成吉思汗・チャガタイ一党の覇権 (4)

“アルタン・ウルク/黄金の家・チャガタイ家”の正嗣が栄光

チャガタイー3-4-1

バラクの死後、ニクベイが即位したが、カイドゥと対立して殺害され、チャガタイ・ウルスでは王族同士が カイドゥなど外部の力を借りて内紛を始めた。

ニクベイ(生没年 ? – 1271年)は、大蒙古帝国の皇族、チャガタイ家の第8代当主(在位1271年)。
チンギスハーンの次男であるチャガタイの孫にあたりまります。

1270年にチャガタイ家の当主・バラクがイルハン朝統治下のホラサーンに侵入し大敗を喫すると、ニクベイは バラクの軍から離反して逃亡した。

その後、バラクがオコデイ家のカイドゥの軍に包囲された営中で 毒殺と言われる急死を遂げた後、カイドゥの支持を受けてチャガタイ家の傀儡の当主に擁立された。

1271年、ニクベイは傀儡として操られるのを嫌って カイドゥに対して反抗したが、翌年 カイドゥに敗れて戦死した。

ウルス(領地)内部は混乱をきわめ、1275年にはウルスのあるイリ渓谷の中心都市・アルマリックがクビライの子・ノガム率いる軍によって 一時的に占領されるほどであった。

この内紛の末 チャガタイ・ウルスは分裂し、アルグの遺児・チュベイ一派はクビライのもとに逃れ、甘粛の西部に所領を得て東方におけるチャガタイ・ウルスの一派を構成していきます。

一方、チャガタイイ・ウルス本領・イリ渓谷に残った王族のひとりであるバクラの遺児・ドゥアは、はじめ カイドゥと対立していたが、のちに服属し、1282年にカイドゥによってチャガタイ家の当主に任命された。

チャガタイ家の第10代当主・ドゥアの在位は 1283年から1307年の24年間ですが

カイドゥの傀儡としてドゥアが即位したことにより、チャガタイ・ウルスはオゴデイ家のカイドゥ勢力内に完全に取り込まれ、「カイドゥ王国」の一部となった。

チャガタイ家の13世紀四半期に於ける動向を俯瞰しますと、このようですが、今一歩 眺めれば・・・・

ジュチ一党2-3-1

ドゥア(生没年 ? – 1307年頃)は、チャガタイ家の第10代当主(在位:1283年 – 1307年)としてカイドゥの推戴で戴冠する。 チャダタイ・ハン国の実質的な建国者である第7代当主・バクラの子であった。 しかし、実質的のカイドゥの傀儡政権としの船出であった。

1270年に父のバラクが オゴデイ家のカイドゥと対立中に、カイドゥによる毒殺と言われる謎の急死を遂げると、父の仇敵であるカイドウと対立し、

カイドゥの側についたチャガタイ・ハン国・第5代当主のアルグが遺児・チュベイらと 激しい抗争を10年近くに渡って繰り広げた経緯があった。

その後、情勢の変化からか ドゥアは カイドゥに服属することになり、逆にカイドゥと対立するようになったチュベイ一派は、大蒙古帝国の大ハーン(皇帝)であるクビライの政権、大元に逃亡した。

1282年になって 空席となっていたチャガタイ家の当主の座に カイドゥによって据えられた。

しかし、君主と言えども、実際にはドゥア政権はカイドゥの傀儡であり、カイドゥが中央アジアに成立させた「カイドゥ王国」の一部をなす諸王に過ぎなかった。

1301年、カイドゥが“元との戦い”で陣没すると カイドゥ王国内における長老として、 ドゥアの発言力を増し、ドゥアは チャガタイ家の復権をはかった。

ドゥアは まずカイドゥによって生前後継者に指名されていたオロスを遠ざけて、カイドゥの長男・チャバルを後継者に推し、チャバルの即位を実現させた。

1304年、ドゥアは チャバルとともに、クビライの孫・テルムのもとに使者を送り、大ハーン・クビライへの臣従を誓って 大蒙古帝国の再統合の実現を誓っている。

この後、予期したごとく、チャバルとオロスが オゴデイ家の主導権をめぐって抗争をはじめると、大蒙古帝国皇帝は元軍を動かした。

チャガタイ・ハン国の君主としてドゥアは オゴディ家の内紛を好機とみて アルタイ山脈を越え、ジュンガリアに侵攻してきた元軍と連携して オゴデイ家の各勢力を各個撃破していった。

1306年には、ドゥアはチャバルの追放に成功し、アルタイ山脈以西の「カイドゥ王国」の旧勢力圏を統一して、中央アジア一帯に チャガタイ・ハン国の広大な支配圏を築き上げた。

ドゥアの躍進が、モンケの粛清以後、政権としては解体同然であったチャガタイ家のウルスを実質的に後世チャガタイ・ハン国と呼ばれる姿に建国したと言えます。

ドゥアは さらに ヒンドゥークシ方面にも進出して アフガニスタンまで勢力下に置き、チャガタイ・ハン国の最盛期を築き上げたが、まもなく病を得て死去した。

チャガタイー3-4-2

チャガタイ・ハン国・第5代当主のアルグが遺児・チュベイ(生没年不詳、チャガタイの曾孫)は、上記のように ドゥアとの政権闘争に敗れ、大蒙古帝国の大ハーン(皇帝)であるクビライの政権、大元に逃亡したのですが 大蒙古政権下 彼にリヴェンジを覗っていた。

過日、チュベイ兄弟は チャガタイ家傍系から出た父・アルグの死後、正嫡子・ムバーラク・シャーが第6代当主に即位すると、兄弟揃って 当主に従い 中央アジアのチャガタイ・ウルスに留まっていた。

しかし、ムバーラク・シャーの従兄弟・バラクが第7代当主に割って入るとバラク一門との間に間隙が生じ、

1271年にバラクが 不可解な暗殺ごとき急死で他界すると、ムバーラク・シャーおよび兄・カバンと共に、バラクと対立していたオコデイ・ウルスの支配者・カイドゥに誼を通じて バラクの遺児・ドゥアらと対立した。

しかし その後、カイドゥによってさらに傍系のニグベイが擁立されるなどしたためチャガタイ一門の間の内紛が激化し、チュベイとカバンの兄弟は カイドゥとも対立するようになり、袂を割った。

その結果、チュベイ兄弟は大ハーン、クビライのもとに亡命し、クビライは チュベイに河西回廊(甘粛省)の西部に牧地と領民を所領として与えたのです。

以後、チュベイはクビライ一門の政権である大元に属し、クビライと対立する西方のカイドゥ勢力に対する河西回廊方面の戦線の指揮をとる安西王・マンガラ(クビライの三男)の指揮下に入る。

河西回廊西部は チャガタイの存命中にヤガタイ・ウルスの勢力圏に組み入れられていた縁により、チュベイの他にも大チャガタイ裔王族の所領が集中していた。

≪ 現代、この地方の蒙古族は少数ですが、青海・チベット方面には その末裔は多い ≫

1282年、ドゥアが父の仇敵・カイドゥと和解して その後ろ盾により、天山北西麓のイリ川渓谷を本拠地とする チャガタイ家当主の座に就いた第10代当主・ドゥアと、

クビライの傘下にあって河西回廊西部にいるチャガタイ系王家の末裔の間で、

中間のハミ盆地から天山山脈東麓に横たわる、ウイグル人居住地域の支配圏を巡る争いが勃発する。

≪ ハミ盆;地河西回廊から万里の長城の北側ルートと敦煌からのシルクロード本道が合流する大オアシス都市、各時代 中国王朝に“ハミ・ウリ”を献上して名高い地域です ≫

ジュチ一党2-1-5

チュベイは 沙州(敦煌)周辺を支配することから この戦いはチャガタイ家・ドゥアへの復讐戦争となった。

チュベイは最前線に立ってしばしば軍を率いることになり、クビライ傘下のチャガタイ裔の中で次第に頭角を現していった。

クビライの孫・テルムの治世後期にあたる1304年には、チュベイは威武西寧王に封ぜられ、クビライ家一門に肩を並べる有力王族の座を認めらている。

そして1307年、大元帝国第二代皇帝・テルム没後の大ハーン位争いに伴って、マンダラの後継者である安西王・アナンダが処刑されると

チュベイの勢力を指揮する上級権力が消滅し、チュベイは河西地方における最高軍権を握った。

新ハーンである大元帝国第三代皇帝・カイシャが即位すると カイシャはチュベイを豳王(ヒンオウ)に封じ、チュベイ一門は最高位の皇族の待遇を受けることになります。

西方でドゥアが磐石の政権を中央アシアに確立していく一方、チュベイがチャガタイ・ウルスの東方で政権を確立して行ったのです。

チュベイの死後、豳王の王号と河西のチャガタイ系王族の盟主の地位はチュベイの子・ノム・クリ、孫ノム・ダシュ、と順次 チュベイ家の嫡流によって相伝されて行きます。

100年以上のハミ王家存続しますが、チャガタイ・ハン国の継承国・モグーリスタン・ハン国に再び支配され、1391年には最後の豳王が明軍によって殺害されるのです。

≪ ハミ王家の遺構は復元され、その簡素な佇まいは美しく、現代でも子孫が王宮にで生活していました ≫

チャガタイー3-4-3

ドゥアはカイドゥの存命中その忠実な同盟者として振る舞い、アルタイ山脈方面でクビライ家の大元と、甘粛方面で同じチャガタイ一族のチュベイと戦った。

しかし、1301年に戦傷がもとでカイドゥ死亡すると、ドゥアはカイドゥの後継者問題に介入して チャガタイ勢力の回復をはかった。 カイドゥの傀儡から脱却を模索した。

カイドゥの後継者・オロスに抗し、ドゥアはカイドゥの長男チャバルを支持し、チャバルを即位させた。

チャバル(生没年 ? – 1315年)は、カイドゥの長男ですが、母親の身分が低く、後継者候補から外されていた。 オロスは異母実弟です。 ドゥアはオコデイ家の混乱を謀略した。

これによって、オロスとチャバルは対立し、オコデイ家が混乱すると、ドゥアは チャバルを見捨て、アルタイ山脈を越えて ジュンガーリアに侵入してきた元軍と協力して オゴデイ家の勢力を滅ぼしてしまった。

子の様にして、チャガタイ・ハン国第11代君主・ドゥアは かつてのカイドゥ王国のうち アルタイ山脈以西の遊牧民とオアシスを支配下に組み入れることに成功し、チャガタイ家によるモンゴル帝国の地方政権を樹立した。

チャガタイ・ウルスは“チャガタイ・ハン国として 歴史に成立せしめたと言えます。

以降 ドゥアは ヒンドゥークシュ方面に進出し チャガタイ・ハン国の最大版図を実現したが、1306年末から翌年にかけて病没している。

ドゥアの死後、後を継いだのはその子のコンチュクであったがわずか2年後に没し、代わって即位したのはチャガタイ家の傍系から出たナリクであった。

チャガタイ・ハン国の実質的な建国者であったドゥア一門とその部将たちはこれに対して危機感を抱き、ドゥアの子・ケベクを指導者として反乱を起こし、ナリクを倒してこれを殺した。

続いて、ドゥア一門の主力を率いてヒンヅゥークシュ・アフガニスタン方面に駐留していたケベクアの兄・エセン・ブカがイリ渓谷に帰国すると、

ケベクは エセン・ブカにハン位を譲った。

エセン・ブカは 弟・ケベクの功績を認めて、彼にハン国の経済的中心であるマーワラアンナフルとフェルガナ盆地の支配権を委ねたので、チャガタイ・ハン国は建国後わずか数年にして 政治的な分権化に進み始めた。

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その後のオゴデイ家は? そしてチャガタイ家は東西に分裂する

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________ 続く ________

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