成吉思汗・チャガタイ一党の覇権 (3)

“アルタン・ウルク/黄金の家・チャガタイ家”の正嗣が栄光

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アルグ(生没年 ? – 1265/6年)は、チャガタイ・ハン国の第5代君主(在位:1260年 – 1265/6年)に就いた。 父はチャガタイの六男バイダルの子、チンギスハーンの曾孫にあたる。

チャガタイ家の中では傍流であったが、大蒙古帝国第四代皇帝・モンケの急死、それに伴う混乱の中で急速にその地位を高めた。

1260年、クビライとアリク・ブケの間で帝位継承戦争が勃発すると、最初 チャガタイ家は摂政オルガナの下 アリク・ブケを支持した。

しかし、アリク・ブケはクビライに連敗した上、経済封鎖策によって深刻な食料不足に陥った。

追い詰められたアリク・ブケはカラコルムに食料を送る事を条件に 側近だったアルグをチャガタイ家当主に任命、チャガタイ家に送り込んだ。

しかし、チャガタイ家領に入りオルクナ・ハトゥンを妃とし、ムバーラク・シャーから実権を奪うと、アルグはアリク・ブケに対して反旗を翻した。

≪ これには、即位時にチャガタイ家の有力者の多くを粛清したモンケ政権(第四代皇帝)の後を継ぐ形でできたアリク・ブケ政権に対するチャガタイ家の反発が背景にあったのでしょう ≫

一時攻めてきたアリク・ブケに本拠地・アルマリク(イリ河渓谷沿い)を占領され、サマルカンドに退却することもあったが、1264年アリク・ブケがクビライに降伏したことで ついに全チャガタイ家領を統一した。

帝位継承戦争集結後、クビライが統一クリルタイの開催を提唱したとき、アルグは真っ先に参加を表明したものの、実現される前に病没した。 1265年の夏であった。

彼の死後、チャガタイ家はムバーラク・シャーが継承 チャガタイの長男の血筋が推戴された。

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ムバーラク・シャー(生没年不詳)は、中央アジアを支配するチャガタイ・ハン国の第7代君主(在位:1266年)に即位した。

父は第2代君主のカラ・フレグ。 監国として国政を執ったオルクナ・ハトゥンを母に持つイスラム教徒であり、篤実で公正な人物と伝えられる。

母・オルクナはアルグによって廃位させられ、彼のアルグの妃になる条件として アルグにチャガタイ家の当主となる大義名分を与えるのと引き換えに、ムバーラク・シャーの後継者としての地位を約束させ 確保していた。

1266年にアルグが死去すると、チャガタイ家内部の総意によって ムバーラク・シャーは当主に推戴されたのです。

しかし、中央アジアとチャガタイ家の統制を図る大蒙古帝国第五代皇帝・クビライが、彼に近侍していたバラクをムバーラク・シャーの共同統治者として派遣した。 すると事態は変化した。

ムバーラク・シャーはバラクによって廃位させられ、ケシクの鷹匠に落とされてしまった。

≪ 美貌であるが故に オルクナ・ハトゥンの望みは 悉く大蒙古皇帝に翻弄されている ≫

ムバーラク・シャーは バラク没後 先君・アルグの遺児カバン、チュベイ兄弟と共にオゴダイ家のカイドィの元に投じ、カイドィを「アカ(兄)」)に奉じて、チャガタイ家の指導者として推戴します。

しかし、後にイルハン朝(クビライの弟・フレグが開闢)に亡命し、カラウスナス軍団の長としてガズナ方面に駐屯し、生涯を終える。

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バラク(生没年 ? – 1270年])は、モエトゥケンの三男イェスン・トアの次男、国祖・チャガタイの曾孫 伯父にブリ、叔父に第2代当主カラ・フレグ、従兄弟に第6代当主ムバーラク・シャーがいる。

1266年 バラクはイリ渓谷に入るとムバーラク・シャーからチャガタイ家当主の座を奪ったが、自らチャガタイ・ウルスの支配を確立すると、クビライの傀儡となることを嫌って大蒙古帝国皇帝(大ハーン)のクビライに反抗した。

バラクは 本来大ハーンの所領であるがクビライ即位前後の混乱によって帰属が曖昧になっていた中央アアジアのオアシス地帯を支配下に置くため、マーワラーアンナフル(トランスオクシアナ)に兵を送った。

がしかし、その支配権を巡って同じく クビライ反旗を翻していたオドデイ家のカイドゥと対立してしまった。

終局の1269年の春 バラクとカイドゥは和議を結び、ジュチ家の当主モンケ・テルムを交えて三者でタラス川の河畔で会盟を行い、チャガタイ家がマーワラーアンナフルの3分の2を領有し、残りをオゴデイ家とジュチ家が分割することを約した。

≪この会盟で 3家がトルイ家(大蒙古帝国皇帝家)の追い討ちを約束したのかも知れません しかし、豊潤なマーワラーアンナフル地域を独占支配しようと三者三様の策を秘めていたのでしょう ≫

バラクは、タラス会盟でなおも所領を欲したため、三者はホラサーン方面へ遠征してその不足分を補う事を約した。

これにより オゴデイ・ジュチ両家との同盟を後ろ盾とし、1270年 クビライの甥で同盟者のアバハを当主とするイルハン朝(フレグ家)の支配地域であるホラサーン地方を奪取するためにアム川を渡った。

この遠征軍に参加したチャガタイ、オゴデイ家の王族たちは、前チャガタイ家当主ムバーラク・シャーや、バラクの後に当主となるニグベイ、オゴデイ家からはグユクの孫・チャバトや甥のキプチャクなどがいた。

しかし、アム川を渡った前後に、遠征に参加していたオゴデイ家の王族キプチャクとチャバトが、軍中でバクラの家臣と口論のすえ離反し、カイドゥのもとへ帰還してしまう事件が起きた。

バエアクの遠征軍はなおも進撃して ニーシャープールを劫略するなどホラサーン東部を略奪したが、ヘラート近郊のカラ・スゥ平原の戦いで、アゼルバイジャンから急派して イラン各地の諸軍を率いたアバカの迎撃にあって大敗した。

チャガタイー3-3-4

この敗北によって、ジュチ・ウルスのモンケ・テルムは アバカの勝利を祝して多数の贈答品を送り、イルハン朝との友好関係の修復を図り、外交上の成功を納めている。

一方でバラクの支配下の諸部族、王族たちがバラクから離反したうえ、 カイドゥとの対立が再燃した。

バラクの即位と圧政を不服とするチャガタイ・ウルスの王族たちはカイドゥのもとに投降し、カイドゥは和解と称して大軍をもって バクラの幕営を囲んだが、バクラはカイドゥとの会談を控えた前夜に 営中で急死した。 カイドゥによる毒殺とする見解が現在の有力な史観ですが・・・・・

バラクの死後、遠征軍に参加していたムバーラク・シャーがカイドゥに帰順するなど、チャガタイ家では利害を異にする王族同士の内紛が起こり、およそ三派に分裂した。

カイドゥ、アバカの介入によってチャガタイ家の領土が荒廃した。

1282年になって、カイドゥと和解したバラクの遺児・ドゥアがカイドゥによって当主に任命されることになりますが、1301年にカイドゥが死ぬまでチャガタイ家のウルス(領土)は その支配下に置かれた。

大蒙古帝国帝位継承戦争 (1260年 – 1264年)

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モンケが死去した際、後継者候補は大きく分けてモンケの実弟たち(クビライ、フレグ、アリク・ブケ等)と モンケの遺児(バルト、アスタイ、シリギ等)の2群があった。

このうち モンケの諸正嗣子は若すぎるため除外され、またフレグも 当時遠くイランの地で遠征を行っており、帝位争奪に参加しようと思っても間に合わないのは明白であり、除外された。

結局 最有力候補はクビライとアリク・ブケに絞られるが、正当性(遊牧民の末子相続の風習)からいっても、立ち位置(当時アリク・ブケは帝国の本拠地たる蒙古高原にあり、クビライは遠征の途中だった)からいってもアリク・ブケがかなり優勢だった。

その上、クビライは生前のモンケと南宋侵攻の方針で対立しており、モンケの旧臣、遺児たちもこぞってアリク・ブケを支持しており、クビライは圧倒的に不利な状況にあった。

しかし、 多くの者がクビライの性急な北還を予想している中で、クビライはあえて南進を続け、鄂州を攻め始めた。

これには 急いで北還することで配下の軍、特に漢人部隊が離散することを防ぐため、そしてあえて南宋遠征軍全体の殿軍を務める形をとることで、モンケの死により散り散りになった諸将を味方に引き入れるという目的があった。

結果的にこの狙いは見事に的中し、遠征途上にあったモンゴル軍の諸将は続々とクビライの下に結集し、特に東方三王家の軍を率いるタガチャルがクビライの陣営に入ったことで、日和見を決め込んでいた多くの軍団もクビライ軍に合流した。

ここに至ってようやくクビライは全軍に北還を命じた。 また、敵中で孤立しかかっていたものの、クビライの南下によって助かったウリヤンカダイ軍も途中で参加・合流し、1260年、クビライは本拠地ドロン・ノールでクリルタイを開き、皇帝(大ハーン)即位を一方的に宣言した。

一方、アリク・ブケ側は なまじ正当性があったが故にかえって積極的に行動を起こすことができず、クビライの即位を聞くと それにせき立てられるようにして、彼もクリルタイを開き大ハーンに即位した。

こうして、帝国始まって以来初めて大ハーンが2人並び立ち、相争うことになったが、クビライ側に就いた将兵の多くがこの戦争に自分たちの未来を賭けており、戦意旺盛だったのに対し、

アリク・ブケ側は ただモンケ以来のカラコルム政権に逆らわなかっただけという者が多く、戦意に乏しかった。

その上、もともとフレグの西征、南宋侵攻という2大遠征で蒙古高原の兵力はさして多くなく、またクビライが華北からカラコルムへの輸出を差し止めるという経済封鎖を行ったため、初戦からクビライ側が優勢だった。

シムルトゥ・ノールの戦いにも完敗したアリク・ブケは 窮余の策として、アルグをチャガタイ家に派遣し、糧秣をカラコルムに送るように命じたが、アルグはチャガタイ家領に入るとアリク・ブケに反旗を翻し、アリク・ブケは東西から挟まれる形となった。

追い詰められたアリク・ブケは、チャガタイ家の本拠地であるイリ渓谷を攻めて占領した。

ここでアリク・ブケは頽勢挽回を図るはずであったが、捕虜にしたチャガタイ家の人間を殺してしまうという致命的な過ちを犯してしった。

もともと、モンゴル軍団は敵に対しては容赦がなかったが、“モンゴル”と呼ばれる帝国支配層に組み込まれた集団の成員が同じ「モンゴル」成員を殺すということはほとんどなく、強い結束の要諦であった。

この処置に部下たちの多くはアリク・ブケを見限り、また明らかに劣勢なアリク・ブケを救おうという勢力はなく、アリク・ブケは孤立無援に陥った。

1263年、イリ渓谷で飢饉が起こると、アリク・ブケ軍は完全に解体し、翌1264年にアリク・ブケは クビライに降伏、足かけ4年にわたる帝位(大ハーン位)継承戦争は終結した。

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______ 続く ______

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