成吉思汗・チャガタイ一党の覇権 (6)

“アルタン・ウルク/黄金の家・チャガタイ家”の正嗣が栄光 

チャガタイー3-6-1

河西回廊にて チャパルを中国に放逐したケベクは

1309年の夏にクリルタイを招集し、アフガニスタンに駐屯していた兄のエセン・ブカをハンに推戴した。

チャハタイ・ハン国の第14代君主に即位したエセン・ブカから ケベクは トランスオクシアナとフェルガナの統治権を与えられ、ハン国の共同統治者となった。

ケベクは 1313年に他のチャガタイ家の王族を率いてイルハン朝が有するホラーサーン地方に侵攻した。

遠征中に同行した王族・ヤサウルがイルハン朝に内通していることが発覚し、1317年にケベクはヤサウル討伐を命じられるが大敗、領地を略奪され、ケベクの配下にもヤサウル側に付くものが現れた。

敗戦の後も ヤサウルを追撃するが、オルジャイトゥ・ハン(イルハン朝の第8代君主)の援軍から攻撃を受けるに至って、ヤサウルの亡命を許すことになった。

1320年に 兄・エセン・ブカが死去すると、跡を継ぐ。

ケバクは チャハタイ・ハン国の第15代君主に就く。 同年にヤサウルの専横を疎んじるオルジャイトゥ・ハンとヘラートのクルト朝から共同出兵を打診されるとホラーサーンに派兵し、ヤサウルを討った。

ケベクは 即位前に本拠地としていたカシュカダリヤに宮殿を建てて定住生活を営み、その宮殿はウイグル語で宮殿を意味するカルシ(現在、ウズベキスタン領内)と呼ばれ、近郊を圧する佇まいであったと言う。

内政においては徴税請負人制度を廃止して税制を改め、国内の行政区画をトゥメン(10000人の徴兵が行える単位)に区分した。

イルハン朝のガサン(イルハン朝の第7代君主)に倣い歴代のハーンで最初に自身の名前を記した貨幣を鋳造し、この貨幣はケベクの名前を取って「ケベキ」と呼ばれ、その呼称はティムール帝国でも使われた。

また、エセン・ブカの時代に敵対していた元朝とイルハン朝との修好にも尽力している。

ケベク・ハーンはムスリムではなかったが、国内の宗教と文化を公平に扱い、後年のティムール朝の歴史家よりその公正性を称えられた。

ダルマシリン・ハン治下のチャガタイ・ハン国を訪れた旅行家イブン・バットゥータも、ケベク・ハーンが一般民衆に狼藉を働くアミールを罰する逸話を紹介して、その公平な姿勢を称賛しています。

ケバクの施策は定住民からは歓迎されたが、遊牧を営む貴族の中には否定的な者も少なからずいた。

彼の治世から都市生活とイスラムの習慣に慣れた西部に住む定住派と、東部の遊牧を伝統とする遊牧派の対立が生まれ、1326年に彼が死去した後からチャガタイ・ハン国は定住派と遊牧派による東西の分裂が始まるのです。

チャガタイー3-6-2

≪ クルト朝;クルト朝(1245年 – 1389年)は、イラン東部のハラーサーン地方を支配したイスラム王朝、カルト朝とも言う。

クルト朝の創始者はマリク・シャムス・ウッディーン1世、アフガニスタン中部のゴール州の豪族であるルクン・アル・ディーンの縁戚とも、アフガナスタンからインド北部に勢威を誇ったゴール朝の生き残りともいわれる。

モンゴル帝国軍がアグガニスタン・イラン方面に進出してくる前にマリク(王)を自称しており、ヘラートで勢力を持っていた。

主君だったルクン・アル・ディーンは1245年に死去しており、その直後に マリク・シャムス・ウッディーン1世は独立してクルト朝を創設する。

モンゴル帝国の勢力が及ぶとこれに従属し、インド遠征など大蒙古帝国建設途上に蒙古軍団の軍役に従った。 やがて フレグのイルハン朝に従属し、主にジュチ・ウルスとの戦いに従軍する。

宗主国のイルハン朝の嫡流が1335年に断絶すると、乱立した王族のひとりであるトガ・テムル形式的には服従しながらも、イルハン朝断絶後に群雄として割拠したサルバダール朝と戦って勢力を拡げ、全盛期を迎えた。

しかし 後に 西チャガタイ・ハン国の攻撃を受け、宗主のトガ・テムルも死んだため、西チャガタイ・ハン国に服従して全盛期は短期で終焉した。 ≫

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チャガタイ・ハン国は定住派と遊牧派による東西に分裂した。東チャガタイ・ハン国は遊牧派で蒙古高原から始まったジンギスハーンの“ヤサ”を重視し、伝統を重んじた。

パミール高原の東に広がるイスラム教世界に移動したチャガタイ家一党はイスラム化と共にペルシャの文物に染まり、オアシス都市に定着していく。

イルジギデイ(生没年 ? – 1330年)が、チャガタイ家第18代君主(1327年?-1330年?)として推戴された。 第12代君主であるドゥアの子である。

ゴンチェク、エセン・ブカ、ケベク、ドレ・テムル、タルマシリンらは異母兄弟にあたる。

1326年 兄・ケベクが他界すると共に チャガタイ・ハン国が東西に分裂し、東チャガタイ・ハン国の初代君主となった。

西はイスラム化や定住化が進みイスラム教を国教としたため、イルジギデイはキチスト教を国教としている。

当時 首都のアルマリクは 中央アジアにおけるネトイスト派キリスト教の一大聖地であり、有名であった。

先代君主・ケベクの善政で国は富 東西交易が盛んで 近隣諸国との友好が保てた。

イルジギデイは 1330年に死去し、ドレ・テムルが継承(在位:1330年 – 1333年)し ブサンが東チャガタイ・ハン国の第三代君主に就いた。 在位期間は1333年から1334年の一ヵ年未満である。

ブサンはドゥアの孫、ドレ・テムルの子だった。

1334年に西チャガタイ・ハン国のタルマシリン(叔父)を殺害して同地を制圧。 ブサンはイスラム化の進んだ西側を蔑視し イスラム教徒を迫害した。

西チャガタイ・ハン国のアミール(貴族)らが 西側を統合しようとするブサンに対抗して タルマシリンの長子・ハリル(西チャガタイ・ハン国第二代君主)を擁立して反乱を起こした。反乱は 日々拡大し 西チャガタイ・ハン国の諸王も反乱軍を支援した。

ブザンは西側から完全に追放され、東西の軍事対決となり、幾度もの交戦の後、ブサンはハリル敗れている。 その後、

東チャガタイ・ハン国は ジンクシ(在位:1334年 – 1338年、ドゥアの子・エブゲンの子)、イェスン・テムル(在位:1338年 – 1340年、エブゲンの子)、アリー・スルタン(在位:1340年、チャガタイの弟・オゴデイの5代孫)が譜代の諸王に守られ王朝を継承していく。

しかし、いずれの君主も 短期間で 安定した政権を確立していない。

1340年以降の約十年間は東西のチャガタイ・ハン国は西側の君主を推戴して、再統合するのですが、カシュガールの南方 ヤルカンドで トゥグル・ティムールが権勢を拡大していた。

トゥグル・ティムールはイスラム神秘主義の信奉者であった。 また、ドゥアの子・エミル・ホージャの正嗣子あることへの疑惑があった。

トゥグル・ティムールは天山山脈南部域を支配し、更に北上 イリ渓谷を占有した。 渓谷に沿ってチャガタイ・ハン国へ攻め込み、攻防を繰り返していきます。

何時しか、東チャガタイ・ハン国を継承するモグーリスタン・ハン国を自称し君主に就いた。

1348年 トゥグル・ティムールは チャガタイ家第24代君主として統治(在位:1348年 – 1363年)し、以降東タガタイ・ハン国はとして歴史に その名を留める。

チャガタイー3-5-3

トゥグル・ティムールの出自については、チャガタイ・ハン国の12代目のドゥア・ハーンの子であるエミル・ホージャの落胤と考えられています。

天山山脈を拠点とする東・チャガタイ・ハン(モグーリスタン・ハン)国内の有力氏族であるドグラト部のブラジによってハンに擁立されている。

西チャガタイ・ハン国は 1359年に有力者・アブドッラーフが暗殺されて以降、各地に部族の長が割拠する分裂状態に陥っていた。 トゥグル・ティムールはこの混乱に乗じ、西チャガタイ・ハン国の指導権を収握した。

1360年 トゥグル・ティムールは 西チャガタイ・ハン国君主として、タシケントより 西チャガタイ・ハン国が支配する領地内に 西トルキスタン軍を派遣し、 バルラス部の指導者ハージー、スルドゥス部の指導者バヤンら、西チャガタイ・ハン国の有力エミール(貴族)に勝利を収めた。

トゥグル・ティムールに降伏した貴族の中にはハージーの甥・テムールもおり、トゥグル・ティムールはティムールにキシュ(現在のシャフリサブス)を領地として与えている。

モグリースタン軍が本国に帰還した後に、ハージーは反旗を掲げると、1361年3月から4月の間にトゥグル・ティムール自身が西トルキスタンに進攻する。

トゥグル・ティムールはアム川を越えてヒンヅゥークシュに至り、スルドゥス部のバヤン、ヤサウリー部のヒルズら 敵対者を捕らえ処刑した。

西トルキスタンのエミールはトゥグル・ティムールに降り、ハージーが暗殺された後に バルラス部の指導者となっていたティムールも彼の主権を認めたている。

トゥグル・ティムールは1362年に子のイリヤース・ホージャを西トツキスタンの統治者に任命してモグーリスタン(東チャガタイ・ハン国)に帰国し、一時的に東西チャガタイ・ハン国の再統一がなされた。

しかし、イリヤース・ホージャの補佐役に任じていたティムール(前記のティムールとは別人、このテームールが後年にティムール王朝を開闢)、アブドッラーフの甥・フサインら モグリースタンの支配を拒むアミールたちの反乱が起きた。

1362年に モグリースタン軍はティムールを撃破するが、敗戦の後に勢力を盛り返したティムールによって、1363年に西トルキスタンはトゥグル・ティムールの支配を離れ、同年に彼自身も没したのです。

≪ 彼の遺体はアルマリクに葬られ、彼を祀った霊廟が霍城県(コルガス)に現存する。 霊廟を礼拝に訪れたが、タスベリーの壁は一部剥がれ、栄華の跡を残すのは何も無く 林檎園に囲まれた空間は 誠に静かでした。

愛妃と共に眠ると聞き、イスラム庭園様式で造られたであろう廟内で咲くバラの花が当時からのカブであればと、思いに耽った ≫

チャガタイー3-6-4

トゥグル・ティムールは東チャガタイ・ハン国の君主(ハーン)で最初にイスラームに改宗した人物です。

伝承によれば、スーフィー(イスラム神秘主義)のジャマール・アル=ディーンと 即位後に イスラームに改宗することを約束し、即位後に約束通りジャマール・アル=ディーンの子であるアルシャド・アル=ディーンの導きによって改宗し、配下のモンゴル人にも改宗を勧めた。

この時に アルシャド・アル=ディーンが奇蹟を示したことでモンゴル人は畏敬の念を抱き、トゥグル・ティムールと共に160,000人のモンゴル人も改宗したという。

しかし、トゥグル・ティムールの改宗後ただちに、モグリースタンがイスラム国家化した訳ではなかった。

東トルキスタンの仏教徒社会(蒙古族はラマ教に信仰で、大元王朝はチベットのラマを国師としている)に急激な変化は起きず、仏教寺院は免税特権を与えられていた。

宮廷内も西チャガタイ・ハン国ほどのトルコ(テュルク)化は進んでおらず、モンゴル語が公用語の地位を保っていたということです。

ジュチ一党2-7-1

_______ 続く _______

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