイは自分と仲の良い弟のオゴデイを後継のハーンに推した。 長男・ジュチは他界している。

1229年、オゴデイが即位するとチャガタイはその実質上の後見人としてハーンに次ぐ権威を持つようになり、チャガタイ一門は ジュンガリア(東天山山脈北部)のエミル川流域を遊牧していたオゴデイの一門と並んで 大蒙古帝国の中枢を占めるようになった。

この権勢をもとに、中央アジアにおいて チャガタイはマーワラアンナフルからホラサーン地方(カスピ海南部)に至る地域で自身の支配力を伸張した。

このパミール高原の西部域地方の住民は オアシス定住民と遊牧民が大多数を占め、彼らはムスリム(イスラム教徒)であった。

チャガタイ政権は これらの領民に対してもモンゴルの法令であるヤサ(ジンギスハーンが制定した不文律の憲法で刑法・民法・生活法等々)の諸規程を厳格に適用したため、ムスリム住民はその支配に苦しんだと 文献に残っている。

生来、チャガタイはモンゴルの諸規範には 自他共に厳しく、ジンギスハーンに褒められ、また ジンギスハーンは次期のハーンには不適任者であると判断していた様子です。

ジュチ一党1-6

 チャガタイは 父・チンギスハーンに従って金討伐や大西征に従軍し、オトラル攻略などで戦功を挙げている。 果敢な武将であった。 ジンギスハーンの“ヤサ”に忠実な“司法の人”であった。

【 オトラル ; 歴史的都市遺跡、現カザフスタン南部に位置する。13世紀にモンゴル帝国により攻略され、徹底的な破壊を受け その後復興して数百年にわたって栄えたが、のちに衰亡し、現在は内城の廃墟が残るのみ 】

チャガタイ・ウルスを治めるため、大蒙古帝国の法律であるヤサの遵守を強制したが、モンゴルの風習とこの地の風習は相反するものが多く、ヤサを強制された民衆はチャガタイを大いに恨んだと 前記した。

チャガタイが 弟・オゴデイを推挙したのも、父の遺言を厳守したかったのでしょう。

このことから、大蒙古帝国第2代ハーンとなったオドデイ・ハーンは 兄であるチャガタイを大いに尊重し、政策決定の場においては 常に相談相手としたという。

チャガタイが厳格な人物として知られる逸話があります。

オゴデイと宴席で酒を飲んでいたとき、酒の酔いもあったのであろうが、チャガタイはオゴデイのプライドを傷つける行為をしてしまった。

チャガタイにとってオゴデイは、弟といえども主君です。

そのため、チャガタイは自らを罰するようオゴデイに求めたが、オゴデイ・皇帝は兄を罰することはできなかった。

そのため、チャガタイは 自らで自らを罰し、飲酒を絶ち、禁門し、蟄居したたという。

他人にも厳格であったが、自分に対しても厳格であったということでしょう。

ジュチ一党1-3

チャガタイには正室が2人いたことが知られている。

第1夫人はコンラト部族(チンギスハーン家との婚姻部族)のディ・セチェンの兄弟ダリタイ・ノヤンの息子カタイの娘・イェスルン・ハトゥンである。

第2夫人はイェスルン・ハトゥンの姉妹であるテルケン・ハトウン、姉妹でチャガタイに嫁いでいる。

また1220年に ホラズム・シャー朝アラーウッディーン・ムハンマドの母であるテルケン・ハトゥンら王族たちが マーァンダーラーン地方でモンゴル軍の捕虜となった時、アラーウッディーン・ムハンマドの王女の一人がチャガタイの側室に入ったと伝えられています。

チャガタイの嗣子たちは6人が知られている。 長男はイェスルン・ハトゥンが生んだモエトゥケンで、後継者として、チャガタイ・ウルスの宗家は彼の家系に始まる。

次男はモチ・イェベ、三男はベルガシ、四男はサルバン、五男がチャガタイ・ウルス第3代当主になったイエス・モンケ、そして六男は第5代当主アルグの父で大元ウルスのチュベイ王家の父祖ともなったバイダル

7男・タダタイ、8男・ハイジュ 等々がいた。 チャガタイの後継者・第2代当主はモエトゥケの四男であるカラ・フレグが祖父・チャガタイの意向で継承しますが病死してしまい、短命でイエス・モンケが第3代当主に就きますが、

『集史』によれば チャガタイの息子達のなかで、チャガタイから最も愛されていたのは長男・モエトゥケン記載している。

モエトゥケンは 父の後継者として期待されていたが、1219年にホラズム・シャー朝攻撃の際にバーミヤーンを包囲攻撃していたとき、バーミヤーンの城塞から射られた矢が当り戦死した。

これを知ったジンギスハーンは激怒し、自ら最前線に赴き ホラズム・シャー朝を徹底的に追い詰め崩落させる。 アラーウッディーン・ムハンマドはカスピ海の孤島に従者の無く、王子・ジャラールッディーン・メングベルディーを呼び寄せ 失意の中で 他界していまいます。

残ったラシードゥッディーンはアフガニスタンにて再起 一時は蒙古軍団と拮抗するが、インダス河に追い詰められ インダス河の激流に愛馬もろとの断崖から飛翔 インドに逃れるのです。

この時、激流に揉まれるジャラールッディーンンに蒙古軍団が矢を射掛けるのですが、ジンギスハーンが 『あの若者こそ 真の勇者ぞ 打つな』 と言った逸話が残っている。 1221年の秋の事です

【 ホラズム・シャー朝 ; 中央アジアからイラン高原に至る広大な領域支配を達成したイスラム王朝(1077年 – 1231年)、コラズム朝とも言う。

1231年、インドから戻った敗残のジャラールッディーン・メングベルディーは チンギスハーンの死後に後を継いだオゴデイ皇帝が派遣したイラン方面軍の追討を受け、東部アナトリアのディヤクバクル(現在のトルコ共和国東部)で殺害され、ホラズム・シャー朝は滅びた 】

チャガタイー3-1-2

1241年、大蒙古第二代皇帝・オコデイが没し、その翌年にはチャガタイが没すると、重鎮を立て続けに失ったモンゴル帝国ではハーンの後継者争いを巡って内部に葛藤が起こった。

チャガタイは生前にバーミヤーン攻囲戦で戦死した長男・モエトゲンに代わり、モエトゲンの四男でブリの弟であったカラ・フレグを後継者としていた。

他方、大蒙古帝国第三代皇帝をめぐり、オコデイ家とチャガタイ家はドレゲネ皇后の説得の結果、シムレン(第2代皇帝オコデイの第3子・クチュの子)の擁立を諦めた。

当主を亡くしているチャガタイ・オコデイの両家は 協力してオコデイの長男でドレゲネ皇后の実子であるグユクを第3代ハーンに即位させたが、

グユクと個人的に不仲なジュチ家の当主バトゥがこれに難色を示した(バトゥのヨーロッパ遠征以降 対立している)。

チャガタイ・ウルス2代当主・カラ・フレグの協力もあって即位したはずのグユンであったが、チャガタイの嗣子たちが生存しているのに、 まだ若いカラ・フレグがチャガタイ家の当主であることは不可解であると公言し、

カラ・フレグを当主位から廃してチャガタイの五男であるイエス・モンケをチャガタイ家当主に任命した。

1248年、在位わずか2年で大蒙古帝国第三代皇帝・グユンが没すると、ジュチ家のバトゥは、先にオゴデイ即位のとき、最大の実力者でありながら兄にハーン位を譲っていたチンギスハーンの四男・トルイ一門と協力して政変を起こし、トルイの長男・モンケを第4代ハーンに即位させた。

大蒙古帝国第四代皇帝・モンケは 即位後、直ちに チャガタイ・オコデイの両家に 謀叛の疑いをかけ、チャガタイ家とオコデイ家の王族や諸将に対して大規模な粛清と追放、所領の没収を行った。

チャガタイ家の第3代当主・イエス・モンケは処刑された。

これの事件を受け、第四代皇帝・モンケの認証を受けてカラ・フレグが再び当主に復帰するはずであったが、カラ・フレグは大蒙古帝国の帝都・カラコルムからイリの所領へ帰還する途中病没してしまった。

この一連の事件(カラ・フレグの死はモンケの策謀であると書く歴史書もある)以降、タガタイ家、オゴデイ家の2ウルス(封土)は実質上解体し、政権としての実質は失われた。

イエス・モンケの後には第2代当主・カラ・フラグの嫡子であるマバーラク・シャーの生母、オルクナが摂政として当主に据えられ、未亡人を指導者に迎えたチャガタイ・ウルスは本来の所領であるイリ渓谷に押し込められ、逼塞を余儀なくされた。

チャガタイー3-1-3

1259年、大蒙古第四代皇帝・モンケが南宋に対する遠征の途上に没し、その次弟であるクビライと末弟・アリクブケによる内紛が始まると、

モンケ・ハーンの第三弟・フレグは遠征先のイランに留まって政権(イルハン朝)を樹立し、ジュチ・ウルスの当主ベルケとアゼルバイジャン及びホラズムの支配権を巡って対立した。

このような帝国全体の混乱の隙を突いて、衰退したチャガタイ家やオゴデイ家に再起の機会が訪れて来たのです。

_______続く _______

                         *当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】  http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】  http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】  http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

※ 前節への移行 ≪ https://thubokou.wordpress.com/2013/04/23/ ≫

※ 後節への移行 ≪ https://thubokou.wordpress.com/2013/04/25/ ≫

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中