成吉思汗・チャガタイ一党の覇権 (5)

“アルタン・ウルク/黄金の家・チャガタイ家”の正嗣が栄光

チャガタイー3-5-1

カイドゥの後継者・オロスに抗し、ドゥアはカイドゥの長男チャパルを支持し、チャバルを即位させた。

カイドゥの支援でチャガタイ・ハン国・第11代当主になったドゥアは オロスとチャバルは対立させ、オコデイ家の混乱を策謀すると、チャバルを見捨て オゴデイ家を亡ぼしていった。 ・・・・・と話しました。

・・・・・ オコデイ家のその後について書いておきましょう。 資料では“チャパル”以降の継承が見当たりません。・・・・・・

チャパル(生没年 ? – 1315年)は、オゴダイ・ウルスの盟主・カイドゥの長男、しかし 母親の身分が低く、後継者候補から外されていた。

1301年、父・カイドゥが大元ウルス(元朝)との戦い(カイドゥの父・カシと元朝皇帝・クビライの覇権抗争)で受けた傷がもとで死亡すると、

実力のないカイドゥの子らに代わってマワーラアンナフルに影響力を有していたチャガタイ家当主・バラクの息子・ドウアが 発言力を持つようになる。

チャパルはドゥアの後援を受け、カイドゥが生前に後継者に指名していた弟・オロスとの間で オゴデイ家の後継者の地位を巡って内紛を始めた。

この過程で1304年、ドゥアとともに元に遣使し、大元ウルスを祖父・クビライから継いだ大ハーン(元朝皇帝)・テルムに臣従を誓い、カィドゥのもとで30年来続いていた中央アジア諸王家と大元ウルスのクビタイ皇帝家(宗祖・トルイ)との争いを終結させた。

しかし、オロスとチャパルの争いは時を経るに従ってオゴデイ家の分裂を促進させ、そこに ドゥアのチャガタイ家と、元王朝の懐寧王・カイシャン率いる元の蒙古高原駐留軍が介入した。

オコデイ家の本拠地・ジュンガリア(現在の新疆ウイグル自治区北部)は 西のイリ川渓谷地方を本拠地とするドゥアの軍と 東のアルタイ山脈を越えて侵入してきたカイシャンの軍によって挟み撃ちされる形勢になった。

1306年に 大元ウルスのカイシャン軍がジュンガリアを平定した。

これにより、旧オゴデイ家領の遊牧民は ドゥアの保護下に入り、いまや邪魔者としてドゥアに追われる身となったチャパルは 1310年ついに元に投降した。

このころ 大元ウルスの皇帝(武宗)となっていた懐寧王・カイシャンはチャパルの来帰を喜び、曽祖父クビライの時代に中国内のカイドゥの領地として設定されていた河南省南部の地を授け、汝南に住まわせた。

1315年、チャパルはカイシャン皇帝の弟で次の大元王朝の第八代皇帝・アユルバワダ(仁宗)によって汝寧王の爵位を与えられ、同年に没した。

その後は 歴史から消えている。

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チャガタイ・ハン国は ドゥアの死後(1307年)、後を継いだのはその子のコンチュクであったがわずか2年後に没し、代わって即位したのはチャガタイ家の傍系から出たナリクであった。

チャガタイ・ハン国の実質的な建国者であったドゥア一門とその部将たちはこれに対して危機感を抱き、ドゥアの子・ケベクを指導者として反乱を起こし、ナリクを倒してこれを殺した。

1318年頃にはケベクがハンに即位するが、彼は即位前の本拠地であったカシュカダリアのカルシに宮殿を築いて居座った。

このころより、遊牧民の都市定住化、それにともなうイウラーム化、および言語的なテュルク化が進んだが、それが遊牧国家特有の、部族集団間の政治的対立を深刻なものにしていったのです。

チャガタイ・ウルスは始祖・チャガタイの時代こそムスリムの宗教的慣習を遊牧民の法令で規制して抑圧したが、チャガタイの曾孫にあたるムバーラアク・シャーがその名からもムスリムであることが明らかなように、

チャガタイの孫、カラ・フレグやオルクナ監国以降の世代では、中央アジアの住民の大多数を占めるムスリムに対して融和的であった。

ムバーラアク・シャーより後は、ケベクまでは仏教徒であったとされるが、1324年に即位した弟のタルマシリは イスラムに改宗し、足繁くモスクに通う敬虔なムスリムとなっていた。

このころより、マーワラーアンナフルのオアシスに定着し、都市文明に慣れ親しんでいた西タガタイ・ハン国の人々は、ハン国の始祖の名を取って自らを「チャガタイ」と自称するようになった。

チャガタイ人たちはイスラム化・テュルク化が進み、後年の歴史家に「チャガタイ・トルコ人」と呼ばれることもあります。

≪ トルコ人はテュルク人と同義で使われている。 前作の“騎馬遊牧民族の移動”にて、西に移動した[突厥]⇒トッケッ⇒トックッ⇒トルク(ティルク)⇒トルコと変化したのでしょう ≫

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これに対して、東のセミレントエやイリ渓谷など天山山脈北麓の草原地帯で純粋な遊牧生活を保っていた諸部族は、自身を「モグール」と自称してモンゴル帝国以来の遊牧民としての矜持を誇り続けた。

モグールたちは蒙古の伝統を失ったチャガタイ人たちを「カラウナス(混血児)」と呼び、チャガタイ人たちは都市文明を理解しないモグールを粗野な人々と蔑んで「ジェテ(夜盗)」と呼んだ。

このような分裂傾向も加わって、タマリシリンより後のチャガタイ・ハン国は、ドゥアの子孫の間でハン位が頻繁に交代される混乱に陥り、20年ばかりの間に何人ものハンが改廃された。

1340年頃より後には、チャガタイ・ハン国はおおよそパミール高原を境界として政治的に完全に東西に分裂していた。

分裂後のチャガタイ・ハン国のうち、イリ渓谷およびセミレンチエの草原を中心に東トルキスタンを支配した東部のモグールたちの政権を東チャガタイ・ハン国、

マーワーラアンナフルを中心に西トルキスタンの南部を支配した西部のチャガタイ・トルコ人たちの政権を西チャガタイ・ハン国というのです。

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ゴンチェク(生没年 ? – 1308年)は、中央アジアを支配したチャガタイ・ハン国の第12代君主(在位:1307年 – 1308年) 父は第11代ハーンのドゥア。 1307年に父が死去したため、跡を継いだ。

短い治世の間にはオゴデイ家の王族・キュテスベによる反乱が起きるが、傍流であるブリ家の諸王・ヤサウルとジンクシによって反乱は鎮圧される。 短命であり、統率力も無かったようだ。

1308年に没し、没時にドゥアの子の中に後継者候補と言える人物が不在であったため、チャガタイ家の長老格であるブリ家のナリクがハーン位を襲った。

ナリクは“アルタン・ウルク/黄金の家族”の血筋ではあったが、傍系であった。 母方の影響を多大に受けて成長した。

ナリク(生没年 ? – 1309年)は、チャガタイ・ハン国第13代君主(在位:1308年 – 1309年)に就いた。 彼はチャガタイの孫であるブリの孫で、カダキ・セチェンの息子です。

ケルマーン・カラヒタイ朝(金帝国に亡ぼされた遼帝国の後嗣がイリ渓谷を基盤に建国したカラキタイ/西遼、の後裔王朝)君主・ルクヌッディーン王女・トゥルカーンを母に持ち、ナリクはイスラム教を信仰していた。

1308年にゴルチェクが死去すると、ドゥア一門に適当な後継者がいなかったため、チャガタイ家の長老格である彼がハーンに即位した。

即位後は 母の影響のあり、イスラム教の保護を推進すると共に、ドゥアの一族とドゥア派のアミール(貴族)を圧迫したため、ナリクの従兄弟・オルグが ドゥア家の人間の即位を要求して挙兵した。

ナリクはオルダを敗死させ、ブカ・テルム・ハーンの孫・ヤサルを初めとした諸王の反抗も鎮圧する。 1308年の粛清事件です。

ヒジュラ暦708年(1308年 – 1309年)、ドゥアの子の一人・ケベクは、ナリクに仕えていたドゥア派のアミール達に助けを求め、ウーザン・バートル等のアミール達は求めに応じた。

アミール達によって祝宴の席に火が放たれ、酔いつぶれていたナリクと諸将は殺害された。 “ケベクの変”を起こしたケバクは 自己を冷静にみる聡明な人物であった。 長兄にエセン・ブカがいた。

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エセン・ブカ(生没年 ? – 1320年)の父は第11代君主・ドゥアで、ゴンチャク(チャガタイ・ハン国第12代君主)や ナリク・シャー、ケベク(チャガタイ・ハン国第15代君主)、イルジギデイ(チャガタイ家第18代君主)、ドレ・テクム、タルマシリン(西チャガタイ・ハン国君主)、エフブゲン 等とは異母兄弟。 三男であった。

父の存命中はアフガニスタン方面に駐屯していた。 父の一翼を担い、イルハン朝の東部を攻略していた。

1308年に 長兄・ゴンチェクが死去すると、傍流のナリクが簒奪するが、これに対して行動を起こすことが出来なかったという。 弟・ケベクが政権を取り戻していた。

“ケベクの変”でナリクが暗殺された後に クリルタイ(王族・貴族・部族長の会議、国会)がケベクによって開催され、エセン・ブカがハンに選出され、チャハタイ・ハン国の第14代君主(在位:1309年 – 1320年)に推戴された。

エセン・ブカは アミール(貴族)達を収握する弟・ケベクと共同統治を行なった。 事変以降、クリルタイ開催までの期間はケベクが統治していた経緯を踏まえての判断であったが・・・・・

エセン・ブカの治世、ドゥアの代に臣従を誓った元朝との対立が再燃する。

大元王朝と密接なオルジャイトゥ・ハン(イルハン朝の第8代君主)と内通した甥のティムール・クルカンがイルハン朝に臣従、イルハン朝と大元王朝によるチャガタイ・ハン国挟撃の計画、元との国境地帯(オゴデイ家・チュベイのリヴェンジ)における放牧地を巡っての交渉の決裂、これらの事件を経て2国との軍事衝突に至った。

エセン・ブカは イルハン朝への報復に先立って、アルタイ方面に駐屯している元朝の軍を攻撃して抗議の意を示すが敗北、 領内を通行する元の使節を殺害して反抗の意思を貫き通す。

翌1315年に元軍と交戦するが、元のキプチャク人軍人チョンウルにイリ渓谷東部への進攻を許した。

同年、ケベクを初めとする王族が率いる軍隊をホラサーン地方に派遣して イルハン朝の軍隊を破り、4か月の間掠奪を行った。

しかし、元の再度の攻撃に備えて帰還せざるを得なくなり、帰途で遠征に従軍していた王族ヤサワルのイルハン朝亡命の計画が発覚し、ケベクは彼の処罰を求めた。

エセン・ブカは 大元王朝の阻止には失敗したが、ヤサウルと彼に追随する王侯貴族の亡命はハンに反抗的な勢力が国内から消え、自らの統治(中央権力)の強化に資し、国力を高めていく。

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ケベグ(生没年 ? – 1326年)は、チャガタイ・ハン国第13代君主・第13代君主・ナリクが即位した当時のケベクは 未だ 年少の皇子であった。 ナリクはチャガタイ家に血筋からは傍系であった。

ナリクは 宗家・ドゥアの一族とドゥア派のアミール(貴族)を圧迫しする強権政治を行なった。反対勢力を敗死させる粛清事件を起こしていた。

ケベクは ドゥア一門に与する貴族の力を借りてヒジュラ暦708年に弟のエブゲンと共にナリクを殺害している。

王位を巡る混乱に乗じて、大元王朝のテルム(成宗)皇帝のもとに亡命したカイドゥの息子・チャパルがオゴダイ家一族を率いて チャガタイ家の領土に侵入すると、ケバクは 自らチャパルを迎え撃つため東方の河西回廊方面に出陣するも、敗北した。

しかし、タリクの甥であるアリー、ムバーラク・シャーの子・シャイフ・ティムール、チャガタイ・ハン国領内のオゴデイ家の諸王の助けを受けてチャパルと再戦して勝利を収め、チャパルを中国に放逐した。 1308年のことです。

凱旋したケベクは 1309年の夏にクリルタイを招集し、アフガニスタンの駐屯から帰国している兄・エセン・ビカをハンに推戴し、自ら身を引いていた。

即位したチャハタイ・ハン国の第14代君主・エセン・ブカからトランスオクシアナ(マーワーラアンナフル)とフェルガナの統治権を与えられ、ハン国の共同統治者となった。

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_______ 続く _______

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