成吉思汗・チャガタイ一党の覇権 (2)

“アルタン・ウルク/黄金の家・チャガタイ家”の正嗣が栄光 

チャガタイー3-2-1

農耕地帯である中国を抑える大蒙古帝国第五代皇帝・クビライに対して、遊牧地帯である蒙古ル高原を抑えるのみで物資に乏しいアクリブケは、

チャガタイ家を通じてオアシス農耕地を擁する中央アジアを勢力下に置き、本拠地カラコルムに食料を送らせようと企図し、側近にいたチャガタイ家傍系の王族・アルグをイリ渓谷に送り込んだ。

ところが、アルグは摂政・オルクナから実権を奪って チャガタイ・ウルス第五代当主の座を確保、イェス・モンケの=反乱の疑いにて=処刑以来失われていたパニール高原以西の支配圏を回復した。

しかし、その直後に カラコルムのアクリブケを裏切ってクビライに通じた。

アルグ離反の結果、兵站を失ったアクリブケはクビライ皇帝に対して降伏を余儀なくされ、皇帝・クビライのもとに 大蒙古帝国は平和を取り戻した。

大蒙古帝国第五代皇帝・クビライは アルグに加えてフレグ、ベルケを招いて統一クリルタイを行おうとしたが、アルグ・フレグ・ベルケの3人は1266年に相次いで没した。

アルグの他界に伴い、ムバーラク・シャー(宗祖チャガタイの長男・モエトゥケンの三男であるイェスン・トアの次男)がチャガタイ家第6代当主に皇帝・クビライが推挙し、即位した。 しかし、

チャガタイ・ウルスを自身の忠実な同盟者に仕立てて中央アジアを抑えようと企図したクビライ皇帝は、ムバーラク・シャーの従兄で、自身に近侍していたチャガタイ家の王族・バラクをイリ渓谷に送り込み、ムバーラク・シャーに代えて チャガタイ・ウルスを統括するチャガタイ家第7代当主とした。

ところが、バラクはクビライ政権の傀儡となることを嫌い、チャガタイ・ウルスを掌握すると 大蒙古帝国第五代皇帝・クビライに対して反抗し、マーワラアンナフルの大蒙古帝国皇帝の直轄領に派兵し、

その支配権を実力で奪取しようと活動を開始した。 また同じ頃、オコデイ家の生き残りであるカイドゥが皇帝・クビライに反旗を翻して ジュンガリアからアルタイ山脈方面で勢力を拡大していた。

バラクとカイドゥの両者は 直轄領・マーワーラアンナフルの統治権を巡って激しく争うが、1269年、タラス川の河畔でジュチ家の代表者とともに会盟して妥協を結び、マーワーラアンナフルを分割した。

オゴデイ家およびジュチ家と同盟したタガタイ・ハンの君主・バラクは、イルハン朝(クビライ皇帝の実弟・フレグが開闢した)が支配するホラーサーンの征服を目指してアム川を渡った。

イルハン朝の第2代君主・アバカは カスピ海南東のカラ・スゥ平原の戦いにおいて バラク軍団を遊撃、バラクは大敗を喫してしまった。

この大敗によりバラクの威信は失墜し、カイドゥとの抗争が再燃した。

1271年、チャガタイ・ウルスの君主・バラクは オゴデイ・ウルスの当主・カイドゥとの会見を目前に 不審な急死を遂げる。

この不審なバラクの死亡事件は カイドゥによる暗殺と言われてていますが、

ここにいたるまでの経緯を より詳しく史実を追いましょう

チャガタイー3-2-2

モエトゥケン・チャガタイ・ジンギスハーン

モエトゥケン(生没年 ?-1219年)は、チンギスハーンの次男・チャガタイの長男としてうまれた。

生母は第1夫人(正妃)のコンラト部族出身のイェスルン・ハトゥン。 『集史』によればチャガタイの息子達のなかで チャガタイから最も愛されていたと言い、父の後継者として期待されていた。 また、遠征から凱旋したジンギスハーンを一番に出迎えたと言う。

1218年に開始されたジンギスハーンの中央アジア遠征に参加した。 1219年にホラズム・シャー王朝攻撃作戦の一環でトルイ(大ハーンの4男)軍に参画し、バーミヤーンを包囲攻撃していたとき、バーミヤーンの城塞から射られた矢が当り戦死してしまった。

ジンギスハーンはその報復としてバーミヤーンを陥落すると徹底的に破壊し、その住民も老若男女から動物まで徹底的に虐殺にしたと『集史』は記述し、さらに、バーミヤーンを「マウ・カルモン/悪しき城」と言う名に変更させたと続ける。

チャガタイはモエトゥケンが戦死したときその場におらず、バーミヤーンが陥落しつつある時に戻って来た。

ジンギスハーン(大ハーン)は数日後、「モエトゥケンはこれこれの場所に行っている」と話し、チャガタイにモエトゥケンの死を隠した。

それからさらに数日間、大ハーンは 息子たちに向かってわざと怒りを露にして、「汝らは我が言葉を聞かず、私が汝らに言ったことを汝らは怠けおった!」と息子たちを叱りつけたという。

チャガタイは跪いて、「大ハーンがお命じになることは何であれ従います。 もし私が罪を犯したのであれば、私は死を選びます」と答えた。

チンギスハーンは何度も繰り返して「汝の言葉は真実か? そのように出来るか?」と詰問し、チャガタイは それに「もし私が背くようであれば、私は死を選びます」と答えた。

すると、チンギスハーンは「モエトゥケンは亡くなった。 汝が嘆き悲しむことを禁じる」と言った。

チャガタイは心のうちで雷火を受けたようであったが、父の命に従って耐え忍び、泣かなかった。

しばらくした後 理由を付けて退出したチャガタイは、隅に隠れて泣いたが、父の前に行くときは両目を拭って綺麗にしたという。

また、モエトゥケンの死を惜しんだチャガタイは、自らの世継ぎに愛児・モエトゥケンの4男のカラ・フレグを指名した。

イェス・モンケが第三代君主として戴冠する経緯は前章で少し触れましたが、モエトゥケンの早世はチャガタイ家の衰運と混乱を招く遠因となったのです。

チャガタイの滅後、チャガタイ・ウルスは カラ・フレグを推戴します。1242年から1246年です。 イェス・モンケの座位期間は1246年に始まり彼の死に伴い1256年でまでです。

モエトゥケンの宗室がチャガタイ・ウルスの中核を占めていく。 モエトゥケンには 長男・バイジュ、次男・ブリ
三男・イェスン・ドゥア(バラクの父)、四男・カラ・フレグ(ムバラク・シャーの父)がいた。

チャガタイー3-2-3

モエトゥケンは戦没し、家祖・チャガタイが望むモエトゥケン三男・ベルガシを後継者にしたが、ベルガシも13歳で亡くなった。

このため、チャガタイが再指名したのが愛児・モエトゥケンの四男・カラ・フレグであった。 1242年にチャガタイが死去すると カラ・フレグが後継者となり、チャガタイ家の当主になった。

オイラト王家(蒙古族系の有力部族)出身のオルクナ・ハトゥンを娶り、彼女との間に後にムバラク・シャーを儲けたている。

当時、大蒙古帝国は ジュチ家当主・バトゥとトルイ家長子・モンケの連盟が オコデイ家長子・グユクとの皇帝位の後継者争いで内紛していた。 チャガタイ家は 皇位継承問題では 中立を保っていた。

カラ・フレグの叔父・イエス・モンケ(チャガタイの五男)はオコデイ家のグユクを強力に支持した。

このチャガタイ家の支援を得たグユクが 1246年に 大ハーンとして大蒙古帝国第三代皇帝に即位した。

しかし、皇帝・グユクは チャガタイ家の支援にも関わらず 皇帝に即位すると、直ちに チャガタイ家の当主・カラ・フレグは 若年であるから当主にふさわしくないと公言し、グユク皇帝の介入を受けてカラ・フレグは当主の座を追われ、新たにイエス・モンケが即位した。

≪ このカラ・フレグ退位の裏には イエス・モンケの策謀があったのでしょう ≫

グユク皇帝は若死にする。 1251年にトルイ家の長子・モンケが大蒙古帝国第四代皇帝に推戴された。ジュチ家とトルイ家と密約を交わし、オゴデイ家を取り潰そうと策謀を張り巡らしていた。

1246年に先帝・グユクの介入で チャガタイ・ウルスの当主になっていたイェス・モンケは 酒色に溺れて政治には無関心で、政務はもっぱらカラ・フレグの妃であったオルガナが担っていた。

1251年に即位したモンケ皇帝は 翌年の1252年には ジュチ家のバトゥ共々 大蒙古帝国の中枢を完全に掌握し、反対派の粛清を開始した。

チャガタイ家は 先皇帝・グユクを擁立し、オゴデイ家と近しい。 まして、イエス・モンケは強行にグユクを支持し、グユクの介入でチャガタイ家の当主の座を手に入れている。

政務を勤めるオルガナに、モンケ皇帝の圧力が掛かり 介入がはいる。

オルガナは チャガタイ・ウルスを守る為に、第四代皇帝・モンケの介入を受けいれ イエス・モンケを監禁した。

イエス・モンケは当主の座を廃され、代わってカラ・フレグが復位する(1252年)ことになった。

しかし、カラ・フレグは チャガタイ・ウルスの正式な当主として承認してもらうために 大蒙古帝国の帝都・カラコルムに旅立ち モンケ皇帝に謁見 承認された帰路途中で病死したという。

≪ モンケ皇帝の策謀があったと示す史書もあります ≫

その後、イエス・モンケはオルガナとモンケ皇帝の命令で処刑され、オルガナが監国としてチャガタイ・ウルスの摂政に励むが トルイ家などの介入で チャガタイ・ウルスは急速に衰退することになった。

≪ 監国 ; 次期の君主が擁立されるまで 先君・先王の皇后が政治をつかさどる遊牧民の制度のこと。 遊牧民には女性蔑視の考えはありません。 レトビア婚もその表れでしょう ≫

チャガタイー3-2-4

オルガナは、オイラト王家の当主クドカ・ベキの次男・トレルチと、チンギスハーンとその第1皇后・ボルテとの第二皇女・チュチュゲンとの娘です。

同父母兄弟には、ブカ・テムル、ボル・トゥア、バルス・ブカ がおり、同父母姉妹にはトルイ家・アリクブケの第一正妃イルチガミシュや 同じくフレグの第二正妃・グユク・ハトゥンがいる。

オルガナは姉妹がトルイ家やジュチ家に嫁ぐ例が多かったなかで、チャガタイ家に嫁ぐことになった。

彼女は美貌の持ち主だったといわれ、はじめ チャガタイ家のモエトゥケンの息子で第2代君主・カラ・フレグの妃となり、その間にムバーラク・シャーを生んでいる。

『集史』オイラト部族誌によると、チャガタイは彼女を大変可愛がり、「オルガナ・バリ(嫁のオルガナ)」と呼んでいたという。

バーミヤーンで岳父・モエトゥケンを失った後、オルガナはチャガタイ家の次期当主の筆頭正妃となったが、カラ・フレグは 1246年に第3代蒙古帝国皇帝・グユクの内政干渉を受けて廃され、叔父のイェス・モンケが第3代君主となった。

ところが、イエス・モンケは酒色に溺れて政務を顧みず、オルガナが事実上の統治者として統治を行なった。

グユク皇帝死去の後、トルイ家のモンケが皇帝に戴冠すると、1552年に 夫・カラ・フレグがチャガタイ家当主としての皇帝への謁見を済ませ、所領に帰還する途上 アルタイ方面で客死した。

その後、オルガナは トルイ家のモンケ皇帝の政策“チャガタイ家粛清”に協力し、イェス・モンケを処刑し、摂政を開始している。

≪この史実は オルガナは モンケ皇帝の後ろ盾を得て事実上の君主となり、チャガタイ・ウルスを保守するようですが、事実はトルイ家の傀儡として立てられたに近かったと 言えるでしょう。 歴史は皮肉です。 特に、美貌の女性には ≫

1259年に大蒙古帝国四代皇帝・モンケが死去し、トルイ家の兄弟、モンケの実弟達が後継争いで骨肉の戦いを開始した。

クビライとアリクブケの兄弟の戦い(大蒙古帝国帝位継承戦争)です。

アリクブケの第一正妃イルチガミシュは オルガナの姉、オルガナはアリクブケを支持した。 クビライとアリクブケは個々別個にクルルタイを開催し、それぞれに即位式を挙行した。 1260年のことです。

アリクブケの即位式に オルガナは参列した。 しかし、

華北という肥沃な領土を掌握するクビラに対抗するため、アリクブケはチャガタイ・ウルスに干渉して オグアナを廃し、自らと親しかったアルグ(チャガタイの子・バイダルの長子)を新君主に据えると宣告した。

その上、アリクブケは 美貌のオルガナに 義理の従弟に当たる新君主・アルグの妃になるように強要した。

オルガナはカラ・フレグとの間の息子であるマバーラク・シャーを後継者にしてくれることを条件に受け入れ,
歳若いアルグに身を任せた という。

チャガタイー3-2-5

________ 続く_______

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